part.1
暗がりに潜んでいた凶賊に首を刺されてから、どのくらい経っただろうか。私はもう長くはないだろう。陸の上で溺れているような感覚。呼吸が出来ないのが、こんなにも苦しいことだったとは。
これは罰なのだ――虫の息で、私は思考を巡らせる。当然の罰。人として許されざる行為をした私への、罰なのだ。
3時間前。
法事は嫌いだ。
好きな人間はいないと思うが、私にはそれを嫌う明確な理由があった。お経アレルギーとでも言うべきか。私は、あの低い抑揚のない声を聞いていると、どうにかなってしまいそうになるのだ。幼い頃だったか。
『――』
お経にまつわる、ある恐ろしい体験をした気がするのだが、詳細は覚えていない。それほど恐ろしかったとも言える。ともかく、私はお経や念仏を聞くと身がすくんでしまうのだ。
それに、こういう場では、自分の至らなさを思い知らされる。私は働き者といったタイプではない。常識にも疎い。親族の邪魔になるだけだから、隅でじっとしている。くわえて、二十代も半ばを過ぎたというのに、実家でくすぶっている自分。普段は表面化しない気後れのようなものを、まじまじと直視しなければならない。
だから私は、食卓を囲む大勢の親族の輪から抜け出し、離れの自室に一人きりでいた。誰も寄りつかないような、屋敷の端。一瞬、楽しげな声がこんなところまで漏れ聞こえてきた。まだ宴は続いているらしい。ちらりと腕時計を見てから、私は再び低俗な雑誌に目を落とす。
田舎の豪邸の一角が、私の住処。地域の濃い繋がりや、旧家の習わしが嫌で東京へ出たはずなのに。私はまたここに戻ってきてしまった。鎖に繋がれた牝犬が、首輪を意識してすごすごと犬小屋へ帰るかのように。
「何の用?」
いきなり、私は背後に潜む人物に対し、声をかけてみた。開け放った襖の陰で私を驚かそうと企んでいたらしいその男は、不満そうな声で姿を現した。
「なんだ。気付いていたのか」
「『ワトソン君』の考えることなんて、お見通しなのよ」
彼は私の幼馴染み。昔は私が探偵役、彼が助手役としてよく遊んだものだ。そんな彼も今では実家の寺を継ぎ、坊主となっている。さっきも経を上げていた。彼は、寒くないのか、と呟きながら、静かに襖を閉めた。
「で、どうして分かったんだ?」
「簡単な話よ」
私は座布団を勧め、幼馴染みが座るのを待ってから、口を開いた。
「確かにあなたは私に気付かれないよう、衣擦れの音にまで気を配って気配を消していた。だけどその少し前に、ほんの少しだけど、法宴の騒ぎがここまで聞こえてきた……扉が開けられたのね」
「なるほど。だがそれが僕とは限らないだろう……あ」
彼は、私が得意げに腕時計を掲げてみせたのを見て、気付いたようだった。
「大広間からここまでは10分程度。わざわざこの部屋の前まで来てくれた人に声をかけるのは、別に変なことじゃないでしょ? それが誰であれ」
「ちぇ、鎌かけたのか」
彼は感心したような、呆れたような、どちらともとれるようなため息をついた。
私は人よりも観察力に優れている。物事の本質を見つけることが出来た。それに気をよくして、東京で事務所を開いたが、このざまだ。またこの家に戻ってきてしまった。
「こっちに来て大丈夫だったの? 当主の話相手はいいのかしら」
「ふん、分かってるだろ?」
私はその問いに、期待を込めた視線を返した。上目遣いで、はにかんで見せる。計算し尽くした嬌態。
彼はすぐにもたれかかってきた。
荒い息づかいが部屋にこだまする。肌は普段の何百倍も敏感になったようで、彼の存在を少しでも強く感じようとする。
「お経を読んで」
「どうして?」
「お願い……聞かせて」
しばらくして、彼の口から低い読経の声が漏れ始めた。瞬間、頭が真っ白になる。恐怖と快楽が背徳的な形で交わり、溶けていく。私は何も考えられなくなり、理性をなくした獣に変貌する。
仏の教えを説きながらも、彼の指は、肩は、腰は、動くことを止めようとしない。もはや座敷にあったのは、人でないものが、二つ。それらはやがて交わり、混ざり、一個の塊となって、破滅へと突き進んでいく。
(すごく、良い)
ぞくり、と全身が総毛立ち、私はいっそう我を失っていく。恐ろしい。声が恐ろしい。読経が。念仏が。どうにかなってしまいそう。心がバラバラになってしまいそうで。それなのに、私は耳を塞いだりしない。彼を止めたりしない。代わりに、夢中で彼にしがみつく。うめき声を上げることで、なんとか耐える。
「――!」
私の中で、熱く爆ぜた。