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念仏罰  作者: 御法 度
2/4

part.2

 

「……ごめん」

「いいよ。薬は飲んでいるから」

 事後の彼は素っ気ない。我に返ったように。帰るべき場所への身支度に専心する。奥さんは私とは違って、お淑やかなタイプの、純朴そうな人だった。

 田舎に帰ってきた時、彼は二つの点で変わっていた。一つは袈裟に身を包んでいたこと。もう一つは、その横に若い女がいたこと。

 私は激しい感情が渦巻くのを抑えられなかった。馬鹿な女だと思う。忠犬ハチ公よろしく、彼が待ってくれているとでも思っていたのか――。

「君は恐れを知らないように見える」

 無益な物思いは、そんな唐突な彼の一言によって中断された。

「なによそれ」

「自ら破滅を望んでいるような――」

 私はせせら笑った。「あなたがそれを言うの、ワトソン君?」

 不機嫌そうな顔で、彼は押し黙った。

「私にも怖いものはあるわ」

「そうなのか?」

「ええ。今は萬洋堂のシューアイスが怖い」

 今度は彼が軽くはにかむと、

「また一緒に食べよう。……怖いと言えば、僕は虫がダメだな」

「田舎で坊主をやっているのに?」

「坊主は関係ないだろ」

 彼は、腕を組んで身をぶるっと震わせた。

「ああ、考えるだけで恐ろしい。蜘蛛や蜂なんかは特に。昔、刺されたんだ」

「それは怖いね」

「だろ。アナ……なんとかってやつ」

「アナフィラキシーショック」

 アレルギー反応の一種。二度目に刺さされた時には、命を落とすこともある。

「そう、それだ。もう一回刺されたら、きっと僕はあの世行きだ」

「おおげさよ」

「ああ、君は虫が平気な人だったな。分からないさ」

「確かに、昔から虫は苦手じゃないけれど――」

 そっと、彼の手に触れた。彼は握り返してくれたものの、袈裟を直すふりをして、さりげなく離した。軽い落胆は無視して、私は言葉を続ける。

「念仏が怖いの」

「念仏?」

「そう。あの低い声が、すごく苦手」

「お経は?」

「一緒でしょ」

「全然違うだろ」

 そんなこと言ってると罰が当たるぜ、と彼がぼやいたのを無視して、私は言葉を続ける。

「身がすくむの。だから、今日も抜け出してこんなところに居る」

「でも、さっき」

「え?」

 彼はからかうように笑った。

「せがんだじゃないか。お経を読んでくれって」

「だって、すごく良いから」

「とんだ変態だな」

 私は黙ってはにかんだ。

 自らを罰しているのだ、なんて言ったら、引かれるかも知れない。やることをやっておいて、何を今さら。私も心では分かっている。しかし身体の方は。どうにもできない。

「念仏といえば、こんな話を知っているか? 檀家の子供さんが言っていたんだけど……」

 彼の話は、オカルトじみたものだった。山奥に廃寺がある。昔は私たちも探検した山だ。寺があった記憶はないが、今は足を踏み入れるのにも苦労するような場所だという。だがそんなところでも子供は遊ぶらしく、その子たちの間で、ある噂が広がっている。

『――』

 お経だか念仏だかが聞こえてくるらしい。低い声。なんでも、亡くなった僧侶の怨念だとか。

「行って供養してあげないの」

「嫌だね。どうせ虫もいっぱい居るに決まっているさ。蜘蛛の巣だらけだよ」

 生臭坊主め。いつか罰が当たるぞ。

 だけどそれは私が言えた義理ではなかった。私は、たとえ後ろから刺されても、寝首を掻かれても文句を言えないような、そんなおぞましい人間だ。

「なあ」

 去り際、彼が振り返る。

「もうやめにしないか。こういうことは」

 やっぱり。そう言うと思った。

 彼はずるい。始める前に、そう言ったことはなかった。いつだって、帰り際に。妻に会う時の気まずさを、少しでも減らそうとしているみたいで。

 私は彼に対する返事まで決めていた。うん。分かった。そう言うつもりだったけれど、

「嫌だ、って言ったら?」

 違う言葉を返した。きっと彼は動揺すると思った。

 だけどそれは私の方だった。彼の顔を見た途端、私は思わず作り笑いを浮かべて、「冗談よ」と卑屈な態度を取ってしまっていた。

 彼はとても冷たい目で、私を見下ろしていたから。






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