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震える心

 シグルンは涙も引いて、ただただ驚きながら空を見上げた。

 無数の白い蝶は金の鱗粉を纏った羽を揺らし、上から下までシグルンを包み込んでいた。

 シグルンはまるで小さな竜巻の中心にいるかのようだ。あまりの数の多さの羽ばたきに、シグルンのヴェールも揺れてしまうほど。




『————ルン……シグルン』

『泣かないで』

『元気を出して』




 シグルンの尖った耳に、ともすれば聞き逃してしまいそうなくらい、小さくか細い声が入った。

 もちろん蝶が人の言葉を話すわけがない。シグルンは蝶がそう言っているような()()()()

 きっとこう言っているのではないか、自分だったらこう言われたいのではないかと、無意識の願望が頭によぎったのだと思う。



「ありがとう……励ましてくれて」



 蝶には表情の確認の仕様がないが、シグルンは穏やかに微笑んで見せた。

 勇気を奮って指を差し出すと、一頭の蝶がちょこんと止まり、細長い足を絡める。



「あなたたち、一体誰の魔法なの?」



 しかし、蝶は何も答えなかった。当たり前だが。

 それにシグルンも納得していないが、諦めるよう言い聞かせながら頷くしかない。

 身を預けた蝶の羽をつんつん突くと、蝶は擽ったそうに身を攀じらせた。



 魔法を使うことはできないが、幼い頃からゾーイの側で魔法を見てきたシグルンは知っていた。

 普通魔法をかけると、魔法をかけた場所に金粉が舞うことを。これは魔法の残滓(ざんし)という。水や火を起こす程度の簡単な魔法では目には見えないが、強力な魔法ほど、例えば人を癒したり殺せるような魔法などは、精霊の力と術者の想いに比例して、残滓もはっきり見えるらしい。

 驚くべきことに、この蝶はとても強い魔法の気配がする。もちろんシグルンにははっきり感じ取れるわけもないが、知識としては知っているのだ。



「また君か」



 ふいに声をかけられて、シグルンの心臓はびくりと跳ね上がった。

 聞き覚えのある低く、穏やかな声に幻から現実に引き戻されたようだ。

 まさに同じタイミングで、蝶の輪郭が砂のように崩れていき、指の隙間から零れていった。何事もなかったかのように、金の残滓だけ残して消えてしまったのだ。



「——待て!」



 男の声が制止を呼びかけるが、シグルンは聞かなかった。

 慌てて提灯(ランタン)の火を吹き消して、一目散に駆け出す。

 絶対に顔を見られてはいけない。いや、見られたくないの間違いかもしれない。

 焦りと緊張から、心臓の音が外に漏れ出しそうなほどばくばくと鳴った。

 しかし、先刻踏み付けられた足が痛くて全力疾走が無理な上、男の影がシグルンを捕まえようと立ちはだかった。

 シグルンは小庭に逆戻りを余儀なくされる。仕方なく噴水の裏に隠れるしかなさそうだった。



 声の主はあの人だった。

 男の掌から出された炎の魔法が、わずかだが美しい顔をあぶり出した。



「すまない。姿を見せたくないなら、無理に見せる必要はない」



 シグルンは噴水の壁に背を預けた。

 男も慌てて謝罪する。

 男は掌の炎を消したようで、小庭は真っ暗闇に包まれた。

 今夜は月が雲に隠れて、辺り一面を黒く塗りつぶしている。



「ほら、私はこの通り後ろを向こう。だから、昨日みたいに話せないか?」



 男は譲歩しつつ優しく問いかけてるつもりだろうが、小庭の出入り口を占拠している辺り、シグルンは少し卑怯だと思った。

 だが、不思議なことにちっとも嫌じゃないとも思った。

 肩で息をしながらシグルンも返す。



「……い、いいわ。か、会話だけなら」

「良かった」



 男は嬉しそうに即答した。

 安心したのか溜め息も聞こえる。

 逃げ出した割には不本意だが、シグルンも男と同意見だ。シグルンも嬉しかった。



「さっきの蝶は、君の魔法か?」

「違う。私、魔法は使えないわ」



 だんだん呼吸も落ち着いてきて、シグルンは男の疑問をきっぱり否定した。

 そもそも魔法は、精霊の加護が受けられる特殊な体質を持った人間にしか使えない。王侯貴族や王都の街に魔法使いが多い理由は、魔法使い同士で婚姻を結び、血筋を脈々と受け継いできた歴史があったからだ。

 シグルンもゾーイのように魔法が使えたら、きっと薬師の真似事などしなかっただろう。それくらい魔法というのは奇跡のなせる(わざ)なのだ。



「そう……なのか? 私はあんなに美しい魔法は見たことがないな」

「そういうあなたは、魔法が使えるみたいだけど、逆にあなたがやったのではないのね」

「いやいや、まさか!」



 男も笑い声を上げながら否定した。

 小庭の辺りがぼうっと明るくなる。

 何事かと噴水の背からこっそり覗けば、男が掌に炎の魔法を起こしているところだった。

 魔法が使えるということは、男はきっと高貴な人物だろう。

 それに昨日のラフな格好と異なり、男は見目の良い夜会服をきりりと着こなしているのが分かる。

 シグルンは唾を呑んだ。



「ほら、私が普段使うのは、照明のような簡単な魔法だ。人を魅了する魔法は使ったことがない。私は子どもの頃から人を傷付けるような攻撃魔法ばかり習ったからな。どちらかと言うと、そっちの方が得意なんだ」



 男は自信のなさそうな声で自嘲した。

 男が掌を握ると、再び辺りは暗くなる。




(ああ、そうだ。この人は()()()()()だった)




 しかし、シグルンはすんなり納得できたことがおかしくて笑ってしまう。

 あんなにも美しくて、完璧そうな人間に見えるのに、男は醜い女の自分とよく似ていると思う。

 皮肉だが、嫌じゃない。なぜか嬉しさにシグルンは心が浮き足立った。



「でもそれって、別の意味では、誰かを守る魔法が得意ってことよね。あなたはいくら何でもネガティブ過ぎじゃないのかしら?」

「と、とにかく、蝶が君の魔法じゃないなら良いんだ。誰の仕業か気になるところだが、害のあるような魔法には見えないし」



 男はこのとき初めて動揺を見せたかもしれない。

 怒っているのか、恥ずかしいのか、分からないが声が揺れていた。

 だが、シグルンにはそれすらもおかしくて、堪らず笑みが溢れてしまう。



「そうね、私もあんなに美しい魔法……誰がかけたか気になる。でも、私も悪い魔法じゃないと思う。だって、いっぱい励ましてくれたから」

「励ましって、何かあったのか?」

「……ええ、まぁ……そうかもしれないわ……」



 男に優しく問われ、シグルンはアニタのことを思い出した。

 振り返るとまた嫌な気分になってくる。シグルンはあまり聞かれたくなくて曖昧に返事をした。

 シグルンは王都に来てから、卑屈になることが多くなった。今までは時々村に顔を出す程度で、人の寄り付かないような場所でひっそり暮らしていただけだったが、この場所はシグルンの心を掻き乱す場所だと思う。



「言いたくなければ言わなくても良いんだ。今日も元気をもらいに来たんだろう?」



 男はそれ以上追求してこなかった。

 シグルンは今度は白い蝶を頭に思い浮かべる。

 王都には枢密院やアニタのような意地悪な人もいれば、ゲオルグやフロスティー、ちょっと取っつきにくいがヨハンナのような親切にしてくれる人もいた。それは何も王都に限ったことではない。ゾーイのいる故郷も同じだ。魔女呼ばわりして嫌ってくる者もいれば、薬師として慕ってくれる者もいたのだから。

 蝶は確かにシグルンに元気をくれた。



「ごめんなさい……でも、ありがとう。今日は花よりも蝶に元気をもらってしまったけど」

「そうだな、私も君と同意見だ。最初は驚いたが、私も蝶に元気をもらえたよ。君がいたからかな」



 シグルンがくすくす笑うと、男の声も嬉しそうに重なった。

 シグルンが察するに、男は弱音を吐かなかったが、きっと何かあったのだろうと思う。こうして夜ふらふら出歩くのは自分も同じだったからだ。



「またあの蝶に会いたいわ」

「そうだな……案外あの魔法は人の仕業ではないかもしれない。また会えると良いな」

「え? 人の仕業じゃないって……?」



 シグルンは思わず驚きの声を漏らした。



「ああ。あれほどの強い魔法の残滓なんだ。並の術者には再現が難しいと思う。私にもできないだろう。そもそもそんな高度な魔法使いの存在が稀だし、自然と精霊じゃないかなと思い付いたんだ。もちろん精霊なんて私も見たことがないし、明確な根拠のない意見だよ。ただ、誰の仕業か分からないから、あくまでそうだったら良いな……くらいの話だ」

「……あなたは、精霊って本当にいると思う?」

「もちろんだよ。精霊を神様として信仰しているかと聞かれたら、答えは微妙だけど。でも、現にこうして魔法を使えるのは精霊のおかげだ。精霊は見えないけど、いつも助けてくれてると思う」



 男は精霊のなせる(わざ)ではないかと言った。

 精霊を信じるなど、魔法の使えないシグルンにとって降って湧いたような話だが、なぜか男の話は妙に説得力がある。



「もし精霊がいるなら……精霊だったらいいわね」

「ああ、そうだな」



 そしてしばしの間、沈黙の時間が流れた。

 シグルンも不思議と心地良い沈黙を、素直に受け入れる。

 だが、胸だけは未だにドキドキ疲れ知らずに高鳴っていた。

 今までに感じことのない感情に、戸惑いよりも嬉しさの方を感じるのはなぜだろうか。



「————ねぇ、」



 最初に沈黙を破ったのは、男だった。



「君の名前を聞かせて?」

「……え?」



 ああ、そう言えば名乗っていなかったか。

 シグルンの心臓がびくりと震える。



「私の名はアレクだ」

「アレク……様?」

「そう、アレクだ。様もいらない。気軽にアレクと呼んでくれ。ほら、私もこの通り、敬語じゃないだろ」

「……アレク……」



 シグルンは自分に言い聞かせるように男の名を呟いた。

 アレクという名が熱を帯びて、頭の中で響いているようだ。

 危険はないというのに、頭も心も非常事態の鐘を鳴らしている。



「君の名前は?」



 アレクが再び問いかけてきた。

 シグルンは一息ついて、ようやく口を開く。

 


「私の名前は、シグルン」



 シグルンが答えると、暗闇の向こうからはふふと満足気な息遣いが聞こえた。



「では、私と君は友達だな」

「友達……、友達なのね」



 シグルンは思わず微笑してしまった。アレクには見えないように気を付けながら。



「どうした?」

「では、あなたは二十年ぶりにできる友達よ」

「二十年ぶり……?」

「小さな頃には、私にも友達がいたわ。でもその子はある日……私の秘密を知ってしまい、悲鳴を上げて逃げていってしまったの」

「悲鳴を? 何か恐ろしいものでも見たのかな」



 そうよ、私の醜い顔を、とはシグルンは言えなかった。代わりに、空元気を出して言葉を続ける。



「その子は、後で謝りに来たわ。でも私は受け入れられなかった。私はそのことを未だに後悔している」

「一度できた溝は、そう簡単に埋まらないからな」

「まあ、分かるの?」

「私も両親とは上手くいっていない。特に父とは……」

「何だかこうやってアレクとお話してるだけで、胸がすっと軽くなるわね……ありがとう」



 ただ話しているだけなのに、問題解決になど到底ならないにもかかわらず、なぜかシグルンの心は軽くなった。

 友達ってこういうものなのかな、と。



「ありがとう、シグルン。また明日も会って話そう。明日の夜、私はここで待っている」



 アレクは触れて来ないが、シグルンを優しく撫でるような口調で言った。

 姿を悟られなくて心底良かったと思いながら、シグルンはかっと熱く火照った頰を押さえる。



「また明日。夜に咲く()()()()()よ」

 

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