闇の王都
シグルンを乗せた馬車は、華美な装飾はないものの窓枠には稀少なガラスを嵌め込み、上品で重々しい漆塗りの箱をしていた。大きな車輪は小気味好いリズムを保ちながら、グヴズムンドゥル王国の首都アークレイリを目指していた。
眼前には長閑な田園風景が広がっていた。
シグルンは初めて馬車に乗った。シグルンの生まれた田舎では、馬車と言えば荷車のことを指していた。
王侯貴族が乗るような箱型の馬車は、見るのも乗るのも初めてのことだった。乗ってみたい……とは、これまで慎ましやかに暮らしていたシグルンにとって、考えてみたこともなかった。
車輪が大きいため乗り込みにくいし、また天井も低いため頭がぶつかりそうになる。おまけに馬車は整備されていない凸凹道を通るため、何度となくシグルンのお尻を苦しめるのだ。馬車はなんて乗り心地の悪い乗り物だろうか。
それだけではない。
そもそもシグルンは、生まれ故郷を出たいと思ったことさえなかった。
どうしてこうなってしまったんだろう。
シグルンは半ば追い出されるように王都に向かっていた。普通上京と言えば、若者が胸踊らせ夢見る出来事だというのに、シグルンはちっともわくわくしなかった。
ゾーイの言うことだから、きっと何かの意図があってのことだとシグルンは思った。
だが、理解することと納得することは全くの別問題だった。
「シグルン様。少々よろしいですかな?」
百人にも及ぶ近衛騎士団が、馬車を守るように挟んで一糸乱れず駆けていたが、突然ゲオルグのかけ声とともに停止した。
同時に、この仰々しいパレードのような行進に、たまたま出くわした村人たちが後ずさるようにひれ伏した。
「内々でお話があります。ご同乗お許し願えませんか?」
こつこつと窓を鳴らし、ゲオルグは神妙な面持ちで馬車に乗り込んできた。
再び馬車は動き始める。
「あの……私も質問があります」
「いいでしょう。では、まずはシグルン様からどうぞ」
ゲオルグはシグルンと向かい合うように座ると、ふうと一息ついた。
シグルンはゲオルグが頷くのを待って、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの……聖なる矢が我が家に刺さったことは理解しています。特別な魔法がかかっていて、それに私が関係している。だから、私は王都に向かっているんですよね?」
今更のような質問にゲオルグが目を瞬かせたので、シグルンは困って目を伏せた。
「シグルン様はゾーイ様から何も聞かされていないんですね。……けれどまぁ、あの方なら何も言わなかったとしても不思議ではありませんか」
ゲオルグは苦笑すると、腕を組んでしばし昔を回顧するように瞑目した。
「ゾーイ様は昔から秘密主義で、どこか風のように飄々とした方でしたよ。師であるというのに魔法を教えてくれないときたのだから、私も若い頃はあの方を師匠に仰いだことを何度後悔したことか。ゾーイ様はどちらかと言うと、見て盗めという職人気質な方でしたからね。……まぁ、非常に厳しいところもある方ですが、でも今回ばかりは、理由はともかくとしても、事前説明くらいは必要ですよね」
「母の昔話は初めて聞きましたが、昔も今も全然変わらないんですね」
「そうそう、お尻を杖でど突いてくるところとか」
国一番の魔法使いですがね、とゲオルグは慌てて付け加えたが、シグルンとゲオルグの間には不思議な連帯感が生まれていた。
「私たち『仲間』ですね?」
シグルンは皺くちゃに笑った。
張りつめていた空気が和やかになったところで、ゲオルグは続けた。
「グヴズムンドゥル王国には長きにわたって受け継がれる『婚約の儀』というものがあります。我が国の王太子は、成人する年に婚約の儀を行い、魔法のかかった『聖なる矢』を放つのです。聖なる矢はご存知の通り、シグルン様の家に刺さりました。これは私の持つ精霊石が示しています」
ゲオルグは懐から小石の集まりを取り出して見せた。
小さな岩にも見える石は、縁は無色透明なのに紫がかっており、道端に転がっているようなものではなかった。どちらかというと宝石に近いかもしれない。
ゲオルグは『精霊石』と呼んだその石をシグルンの顔の側へ寄せる。
「この石は蛍石の一種でしてね。王国内でもなかなか産出されない高純度の鉱物なんです」
「うーん……私にはちょっと綺麗な石くらいにしか見えませんけど」
だが、シグルンが翳された石を見ると、石は青白く光った。
ほら、と興奮気味にゲオルグが言う。
「聖なる矢は若い娘の家に刺さり、聖女を選ぶと言われています。そして、聖女は国に繁栄をもたらす者として、王太子の妃として迎え入れられるのです」
「そ、そんな……」
呼吸を忘れてしまったかのように呆然とするシグルンを尻目に、ゲオルグは尚も続けた。
「聖なる矢は魔法の源である精霊の力が宿っていますから、選定に間違いということはありません。ラップラントの村人たちがあれこれ騒ごうと関係ないのです。国一番の魔法使いであるゾーイ様のお墨付きもあれば、信憑性はますます増します。しかし……」
——シグルンの見た目は若くない。
ゲオルグは何かを言いかけて口籠った。
気まずそうに俯き、申し訳ありませんとゲオルグが小さく言うので、シグルンはゲオルグの言わんとしたことを理解した。
そんなにしおらしいと、怒る気力も逆に失せるというものだ。シグルンは先刻ゾーイに説教を食らったゲオルグの姿を思い出して、気の毒に思った。
「あら、ゲオルグさん。私、見た目はとっても皺くちゃですけど、これでも力持ちなんですよ。毎日畑仕事をしますし、薬草の入った背負子だって背負いますからね」
シグルンは背筋をぴんと張り、力こぶを作ってみせた。
確かにシグルンは顔付きこそ老婆だが、背格好だけ見ればすらりとした女性に見える。
ゲオルグは俯いていた面を上げて、不思議そうにシグルンを観察しながら言った。
「シグルン様、会ったときから礼を欠いてばかりで申し訳ありませんが、私からの話というのは、実はこの件に関します」
ゲオルグの視線は少しの間泳いで、シグルンの黒曜石の瞳を捉えた。
「ラップラントからここまで半日以上は田舎道でしたが、もう間もなく第ニの都市ダールヴィークに差し掛かります。そこを過ぎれば、アークレイリの都までは一刻ほど。途中休憩を挟みながらでも、恐らく夜半過ぎにはブリョン宮殿に到着しましょう」
ゲオルグの『到着』という言葉に、シグルンの心臓が思わず飛び跳ねた。
「しかし……その、えーと、……恐れながら、シグルン様には帽子とヴェールをご着用いただきたいのが、王宮からの願いでございます」
ゲオルグは苦しそうに言うと、また申し訳ありませんと付け加えた。
だが、シグルンはああ、と思った。シグルンは自分の容姿が悪いことを自覚していたからだ。
少女時代はまさに暗黒時代で、シグルンは背丈が低く奇怪にも老人の皮膚を持った子どもだった。人里離れた場所で匿っていたのは、化物扱いを恐れたゾーイの配慮からだと思う。しかし、それでも時折旅人が迷い込むと、彼らはシグルンを見て化物と罵った。果たしてそれで傷付かない子どもがいるだろうか。
今でこそおばあさんなどど慕う者もいるが、それは割と最近の話なのだ。
「ゲオルグさん、私は自分が醜いことは承知してますよ。例え聖なる矢が私を選んでくれたのだとしても、私はお妃様にはふさわしくないと思います」
シグルンは自嘲して言った。
家に押し寄せた村人たちの赤い目を思い出すと、辛かった少女時代に逆戻りさせられるのではないかと不安になる。
「こうして王都に行っても恥をかくのが落ちです。それでも行こうとするなんて……私ってバカですよね。お母さんはきっと何か考えがあってのことなんだと思いますが、私には到底考えにも及びません。どの道傷付くなら、お母さんの思惑には乗らずに、今引き返した方が良いんじゃないかと思うんです。だって、王子様が私を好きになるなんてありえないじゃないですか」
(……私、本当は逃げたいんだ)
シグルンは自己嫌悪に陥って目を伏せた。
「シグルン様」
ゲオルグはいつの間にか震えていたシグルンの肩に手を置いていた。
「私はゾーイ様よりあなた様を泣かせるなと仰せつかりました。ゾーイ様の命令は絶対です。あの方は勝手気ままなようでいて思慮深い方ですから、破れば弟子の私とて容赦ないでしょう」
ゲオルグは苦笑したが、困っているといより、どこか幼い子どもを見るような顔付きをしていた。
「安心してください。シグルン様が帰りたいと思ったときには、私が真っ先にシグルン様をゾーイ様の元へと送り届けますから」
シグルンは目を伏せたまま、ゲオルグの話を静かに聞いた。
何となく、お父さんがいたらこんな感じだったかもしれないと思いながら、シグルンは温かい眼差しを感じる。
「この先一体何が待ち受けているかは私にも分かりませんが、私は聖なる矢を信じています。ゾーイ様との約束も守ります。どうか王宮ではゲオルグを頼ってください」
程なくして、馬車が第ニの都市ダールヴィークにさしかかった頃、シグルンの与り知らぬところで、近衛騎士の軍団は忽然と消えてしまった。
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ゲオルグとわずかばかりの護衛を残し、シグルン一行は、夜も更けた王都を速度を落として走っていた。外ではゲオルグが魔法で進行方向を照らしていたが、暗闇は辺り一帯を塗りつぶしていた。さすがの王都も静まり返り、ブリョン宮殿は全貌を露わにしないまま鎮座していた。
シグルンにも長旅で疲れの色が見えていた。馬車の中は快適とは言えないが、うつらうつらと船を漕ぐ。
「間もなく城です」
城門を過ぎた頃、ゲオルグが窓から合図を送った。シグルンははっとして後ろに反り返る。
いつの間にか馬車は王宮の入り口まで来ていたようだ。
馬車は徐々に速度を落としながら、静かに停車した。
燭台に照らされた灯りを頼りに外を覗き込むと、召し使いがゲオルグに駆け寄ってくるところだった。シグルンは馬車の中で身を潜める。
——ヴェールと帽子だ。
召し使いの女はゲオルグに何かを渡しており、シグルンはなるほどと思った。
シグルンは真っ黒なヴェールとつば広帽子を受け取る。そして、顔をヴェールで覆うように隠し、帽子を目深に被ると、重い腰を上げた。
老人だったシグルンは、未亡人のような風合いへと様変わりし、夜の闇に同化してしまいそうな王宮へと足を踏み込んでいった。