part.2
「……ごめん」
「いいよ。薬は飲んでいるから」
事後の彼は素っ気ない。我に返ったように。帰るべき場所への身支度に専心する。奥さんは私とは違って、お淑やかなタイプの、純朴そうな人だった。
田舎に帰ってきた時、彼は二つの点で変わっていた。一つは袈裟に身を包んでいたこと。もう一つは、その横に若い女がいたこと。
私は激しい感情が渦巻くのを抑えられなかった。馬鹿な女だと思う。忠犬ハチ公よろしく、彼が待ってくれているとでも思っていたのか――。
「君は恐れを知らないように見える」
無益な物思いは、そんな唐突な彼の一言によって中断された。
「なによそれ」
「自ら破滅を望んでいるような――」
私はせせら笑った。「あなたがそれを言うの、ワトソン君?」
不機嫌そうな顔で、彼は押し黙った。
「私にも怖いものはあるわ」
「そうなのか?」
「ええ。今は萬洋堂のシューアイスが怖い」
今度は彼が軽くはにかむと、
「また一緒に食べよう。……怖いと言えば、僕は虫がダメだな」
「田舎で坊主をやっているのに?」
「坊主は関係ないだろ」
彼は、腕を組んで身をぶるっと震わせた。
「ああ、考えるだけで恐ろしい。蜘蛛や蜂なんかは特に。昔、刺されたんだ」
「それは怖いね」
「だろ。アナ……なんとかってやつ」
「アナフィラキシーショック」
アレルギー反応の一種。二度目に刺さされた時には、命を落とすこともある。
「そう、それだ。もう一回刺されたら、きっと僕はあの世行きだ」
「おおげさよ」
「ああ、君は虫が平気な人だったな。分からないさ」
「確かに、昔から虫は苦手じゃないけれど――」
そっと、彼の手に触れた。彼は握り返してくれたものの、袈裟を直すふりをして、さりげなく離した。軽い落胆は無視して、私は言葉を続ける。
「念仏が怖いの」
「念仏?」
「そう。あの低い声が、すごく苦手」
「お経は?」
「一緒でしょ」
「全然違うだろ」
そんなこと言ってると罰が当たるぜ、と彼がぼやいたのを無視して、私は言葉を続ける。
「身がすくむの。だから、今日も抜け出してこんなところに居る」
「でも、さっき」
「え?」
彼はからかうように笑った。
「せがんだじゃないか。お経を読んでくれって」
「だって、すごく良いから」
「とんだ変態だな」
私は黙ってはにかんだ。
自らを罰しているのだ、なんて言ったら、引かれるかも知れない。やることをやっておいて、何を今さら。私も心では分かっている。しかし身体の方は。どうにもできない。
「念仏といえば、こんな話を知っているか? 檀家の子供さんが言っていたんだけど……」
彼の話は、オカルトじみたものだった。山奥に廃寺がある。昔は私たちも探検した山だ。寺があった記憶はないが、今は足を踏み入れるのにも苦労するような場所だという。だがそんなところでも子供は遊ぶらしく、その子たちの間で、ある噂が広がっている。
『――』
お経だか念仏だかが聞こえてくるらしい。低い声。なんでも、亡くなった僧侶の怨念だとか。
「行って供養してあげないの」
「嫌だね。どうせ虫もいっぱい居るに決まっているさ。蜘蛛の巣だらけだよ」
生臭坊主め。いつか罰が当たるぞ。
だけどそれは私が言えた義理ではなかった。私は、たとえ後ろから刺されても、寝首を掻かれても文句を言えないような、そんなおぞましい人間だ。
「なあ」
去り際、彼が振り返る。
「もうやめにしないか。こういうことは」
やっぱり。そう言うと思った。
彼はずるい。始める前に、そう言ったことはなかった。いつだって、帰り際に。妻に会う時の気まずさを、少しでも減らそうとしているみたいで。
私は彼に対する返事まで決めていた。うん。分かった。そう言うつもりだったけれど、
「嫌だ、って言ったら?」
違う言葉を返した。きっと彼は動揺すると思った。
だけどそれは私の方だった。彼の顔を見た途端、私は思わず作り笑いを浮かべて、「冗談よ」と卑屈な態度を取ってしまっていた。
彼はとても冷たい目で、私を見下ろしていたから。




