偽りの愛と母の愛(2)
シグルンは霞がかった白い空間に立っていた。
さっきまで確かに目の前にはゾーイがいたし、背後にはゲオルグもヨハンナもいたというのに、いつの間にか誰もいなくなっていた。
どこか場所を移動したとは思えないが、まさか立ったまま夢でも見ているというのだろうか。
そんな馬鹿なとは思いつつ、シグルンの頭は視界とは裏腹にやけにはっきりとしていた。
(ここはどこ?)
(何でここにいるの?)
やはりシグルンの言葉は声にならなかった。
自問自答だけが頭に響く。
そのままただ突っ立ったまま呆然としていると、そんなに時間も経たない内に、白い霞がさぁーっと引いて視界が開けてきた。
今度はシグルンは見覚えのある場所に立っていた。
つい先程までは夜だったというのに、シグルンは眩しい光に目を細める。
そこはシグルンの住む丘の向こう、さらに奥に行った先——隣国と国境を隔てるようになだらかに連なるラップラントの山の森の中だった。
ここは薪を集めたり、薬草採取したりするよく見知った場所でもある。
空は雲一つなく青々と晴れ渡り、木々の葉は涼やかな風にいつもと変わりなく揺れていた。
(え? ここは……森?)
シグルンはまるで石膏のように驚きで固まった。
一瞬魔法の仕業かと思ったが、こんなリアルな魔法がこの世にあるというのだろうか。
『——ク……った……わ!!』
ふいに背後から女声がした。
不明瞭な言葉だが、何かの叫び声。
シグルンが弾かれるように振り返った先には、銀色の髪の女がこちらに向かって走ってくるではないか。
櫛通りの良さそうな真っ直ぐ伸びた銀色の髪。アーモンド型に縁取られた目に収まった黒曜石の瞳。形の良い鼻梁と唇。
目の前には見目麗しい女が迫っていた。
さらに耳の先は尖ってつんとしており、背中には筋の入った透明な翅を生やしている。
その姿はさながら神話の世界に登場する精霊のようだった。女は神がかった震える美しさで眩しい光を放っている。
(ぶ、打つかる!!)
シグルンは後光が差す美しい女を避けることができず、咄嗟に目を瞑った。
しかし、衝撃は何もない。
片目から恐る恐る目を開けてみると、目の前には誰もいない。いや、誰もいないのではなく、正しくは女はすでにシグルンを通り抜けていたのだ。
まるで幽霊のように。
シグルンは心臓がドキドキし過ぎて壊れてしまうのではないかと思った。
女を目で追いかけると、女は男と抱き合っていた。
シグルンは逢瀬の瞬間に顔を赤らめながらも、なぜか目を離すことができず、むしろどういうことなのかと、女と同じ尖った自分の耳をぴんと立てて聞き入る。
『会いたかったわ!』
『私もだよ、フレイヤ』
抱き締める男に翅はなかった。普通の人間の男のようだ。
亜麻色の髪に理知的なエメラルドの瞳。知性と力強さの同居した顔立ち。男は青い絹サテンの外套を羽織り腰には剣を下げ、騎士然とした出で立ちだ。
普通の人間だが、男としては逞しく見惚れてしまうだろう。
男女はしばしお互いの存在を確かめるようにひしひしと抱き合った。
『フレイヤ……』
男はフレイヤと呼んだ女に優しく口付けを落とすと跪いて言った。
『私と結婚してくれ』
『まぁ……嬉しいわ!』
男のプロポーズにフレイヤは喜んだ。
フレイヤは腰を落とすと男に目線を合わせて破顔する。
男も満足げに笑みを返す。
『お父上は許してくださるだろうか?』
男は嬉しくて堪らないとばかりにフレイヤを再び抱き締めた。
しかし、フレイヤは男の腕の中で首を振る。
『お父様はきっと人間との結婚を許さないわ』
『……そんなっ!』
『私たち精霊は人間と結ばれると永遠の寿命と若さを失ってしまうわ。精霊王の娘の私には許されないでしょう』
『フレイヤ、頼む! 私とともにいてくれ!』
フレイヤの抑揚のない言葉に男は哀願した。
シグルンはそれを遠巻きに、人間と精霊も恋に落ちるものだと、驚きよりも感心しながら見ていた。
やはりあのフレイヤという女は精霊だったのか。
いつか王宮で見た精霊の絵画は誰かの想像かと思ったが、まるで忠実に再現したかのような姿だった。きっとその昔誰かが見たのだろうか。
『私もあなたと一緒にいたい』
『……なら、私と……』
誰の目から見ても二人は愛し合っていた。
精霊王がどんなものかは知らないが、きっと人間と精霊の結婚は難しいのかもしれない。
だが、フレイヤは何度も首を振った。
『あなたのことは好き。だけど、私はあなたと違う。お父様には逆らえないわ』
『私はあなたに永遠の命も若さも求めない。私とともに生き、死んでほしいのだ』
もしシグルンがフレイヤと同じ立場でアレクと恋に落ちたら、シグルンならきっと反対を押し切るだろう。
身勝手にも育ててくれた家族に二度と会えなくなったとしても。
精霊の永遠の命も若さもいらない。
アレクの愛さえあれば。
意外にもシグルンは男と同意見だった。
『フレイヤ……私は許さないよ』
だが、男は徐に立ち上がったかと思うと、腰の剣に手を当てた。
『……ヘンリク?』
女は困って眉根を寄せたままだった。
男の行動が理解できないのか、小首を傾げている。
『フレイヤ、私の名前はケントと呼んでくれ』
『そ、それは……!』
吐き捨てるようにそう言って、男——ヘンリクは顔を赤くして俯いたフレイヤに剣を振り上げた。
(ヘンリク……?)
(ケント……?)
シグルンはヘンリクが振り上げた剣から目を逸らせないまま、湧き上がった疑問をひしひしと感じた。頭の隅に泡のように浮かび出てくる記憶。
ラップラントに住む者なら誰もが一度は聞いたことがある名前だ。
(ヘンリク……ケント・ベーヴェルシュタム……!)
『どこへも行けないよう翅を切り落としてしまいましょう』
剣の切っ先が鈍色に光った。
ヘンリクの剣はきっとものすごい速さで振り下ろされたのだろうが、シグルンの目にはまるで止まりそうなほど遅いテンポで動いて見えていた。
シグルンは吐き気を催すほどの強い衝撃を全身に感じてふらついた。
地面に膝を突く。驚きと恐怖が入り混じり、悲鳴の上がりそうな口を慌てて両手で押さる。
ヘンリクから目を逸らせないシグルンは、せめてもの抵抗にと目をぎゅっと閉じた。
(いや……! 怖い!)
シグルンは震える肩を抱きながら、しばらく目を閉じていた。
しかし、その後聞こえてきそうなフレイヤの悲鳴も、翅を切り落とす音も、血飛沫の音も、何なら森の中の鳥や虫の鳴き声すら聞こえなかったのだ。
そう言えば、どういうわけだかフレイヤにはシグルンの姿が見えていなかったようだ。だとすれば、シグルンの姿はヘンリクには分からないかもしれない。
シグルンはどうするべきか迷いながら、再び恐々と目を開けた。
次に目を開けると、シグルンは今度はどこかの別の場所、建物の一室にいるようだった。
さっきまでの森は一体どこへ消えたのか?
シグルンは森だったはずの周囲を見渡し、困惑に大きく嘆息した。