王子の憂い
王宮の大広間では、軽快なリズムで音楽を奏でながら、年頃の若い男女が手を繋ぎ合いくるくると宙を舞っていた。
王侯貴族にかかれば、魔法など娯楽の一つになってしまう。
上も下もどこもかしこも、浮遊魔法でダンスに興じる男女たち。
だが、見た目の豪華さに反して、貴族社会における社交界の位置付けというものは、ただの遊びではなく政治そのものだ。
豪華絢爛であればあるほど、周りに階級差を知らしめることができる。また、男性は情報収集や支持基盤の獲得の場として、一方女性は家督と財産のある結婚相手を射止める場として参加する。パーティーとはそういうものだ。
「ソルヴィ様、今宵のお召し物も大変素敵ですわね」
「ありがとう、サンドベリ伯爵令嬢」
ソルヴィはにこやかに笑い、目の前の着飾った令嬢に恭しくお辞儀した。
確かに令嬢の言う通り、ソルヴィは今日のために設えた真新しい衣装に袖を通していた。
臙脂色のコート、ベスト、半ズボンはベルベット生地で上質な肌触りで、所々裾やボタンには金糸で花柄が織り出されていて豪華だ。ソルヴィ付きの侍女風に言わせれば、袖口とストッキングは白い絹で全体の調和をとり、小ぶりだが上質な宝石で留めたネクタイで最終的に装いをまとめる、と言ったところだろうか。正に貴族のトップにふさわしい格好だ。
だが、着ているものが何だというのだろうか。素敵、美しい、お似合いですねなんて、こうした社交辞令は何度となく聞いてきたし、その言葉の裏に潜む思惑を想像すると、ソルヴィの心は何一つ動かなかった。妙に浮ついた調子の音楽が、遠くで鳴っているような感じがする。
ソルヴィはそのまま上目遣いで令嬢の手の甲に口付けを落とした。
杯で水を飲んだり、肉叉で肉を運んだりするのと同じで、当たり前の動作をしただけだ。そこに特別な考えや気持ちなどあろうはずもないが、令嬢は頰を赤らめて視線を逸らした。
「では、私はあちらにもご挨拶しますので」
そう言って、ソルヴィは無難にその場を離れた。
令嬢は何かを言いかけて口を開くが、無駄だと悟ると、じきに悔しそうに唇を噛みしめる。
この短い挨拶と別れの繰り返しだ。
ソルヴィは嘆息した。
(何かがおかしい)
ソルヴィはきな臭さを感じていた。
『婚約の儀』からわずか数日、せっかく聖女が見つかったというのに、まさかの病からの危篤状態。聖女は死ぬかもしれないという。
自分自身この婚姻に迎合していたわけではないが、話の行き先がどうもおかしいと感じている。
(あり得ないな)
婚約式から聖女の病気まで性急過ぎやしないだろうか。
世間がどう認識しているかは別として、王宮とは常に陰謀と策略が巡る汚い場所だ。
この国が長きにわたって続いてきたのは、ひとえに精霊の加護があったからに他ならない。
聖女を娶らず、あるいは娶ることができず動乱に揺れた治世があったときでも、必ず次の王太子が聖女を妻に迎え入れて平和をもたらしたという。そうやって振り子時計のように揺れながら、国の歴史は脈々と続いてきたというが。
ソルヴィは柔らかな笑みを振りまきながら、内心では周囲への不信感でいっぱいだった。
思い返せば、ソルヴィには心を許せる人間がいなかった。
学舎に通うことを許されず、王太子として特別な家庭教師をつけられたため、年の近い話し相手もいない。仮に友人と呼べる者がいたとして、身分の垣根を超えて付き合うことは許されないだろう。あるのは忠義による主従関係だけだ。
尤も励ますような優しい言葉やおべっかの裏側に、本当の賛辞と配慮なのか、二心を抱いた悪意なのかを、自分で見抜く力があればの話だが。ソルヴィとて見る目がないわけではないが、当然若く未熟な王太子にはまだまだ力が足りない。
何度か痛い目に遭ううちに、ソルヴィは自然と疑心暗鬼の道に嵌ってしまったのだ。
ソルヴィはできるだけ自然を装いながら会場を見渡した。
(——いた!)
ソルヴィは壁に張り付くように控えた、王宮魔法使いであり近衛騎士団長でもあるゲオルグの姿を発見した。
婚約式に始まり、聖なる矢の追跡から聖女の迎えまで、一連の出来事と聖女の接点をつなぐゲオルグは、重要人物に違いない。
ゲオルグに悪しき思惑があるにせよないにせよ、ゲオルグ本人の口から事の次第を聞き出す必要があるだろう。ソルヴィはそう考えた。
獲物を定めるようなねっとりした女たちの視線を避けながら、ソルヴィはゲオルグに足を向けた————しかし、
「これはこれは、王太子殿下。このような盛大なお祝いの場に、お招きにあずかり大変光栄にございます」
まるで見計らったかのようなタイミングで、ベーヴェルシュタム公爵に進路を塞がれた。
ソルヴィは心の中で舌打ちする。
「伯父上、そう畏まらずとも良いではありませんか。今日はせっかくの祝いですから、楽しんください」
ソルヴィはにこりと返し、再び去ろうとするが、ベーヴェルシュタム公爵は壁のように立ち塞がった。
さすがに身内相手に無碍な対応はできないか。ソルヴィは足を止める他ない。
「おや、つれませんなぁ、殿下。ほら、こうして娘のアニタも連れてきております故、どうかご随意にお話くださいませ」
ベーヴェルシュタム公爵は豪快に笑いながら、後ろに控えていたアニタを呼び寄せた。
アニタは頬を紅潮させ、ソルヴィに深々と礼をする。
「ソルヴィ様、御目通り叶い光栄にございます」
「従兄妹殿、今宵も素敵な装いですね。大変美しい」
ソルヴィはただの世辞のつもりだったが、アニタは感動にエメラルドの瞳を震わしたようだった。
ソルヴィはアニタから目を逸らしたいと思ったが、ベーヴェルシュタム公爵が見守るというより見張るように近くにいては、うかつに嫌な顔もできない。
ソルヴィはアニタの気持ちに気付かないほど鈍感な性格ではなかった。
幼い頃から何かと一緒にさせられては、次代の聖女か側室になるだろうともてはやされてきたのだから。ソルヴィはそんな周囲の無理強いする雰囲気を嫌がったが、かと言って、ソルヴィはアニタを嫌いだと思ったことはない。
ただ、アニタを妹以上の女性として意識できないだけだ。
アニタは昔から可愛らしい娘で、幼い頃からよくソルヴィの後を追いかけていた。ソルヴィの周りをちょこまか走り回る姿は、正しく可愛い妹だ。ソルヴィも子どもの頃はよく本を読み聞かせたり、ままごとに付き合ってやったりしたが、ここ最近年頃の娘になってからは、アニタの様子が急変した。おかしいぐらいに胡麻をすってくるのだ。
それはソルヴィの嫌いな行為だった。
「あら、ソルヴィ様。私の名前は従兄妹殿ではなく、アニタですわよ。昔はよくアニタと呼んでくださったのに」
アニタはお願いするように上目遣いでソルヴィを見上げた。
ソルヴィは困った顔もできず困る。顔は笑顔で輝いているが、不自然にも眉を掻きながら考えを巡らせる。
アニタにはその気がないとはっきりと伝えたい。今まではできるだけ傷付けないよう、のらりくらり躱してきたつもりだったが、ベーヴェルシュタム公爵は外堀を埋めようとあの手この手でやってくる。
身内という事実だけが、ソルヴィの自制心を保っていると言っても良いだろう。
「そうだったかな? 昔からあなたは妹のように可愛いから、ついそう呼んでしまうのだ」
「あら、嫌ですわ。私はもう妹などという年ではなく、いつでもお嫁に行ける淑女ですわよ」
ほら、とアニタはソルヴィにもたれかかるように腕に収まった。
大きく胸の開いたドレスから谷間を覗かせ、華奢な身体に見合わない大きな双丘をわざと押し付けてくる。
ベーヴェルシュタム公爵も成り行きにニヤニヤしていた。
しかし、ソルヴィの顔からは一切の表情が消えた。
色を使えば十何年という関係性が変わると思ったのなら、アニタは大誤りだった。
男女であっても、兄妹のように過ごした日々は何も揺るがないからだ。
むしろ立派な大人の女性として成長したアニタが、実の父親にけしかけられて娼婦のような真似をすることが嘆かわしかった。
「従兄妹殿、あなたはもっと自分を大切にしなければならない。そんなことをしても……私はあなたを妻にはできないのだから」
ソルヴィはアニタを引き剥がすと、悲しみに顔を歪めた。アニタは絶句して固まる。
もう周りを気にするのは止めだ。周りのため? いや、違う。周りを気にするのは、己が傷付きたくないため、言う事を聞かそうとする周りに責任を押し付けて、逃げているだけだ。
その結果がこれだ。家族を傷付けてしまった。
ふと、ソルヴィの頭に昨夜の出来事が思い出された。
あの日からまだ一晩しか経っていないというのに、あの夜声を交わした女のことを、ソルヴィは何度となく思い出していた。
あれほど短く、あれほど心揺さぶれる会話があっただろうか。
『わ……私、……その……夜のこの時間が好きだから、お庭でお花に癒されようと思って……』
何てことない、ただの会話だった。
愛を囁き合ったわけでもないのに、ソルヴィの胸は昨日の夜から熱くなるばかりだ。
「私はあなたにその気がないとはっきり言うべきだった。私はあなたの純情な気持ちを踏みにじった最低な男だ。憎みたければ憎むが良い」
(いっそのこと私を嫌いになるがいい)
ソルヴィはそう念じたが、アニタの瞳はじわじわと涙で潤んだ。心が締め付けられる。
「殿下! あなたはご自分が何を仰ってるのか分かっていらっしゃいますか!? 王太子の立場をわきまえるべきですぞ!」
自身の思惑とは違ったシナリオに焦ったのか、突然ベーヴェルシュタム公爵がソルヴィの肩を掴んだ。
いつもならソルヴィはしおらしく伯父を立てるところだろうが。
「伯父上、仮に聖女が病気だとしても、今後精霊の奇跡が起きて治るやもしれません。このように婚姻に勇み足では、精霊の怒りを買い兼ねませんよ。陛下は私に後継を所望しています。それは裏を返せば、私の妻は聖女でも誰でも良いということ。私の妻をあなたが決める必要はないのです」
ソルヴィは冷めた顔できっぱり言い放った。
ベーヴェルシュタム公爵は分かりやすいくらいに顔を真っ赤にさせ、今にも沸騰寸前だ。
ベーヴェルシュタム公爵はわなわなと身体を震わせソルヴィを睨みつけたが、ソルヴィは先程とは打って変わって小さくなったベーヴェルシュタム公爵を避けると、これ以上騒ぎが大きくならないよう、会場から出て行こうと歩き出した。
思った通り、周囲はダンスを中断し、ソルヴィとベーヴェルシュタム公爵との諍いを遠巻きに見ていたようだ。ソルヴィが歩けば、色めき立った人並みが綺麗に分かれた。
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そして、ソルヴィの足は、例の小さな花園に向かっていった。