プロローグ2
棚から散歩の時にしか着ない服を取り出し着替える。
「(久しく外に出ていなかったからか若干古臭い棚の臭いがするな……)」
もはや時間の経過にすら鈍くなってしまってたっていうのかと哀愁を感じながらもそそくさと腕を通す。
「懐中電灯は持ったし携帯も持った」
簡単に手持ちを確認してベッドから降りてみる。
ずしっと足に筋肉が入る感覚がする、次に冬の病室の床のかなりひんやりとした感じ。
「結構歩けるもんだな」
最近は身体に負担がかからないようにとトイレに行く際には車椅子を使っていたが、どうやらまだ自分の身体はそこまで弱り切っていなかったらしい。
「(それにしてもここが個人部屋で良かった、もし共同部屋だったりでもしたら口うるさい老人とかに今頃ブザーの嵐をお見舞いされていたことだろう)」
横引きのドアを開き廊下に出る。
久しく見ていなかった夜の廊下は緑の蛍光灯がカチカチと音を立てていてなんとも不気味に演出されていた。
「まるで異世界だな」
自分の部屋は見慣れた場所でこじんまりとしていることもあって夜でも普通の空間に感じられるのに数歩歩き廊下に出れば広い空間に果てのない先の暗闇がある。
ビュゥオオオ
ガタガタッ
外は不協和音の大合唱会。
「(僕の部屋って意外に暖房の温度高かったんだな)」
最初地面に足をつけた時には何とかいけるかもなんて思ったが甘かった。
末端からくる冷えが全身に行き渡り身体の体力をジリジリと蝕んでいく。
RPGの毒状態ってきっとこんな気分なのかな、と冷静に分析している場合ではない。
視覚が奪われている分他の感覚が鋭くなっているだけだと言い聞かせ足早に廊下の先の希望を目指す。
「(あれ? そういえばさっきから足だけじゃなく背中も冷たくなってきたような)」
僕の脳裏に良からぬ存在がイメージされる。
「(いや待て。アレは夏の風物詩だしそもそもここは病院……って病院なら尚の事出るじゃないか! いや、出ない! アレは昔の人が思いついたフィクションに違いないのだから!)」
フィクションが大好きなはずの礼はこの時ばかりはフィクションを全否定するのであった。
礼はある対象に関することを考えないようにただひたすら出口を目指して歩いていく。
そう、奴らは脳科学的にはいないって証明されている。いるはずがない、そう、いるはずがないんだと。
そんなことを頭で唱えながらなんとか長い階段を一歩一歩確実に降りていくとついに入口が見える。
十一月だというのに外は真っ白に染まって見えた。
「(よし、やっと出れる。なんだか今ならインドアに腐りきってしまった僕でも外の方が落ち着けそうだ)」
ってあれ?
そこで礼は階段を降りきったすぐ横で出会ってはいけないものを見てしまった。
この時間帯だからこそ見間違えようがないもの。
白く煌々と光るその女性はうっすらと笑みを浮かべ礼に微笑みかけてきた。
「おや? もしかして……私が見えるのかい?」
「も、もも、もしかして、その、幽霊とかやってたりします?」
「さあねえ、幽霊ってのが正しいか知らないけど確かに私は万人から恐れられる人だよ」
「じゃ、じゃあ……うわああああああああああああああ!」
もう何が何だか分からなかった。
けどとにかく走るしかなかった。
足の冷え? 心臓の痛み? そんなものは今はどうなったっていい。
もう何がなんだか分からないけど今はただ走り切らないといけない。
とにかく僕は病院のドアを腕で押し開け外に陸から海に逃げ込み魚のように死に物狂いで抜け出た。
「ゼェ……ゼェ……」
どれだけ走ったことだろう。
今更足が悴んで感覚を失っていることに気付く。
頭には柔らかな雪が積もっている。
視界に眩しい街灯がささる。
久々に出た外は、普段の散歩では絶対に拝むようなことのない場所だった。
汗をかいた身体に冬の冷え切った風はよく響いた。
しかももう何年も温室育ちの礼にとっては巣から落ちた雛鳥も同然だった。
ついでにこの冷え切った風で今の礼のこの思考も多少変われば尚良いかもしれない。
ふと気になり後ろを見てみるがさっきのぼわっとした明かりはついてきてはいないようだ。
「(くそ……思い出しただけで足が竦んできてしまっていけない。今からアポが取れる家があるなら誰でもいいから今晩泊めて欲しいくらいだ)」
車のフロントライトや街灯に当てられながらなんとなく当てもなく歩く。
まあ、実は当てなんて最初からあるはずがないのだが。
何故なら礼はある目的を持って外に繰り出しているから。
ただ、それを踏み出せないでいるだけ。
そう、礼は今日死に場所を探していた。
誰よりも苦しまず誰よりも直ぐに逝ける死に場所。
死神が聞いたらそんなもんあるわけねえと一蹴されてしまいそうな理想郷だ。
この腐敗しきった絶望しかない世界からお別れをして新たな希望を与えてくれる世界に行くための通過儀礼となってくれる場所。
そんなあるかも分からない場所を探してしまう程、あの止まった空間は僕を追い詰めてしまっていたんだと今、この瞬間しみじみと礼は思う。
「(程よく迷惑を一部にしかかけずにかつ警察や医者に迷惑がかからない死に方……)」
「やっぱアレしかないのかなあ」
「(でももしなろう作品ばっかり読んでいる僕が交通事故で死んだなんてなったら真っ先にネットでは小説に感化した頭のおかしいヤツとして晒されたりしないだろうか。いや、死後のことなんか今更考えてもしょうがないか。とにかく後少し踏み出せば……)」
なんとなくぼんやりと道路の方を見ながら意思を固めようとしているとなんともな偶然が到来した。
黒猫が道路の真ん中で左右を横切る車に板挟みにされて動けなくなっていたのだ。
「これは!」
その状況は自分を固めきれずに右往左往している礼にはうってつけの今世紀最大のチャンスであった。
「乗るしかないこのビッグウェーブに!」
いけ、高嶺礼! お前ならやれる! この陳腐な毎日を小さな命を救った英雄で終われるチャンスだぞ!
心臓が熱くなるのに相反して身体はどんどん冷え切っていきどうしても一歩が生み出せない。まるで心と身体が別の生き物みたいだ。
「ミャア……」
猫の微かな声や、信号の赤は有限であることを礼に責め立ててくる。
「(なんで動かないんだ僕の足……。このまま生きていてもなんの保障もない、何年か足掻いた挙句に結局死んだらこの時のチャンスを絶対に悔いることになる。だからやるんだ僕、やれ……やれよ……)」
「お願いだから早まってはダメよ」
「ハッ」
ブォーンッ
結局自分は留まってしまった。自分は英雄にはなれなかったのだ。
黒猫はあんなにか弱く泣いていたのに礼がもう助けに来ないのを察したのか車に動じずに道路を横切って僕の方へ来ると何事もなかったかのように背後の暗闇の中へと消えていった。
「(あの猫……最初から動けたのかよ)」
目的を無くした礼は深夜の人がいない歩道の中でしばらく立ち尽くしたままボーっとすることしか出来なかった。
「(はぁ……今日はなんか疲れたな。なんだか頭も夜風に当たって冷めてしまったみたいだ、帰ろう)」
そして、今日のことはもう忘れるんだ。
夜っていうのは悪い考えが強まりやすいからだ。今日は無理やりにでも寝て明日朝日を浴びれば今よりかは前向きに世界が見えるようになるはずなんだ。
結局その後何回か赤信号にはなったものの一度絶好のチャンスを逃した者が次に似たような状況がきたとしても行動に起こせるはずもなく。
礼はふらふらと疲れた身体を引きづりながら歩いていた。
足がぐっと重い。まるで足枷でもつけて歩いているみたいだ。
「(それにしても僕の中にはまだ大事に思われたい人がいたんだな)」
「お願いだから早まってはダメよ」
あの時浮かんだのはいつも礼の病室に来ては時にドジをしながらも天真爛漫に振る舞う看護師さんの顔だった。
あんな空間にさえも生きがいを見出していたことに自分でも驚きだった。
自分にとっては怠惰で意味がないと思っていた日常。
しかし確かにその生活を気に入っていた自分もいたことに気付くいてしまった。
「(こんなこと、恥ずかしくて言えたものじゃないけどね)」
明日、朝看護師さんに今日しでかしたことを正直に話してちゃんと謝ろう。そう決心して歩を進める。
走ってきた道をうろ覚えながらに辿っていると何やら黒いものが視界の先に現れる。
「(ん? 電灯の下に誰かいるな。こんな時間に誰かと……? しかもこんな人通りの少ないところで待ち合わせだろうか)」
その人物は黒いパーカーに身を包みグラサンとマスクをつけている。
体格的に男だろう。
何か連絡を取っている様子もなく男はぐったりとした人形のように電灯に持たれかかりただただずっと下を見ている。
「(不気味極まりないな……周りに人は……ってこんな時間だし僕しかいないよな。でもこんなところでもし待ち合わせをしているのだとしたら本当に場所選びがなっていない。こんなに規則正しく定期的な距離感で木や特徴のない看板、電灯がポツンと立っているしかない道じゃ目印になるものなんてあるはずがないし、結構道の縁には缶ゴミだの雑誌ゴミだので汚い)」
とにかくヤバそうなオーラがするには間違いない、それこそ目をつけられたら自分みたいないかにも弱そうなヤツはいいサンドバックにでもされてしまいそうだ。
「(ここは、見えてないフリしてさっさと通り過ぎるか)」
黒パーカーの横をそそくさと視線を合わせずに過ぎる。
ふう、それにしても今日はドキドキしっぱなしだ。
こんなに一日にたくさんドキドキしたらこれから一年くらいは大抵のことには驚かなくなって感情の起伏がなくなってしまいそうだ。
「やあ、こんな時間にこんな場所でお散歩ですか?」
過ぎ去ったそのすぐ後ろから声がした。
ずんとした変声機でも使っているかのような低い声。
「(どどど、どうすれば。まさか話しかけてくるとは……。とにかく落ち着こう。ここで変に無視でも決め込んだら逆効果になってしまうに違いない)」
「はい、そうですけど……」
「そうですか。見た感じあなたは学生のように見えますけど……もしかして黎明高校の生徒さんですかね」
黎明高校。その名前は一見礼には無縁に感じるが、実はそこの学生名簿には高峰礼の名前が入っていたりする。
礼は一応いつでも復帰できるようにと親や医者に勧められて高校には進学してはいる。
「(まあ、こんな身体だし一日たりとも行ってやいないんだけどね)」
しかしなんでこの男は僕の通っていた高校を知っているのだろうか。
いや、よく考えたらこの辺だと黎明高校が一番近いしそういえば当たる確率が高いからだろうか。
食い付いたら何か勧誘されるに違いない、あんな見た目をしているけど黎明にターゲットを当ててる予備校の勧誘かなにかだろう。
「(それにしては格好がなってない気がするけど。塾の勧誘をするならスーツに身を包んで最低でもキットカット入りのパンフレットを両手いっぱいに抱えて愛想良く振舞うくらいはすべきだ)」
ということで悪いが何を勧誘されてもお断りさせていただくことにする。そもそもこっちは初登校さえ済ませちゃいないのだ。
「すみません、自分ただのフリーターなものでして」
「そうでしたか。いや私には君が間違いなく高校生に見えるんですけどね。高嶺礼君」
「!?」
「(なんでこいつ僕の名前を……最近の塾講師は生徒の名前と顔を把握して勧誘してるっていうのか。でも僕みたいな在籍してるだけの幽霊みたいな生徒まで把握してるなんて……塾業界、恐るべし)」
「その顔は当たりって顔をしてますね。君の病院は入るのがちょっと難しくてね。結構苦戦していたのですがまさかこんなところで出会えるとは」
「どうして僕を……」
「いや君以外も全員探してもう始末しています。もう復讐すべきはあなたが最後ですね」
「復讐……だって。僕がなにを」
シュッ
何やら男の手元が光ったと思ったら足元に急な痛みが走る。
見てみると右足は真っ赤に染まっていた。
次回は今日の夜九時に更新します