それぞれの待ち人
色鮮やかな色のコントラストが目を引く街並みの王都アークレイリは、グヴズムンドゥル王国最西端に位置し、四方を川と運河で囲まれた中洲のような地形にある。政治、商業の要衝であり、人口密度のそれほど高くない王国内において、アークレイリの都は特別だ。家々はひしめき合うように建ち並び、人々の往来も盛んだ。
ブリョン宮殿は街の中心地にあった。石造りの壁は重々しく、頂は鋭く尖っている。窓は緩やかに弧を描き、大きなステンドグラスが嵌められている。町の教会に似ているが、それよりもずっと大きく荘厳で美しい。
ブリョン宮殿はアークレイリを見渡すように鎮座していた。
ブリョン宮殿の一角、天井の高い回廊をすらりとした男が颯爽と歩いていた。
頬や口、顎に髭を蓄えた壮年の男で、小さく細長い瞳には狡猾さが見え隠れしていた。
男の名は、ヘンリク・ケント・ベーヴェルシュタム。グヴズムンドゥル王国の国境山脈周辺ラップラントに領地を構える公爵だ。
王の即位にあたり臣籍降下したが、王の兄にあたる高貴な人物でもあり、普段王宮においては枢密院議長の地位についている。
「閣下、ゲオルグ・ヤンセンからの伝令です」
ヘンリクは呼び止められて振り返った。
すかさず臣下の一人が慇懃に紙の筒を差し出す。
ヘンリクは早速紐解いて紙に視線を走らせると、眉一つ動かさずに亜麻色の顎髭を撫でながら言った。
「近衛騎士団には団長と数人ばかりの護衛を残して、残りはラップラント国境の防衛ラインに配置せよ」
グヴズムンドゥル王国は小国ながらも二大帝国に挟まれた緩衝地帯だった。力のある二国間にいるからこそ王国は中立を保っていられるが、今も帝国は凌ぎを削って互いの領土を攻め合っている状況にある。
いつその火の粉が飛んでくるかは、誰にも予測はできなかった。
そのため、ヘンリクの治めるラップラントの国境には、防衛ラインとしてグヴズムンドゥル王国の軍備が増強されていた。
「は? よろしいのですか?」
臣下は目を丸くした。
近衛師騎士団は百人余りの規模で聖女の迎えと護衛、国の威信を見せつけることが目的で出発したのだから、臣下が疑問に抱くのも当然のことだった。
「構わん。聖女には内々に入城してもらおう」
訝る臣下の問いに、ヘンリクはあっさり答えて顎を突き出した。
(老婆のような娘だと……)
(何と醜いことか)
ヘンリクは鼻で笑った。
だが、この事が民衆に知られるのはまずい。話が広まる前に兵を国境ラインに送り、聖女入城の際も変装させて誤魔化せば何とかなるまいか。
ヘンリクはくつくつ肩を震わせながら、可哀想な甥っ子を思い出した。忌々しい弟の息子が不幸になるのが、ヘンリクはどうしようもなくおかしくて堪らなかった。
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「アニタ様、明後日の舞踏会には何をお召しになるのかしら」
アニタと呼ばれた女は、自分にかけられた猫撫で声に思わずはっとした。
いつの間にか考え込んでいたらしいが、どうやら周りには気付かれていないようだ。
アニタはこっそり安堵の息を漏らした。
「ええ。父がこのためにドレスを新調してくれたみたいですの。私の目の色のドレスですわ」
「まぁ、素敵! 緑のドレスですわね! 当日拝見するのが楽しみですわ!」
アニタは指で摘まんでいた杯を受け皿ーに置いて、口元を扇子で覆い隠した。
卓を挟んでアニタを囲むように、若い女たちも扇子を広げてころころと笑った。
アニタ——名はアニタ・エイリーン・ベーヴェルシュタムと言い、ベーヴェルシュタム公爵の三人娘の末娘だ。
黄味がかった薄茶色の髪と、エメラルドの瞳を持ち、アニタはまだ少女のようなあどけなさが残る面影をしていた。
公爵位ではあるが、王太子であるソルヴィとは従兄妹同士でもあり、貴族の中では王族に最も近いと言えよう。
それだけではない。
アニタは王太子ソルヴィとは、幼い頃からの付き合いがあった。
年は二歳離れているが、二人並べば誰もがお似合いだと口を揃えた。
アニタもまた満更でもなかった。周囲の影響ももちろんあったが、アニタは物心つく頃からソルヴィを愛していた。寝入りばなよく母が聞かせてくれた『聖なる矢』の話は、当然のことながら自分が主人公であるとさえ思っていたほど。
今日のようにアニタはラップラントの本宅より王都の別宅の方を好んで滞在した。両親には茶会が楽しいからと言い繕っていたが、誰の目から見てもソルヴィ目当てであったことは言うに及ばない。
誰よりも長く、誰よりも強く、また誰よりもずっと近くでソルヴィを愛してきたのは、アニタだ。アニタはそう自負している。
「それより皆さん聞いたかしら。昨日近衛騎士団のゲオルグ様が聖女を歓待するためにラップラントに向かったそうよ。城や王都中この話題で持ちきりねぇ」
一人の女が白々しく高い声で言った。
扇子で隠れたアニタの口元が震える。
「ええ、もちろん」
「聖なる矢はどんな方を選んだのかしら。明後日の舞踏会でお目にかかれると良いわね」
「本当にぜひお近づきになりたいものだわ」
「ずっとお側でお仕えしていたアニタ様も、どんな女性が聖女か確かめなくてはなりませんね」
同意を求めるように周りは微笑みながらアニタを見た。
ついこないだまで聖女はアニタで決定だと言うような連中だ。
アニタは内心怒りの炎をたぎらせつつ、しかし表面上は笑顔で武装した。静かに扇子を閉じると言う。
「そうですわね。その方が皆々様の納得のいくような、見目麗しい素敵な方だと良いですわね」
聖女はとうに選ばれ、ソルヴィの妻になることは叶わなかったというのに、アニタはそれでも諦め切れなかった。
きっとソルヴィからの愛が獲られれば、自分の勝利だと確信している。
アニタのエメラルドの瞳は燃えていた。
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ソルヴィの一日は忙しい。
王太子という身分はただ生まれを指し示すだけだ。特別な役職があるわけではない。下手をすると、どこそこの令嬢と同じように、裁縫と茶会に興じたって言いのだ。ぼんくらも良いところだが。
しかし、ソルヴィは十の頃より父に張り付いて学んでいた。
今年やっと成人したばかりで大した決定権などあろうはずもないが、ソルヴィは枢密院や評議会で政策に関する議論の場に毎回参加していた。国内の穀物、税金、関税、支払いなどの報告も聞く。家臣や民衆から知らせ、戦争、事件などの話だけでなく、不平不満や問題を聞く場にもいた。それが終わると近衛騎士団の鍛錬場で剣と魔法の練習をし、自室に戻ると家庭教師から政治、経済、軍事、帝王学、魔法学の座学を受けた。
正に休みなしの日程だ。
だが、誰かに強制されたわけではない。あくまでソルヴィの自主性だ。
ソルヴィは自分の見てくれがあまり好きではなかった。
容姿は良いに越したことはないが、良すぎるのも問題である。
なぜなら中身を見てもらえないからだ。
高い身分にあるせいもあり、誰もが口々にソルヴィを褒めそやし、ごまをすり、腹に一物を抱えて近付いてきた。
何が真実で何が嘘なのか。騙されなかったことがないと言えば、そんなことはない。二度三度、いや、何度もある。
忘れられない事件の一つに、子どもの頃気のおけないと思っていた執事の裏切りがあった。あのときは誘拐され危うく殺されそうにもなり、自分の人生においてあれほど激怒したことはないくらいだった。ソルヴィを一人の人間として見てくれていたと思っていたのに……
女にしてもそうだ。
ソルヴィの上っ面だけ見て、素敵、美しいなどといった甘言を口を揃えて言うが、誰一人としてソルヴィの中身を見ようとしなかった。能力も見た目に呼応するとでも思っているのかもしれない。あの人は格好良いのだから魔法も勉学もできて当然だわ、と。
そもそもソルヴィの地位と財産目当てだったのは否めないが。
ソルヴィも始めの内はころっと騙されて関係を持ったこともあったが、今では女にすっかり興味を失ってしまった。
ソルヴィにとって、そういう強かな連中から身を守る術というのが、自ら学ぶ姿勢だったのだ。
中身を見てほしいという心の奥底の願望も、自己研鑽に励ませたのだろう。
初めはそういう連中から守ってもらいたくて父に付きまとっていた。
しかし、父は守ってくれなかった。父は家族よりも政務ばかりに目が行っていたのだ。
ソルヴィは次第に自ら学ぶため、飽きもせず金魚の糞よろしく父の後について回った。
それは心のどこかで、父の愛を求めていたからではないかと思う。
十三で近衛騎士団に配属され、十五で異例の若さで連隊長にまで登り詰めたが、父は何も言わなかった。正しく努力の賜物だったが、父に認められなかったソルヴィは人知れず涙したものだ。
ソルヴィは眉間を押さえて溜め息をついた。
政務中毒のソルヴィにもさすがに疲れの色が見える。婚約式をきっかけに近頃考え込むことが多くなった。
筆頭王宮魔法使いゲオルグの知らせでは、聖なる矢の行方が判明したという。近衛騎士団が仰々しく旅立っていったのは昨日の話だ。
国境のラップラントまで普通の旅なら五日ほどかかるが、魔法使いのいる騎士団は早駆けの魔法が使える。途中で休憩を入れても一日足らずで到着する頃だろう。だとすると、戻ってくるのは今日の夜半過ぎくらいだろうか。
ソルヴィは煌めく金の睫毛を震わせ、前髪を掻き上げた。サファイアの双眸は泳ぐように揺れている。
(聖女とはどんな女性なのだろうか)
(——愛せるのだろうか)
答えのない疑問にいよいよ問いが得られる日が近付き、ソルヴィの心には期待と不安が入り混ざっていた。