part.3
さみしい生き物なのだ。私は。
彼が愛しのハニーの元へ帰ってしまった後、私は一人、縁側で余韻に浸っていた。涼しい風が気持ちいい。
頭を占めていたのは、あの話のことだった。山奥の寺で聞こえる、念仏の声。奇怪に思えるが……。
これでも、昔は名探偵。女ホームズとさえ呼ばれた身だ。すでに真実は見えている。あとは実際に確かめるだけ。
まだ日は高い。少し散歩でもするとしよう。
簡単な話だ。念仏の謎なんて。
そうして、私は山へ入った。面倒くさくて喪服のまま来てしまったが、すぐに道は険しくなる。昔歩いた時とは、状況が違うらしい。人の手は入らなくなり、私自身も年を取った。運動靴に履き替えておいたのは正解だった。
足場の悪い道を三十分ほど登った頃、寂れた建物が唐突に目の前に現れた。自然と一体化しかけているが、間違いなく寺と見て取れた。
足を踏み入れる。その瞬間、幼い少年少女――汚れを知らない私たちの姿が境内ではしゃぐイメージが浮かぶ。遠い昔の出来事。もう二度と戻ることのできない日々を振り払うように、私はかぶりを振った。
と、その時。
「――」
低い音がした。抑揚のない、読経のような声を思わせる。子供たちが噂する「念仏」が聞こえてきた。なるほど、やはりそういうことか。私は真実を確信した。
正体は分かっていた。案の定、暗がりから出てきたのは。
「――」
一匹の蜂だった。
よく聞けば羽音であると分かるだろう。低い、唸り声に似た音。これがあたかも念仏のように聞こえていたのだ。怨念などあるはずがない。廃墟と化した寺の雰囲気が、音を聞く者にそう思わせていただけだった。
彼を助手として連れてこなくて正解だったと思う。虫に弱いあの男なら、蜂を見てひっくり返りでもしただろうから。
結果だけ教えてやろう。そして業者にでも連絡して、巣を駆除してもらえば良い。謎が解けて、私は久しぶりに良い気分になっていた。長居は無用。日が暮れる前に屋敷に戻って、シャワーを浴びよう。
そう思っていた。だけど。
身体が動かなかった。なぜだ。足を見ると、震えている。その瞬間、恐怖が、初めて腹の底から湧き上がってきた。どうして。念仏だからか。いや。法事で経を聞くのとは、全く別次元の恐ろしさだった。感じたことのない、度を超えた恐怖が私を襲っている。全く身動きがとれないほどの、本当の恐怖。
感じたことのない? 違う。ようやく、私は気付いた。思い出した。
蜂だ。
私の本当のトラウマは、蜂だったのだ。私が恐れていたのは、お経でも、念仏でもなかった。私は昔、蜂に刺されていたのだ。
封印していた記憶が蘇ってくる。ああ。あの時も。山で遊んでいる時、私は蜂に刺された。その時は何事もなく済んだが、恐怖は深く植え付けられた。どこまでも追いかけてくる、低い唸り声のような羽音。耳をかすめる怨嗟の音。あまりの恐ろしさに、私はその記憶を心の奥底に沈めた。考えないようにした。代わりに、低い音への嫌悪感だけが残った。
怒ったように、ぶうん、と音を立てて迫ってくる。気付けば複数の蜂が集まってきていた。この近くに巣があるのだろう。同時に、自分の服装に思い至る。喪服。全身、黒に覆われている。完全に高をくくっていた。自分の中にある恐怖に、きちんと向き合ってこなかったツケが回ってきたのだ。
ようやく身体が動いた。走り出そうとして、きびすを返す。凶賊から逃げるのだ。
だが少し遅かった。
私は、確かに、首筋に鋭い痛みを感じていた。