醜女の舞踏会(1)
「ありがとうございます、奥様」
はっとしたように顔を上げて慌てて頭を下げたのは、人好きする顔付きの中年の男性だった。
手にしていた剪定ばさみを脇に抱えて、猫背気味の背筋をぴっと伸ばす。身のこなしや様子からして王宮庭師のようだった。
「いいえ、これくらいお安い御用です」
「お貴族様が私のような使用人に良くしてくださるなんて……とても驚いています」
奥様、お貴族様、と呼ばれたのは、黒いドレスに黒い帽子、黒いヴェールを身に纏った、黒一色のシグルンだった。
目の前の花壇には、カモミール、マートル、セージ、ネトル、マーシュマロウ、カレンデュラ……花を咲かせたハーブたちは枚挙に暇がない。
気持ち良く晴れた青い空と緑いっぱいの庭園に、シグルンの黒装束姿は浮いたようなコントラストを表していた。
「アロエベラに含まれている植物性化合物は、傷口の止血をしたり炎症を抑える作用があります。抗菌作用もありますので、ちょっとした傷口の処置には便利な薬草なんです」
「はぁ……詳しいことは分かりませんが、ちょっとはさみで切ったぐらいだったのに、こんなに親切にしていただいて……」
「ちょっとではないですよ。そのまま放置して庭仕事をしていたら不衛生です。傷口にばい菌が入ってきたり化膿したりしますから、小さな怪我を舐めてはいけません」
シグルンは今日も今日とて手持ち無沙汰な一日を送っていた。
ゲオルグから用意してもらった本は、真新しく興味を引かれるものばかりだったが、こう日がな一日読書ばかりではそろそろ読み終えてしまうというもの。
シグルンは読み終えてしまうのが勿体ない気がして、読書は一時中断して散歩に出かけることにした。広いがどこか窮屈で居たたまれなさを感じる部屋を出ると、シグルンはほっとした気持ちになる。
庭園を散策中、こうして成り行きで怪我の手当てをすることになってしまったが、部屋で暇を潰して過ごすより、誰かの役に立てることの方がよっぽど良い。むしろ怪我の手当てなどシグルンには持ってこいだ。
シグルンは葉の分厚い植物——アロエベラの葉の裏にナイフを入れ、ぷるぷると弾力のある水分をハンカチに湿らせると、庭師の指に手際良く巻いた。あはは、と軽く笑う庭師に少し厳しく伝えると、庭師はバツの悪い顔をする。相手が年上でも、こういうときシグルンは遠慮がなかった。
「奥様は本当の薬師様みたいですね」
「ええ、真似事のようなものですが。おか……母が教えてくれたんです」
「王宮も街のどこも治癒魔法師や薬師は人手不足で、我々はこういう怪我は慣れっこでしてね。舐めておけば治る、寝ていれば治る、が一番の治療法ですから」
「うーん……言いたいことは分かりますが……」
「お隣の帝国同士は専ら戦争ばかり。治癒魔法師や薬師も防衛に駆り出されて、不足に拍車がかかってますね。この王宮にも一人いるかいないかくらいでは? まぁ、到底私ども庶民がお世話になることはありませんが」
庭師の男はやれやれと口を突き出すように言った。
庭師の言うことは一理ある。
現在隣国は戦争で互いの領土を削り合っていた。この国は二つの帝国に挟まれる緩衝地帯として中立を保ってきているが、戦争に巻き込まれない保証はないし、中立を保てるくらいの戦力は必要だろう。国内には防衛ラインがいくつも設けられ、兵士だけでなく治癒魔法師や薬師も従軍していたのだ。そのおかげで、稀少な治癒魔法師や薬師はますます不足の一途を辿っている。
庭師が舐めておけば大丈夫と高を括るはずだ。
だが、
「確かに治癒魔法師も薬師も人手不足ですが、王宮の庭園にはこんなにも薬草がなっているじゃないですか。どの薬草がどんな効能があって、どう使用するかは知識が必要ですが、これだけの薬草をただの鑑賞用にしておくのは勿体ないです。ただの綺麗なお花じゃないんですよ」
シグルンは怒ったような口調だったが、責めるというより不満を誰かと共有したい気持ちだった。共感を求めて食い下がるが、庭師は口を噤む。
傍から見れば、王宮の庭園はただの綺麗な草花に見えるかもしれない。そもそも庭師の立場上、シグルンの意見など無意味かもしれない。様々な国から集められた花や草木の中には、珍しい薬草もあるというのに……
「このアロエベラだって! 本来ならどこでも手に入るような薬草ではないです。素人には育てるのも大変。こんなに気難しい薬草たちを、あなたたち庭師は優れた技術で育ててきたんでしょう? 置き物みたいに飾って枯らしたら勿体ないと思います」
シグルンは王宮の贅沢さに腹を立てつつも、庭師への賛辞の言葉は忘れなかった。
傍のメドウスイートを指差し、これもすごい薬草なんだ、とシグルンは鼻息荒くする。
庭師はシグルンの力説に目をぱちくりさせ、しばらく考え込むように俯くと言った。
「いやぁ……奥様にここまで言われちゃあね……」
庭師は鼻の下を擦りながら、どこか嬉しそうにニヤついた。
「ここは王宮の庭園ですから、私どもで勝手に引っこ抜いて薬にするわけにもいきませんが……そこは庭師のフロスティーにお任せください。奥様用に株を少し分けられるよう手配しましょう」
「まぁ……!」
フロスティーと名乗った庭師は誇らしげにふふんと鼻を鳴らした。
シグルンも思わず感嘆の声を漏らす。
駄目で元々の意見だったが、分かってもらえたことが純粋に嬉しかった。
それに着の身着のまま王都にやってきたシグルンにとって、手持ちの薬草を手に入れられるのは思いがけない提案だ。
「ありがとうございます、フロスティーさん」
「奥様、ただのフロスティーで良いですよ」
ほら、とフロスティーはシグルンにメドウスイートの株を渡した。
これは葉の成分を精油にして抽出すると、頭痛、腹痛、関節炎、筋肉痛、胃炎、風邪、リラックス効果も期待できる万能薬になる。どこにでも自生しているわけではなく、市場でも流通は多くないため、手に入れるには自分で栽培するのが手っ取り早い。そもそも株が手に入ればの話だが。
「こんな珍しい薬草を……」
「お近付きの印ですよ。奥様は私の仕事を褒めてくださった。私は代々王宮の庭師の家系でしてね、自分の仕事にはプライドがあるんです。それを褒めてくださった奥様は、私にとっては大事な方です。もちろん怪我の手当てのお礼でもありますよ」
「本当に嬉しいです。これでもっと多くの怪我や病気に対処できますし、私も勉強になります」
シグルンは両手を叩いて言った。
ヴェールを被っているため表情は伺えないが、声は元気に弾んでいる。フロスティーも照れ臭そうに笑った。
————同時に、
『王宮の庭師の家系』というフロスティーの言葉に、シグルンの頭に昨晩の出来事が蘇る。
『私もこの時間は好きだ。自由だし、のんびりできる。日中は花を愛でる時間もないが、夜はこうして花に癒されに来るんだ』
シグルンが思い浮かべたのは、あの人の言葉だった。彫像のような美しい男性とのひと時を思い出すと、温かい気持ちに胸がとくんと鳴る。あの人も月下美人の花が好きで、庭師の仕事を尊敬しているようだった。
シグルンは閃いた。
「ただ……何もせず株を分けてもらっては私も気が引けますから、どうかフロスティーさ……フロスティーの庭仕事のお手伝いをさせてくださいね」
「ええ!? 奥様が!?」
「いいから、いいから」
シグルンはびっくり凝視するフロスティーの背中を軽く叩いた。
叩いた後、貴婦人にしてははしたない行動では?と思ったが、誤魔化すように笑い声を上げる。
「……え、ま、……まぁ、奥様が言うならですけど、あまり無茶しないでくださいね」
フロスティーは冷や汗をかいてたどたどしく言った。
その時、後方からガラガラと乾いた音とともに、シグルンとフロスティーの前に砂埃が巻き上がる。シグルンは手を払いながら咳き込んだ。
「……っほ、ご! な、何ですか!?」
シグルンはヴェール越しからも砂を吸ってしまったようだ。フロスティーも咳き込みながら服についた砂埃を払う。
「今日は王宮で舞踏会があるそうですよ」
「え? 舞踏会って、あのダンスする?」
「え? ダンスする舞踏会ですが」
シグルンの疑問にフロスティーも疑問に思ったようだった。首を捻るフロスティーにシグルンは慌てて誤魔化す。
「え、ええ……、私、ダンスは苦手だから舞踏会があるなんて驚いてしまって」
「そうでしたか。何でも各地からたくさんの貴族令嬢も招かれているとかで、先程からこうして馬車の往来が激しいのです。私みたいな庭師はいつもと変わらないですが、城内の使用人たちは大層忙しいみたいですね」
フロスティーの話によると、今日は舞踏会が開かれるようだ。フロスティーの指差した方向——王宮の正面玄関前には馬車が次々に停車している。
そう言えば、とシグルンは思考を少し前に戻した。今朝方、昨日よりも少し騒がしいドアの向こうが気になったことを思い出す。大きな足音や物音が聞こえるというわけではなく、侍女たちの話声が漏れ聞こえてくる程度だが。それでも暇なシグルンにすれば目ざとく気付くというものだ。ただヨハンナも忙しそうにしていたし、何よりあの鉄仮面ぶりに慣れずに質問の機会を逃してしまったのだ。ヨハンナにもフロスティーくらいの愛嬌があればいいのに。
「舞踏会には王様や王妃様、王太子様、取り巻きの重鎮たちも参加するみたいです。聖女様の披露も兼ねてるそうで、王都中が噂しています」
「え!? 聖女の披露ですか!? 聞いてないですよ……」
私、とシグルンは言いかけて口を押さえた。
フロスティーは人の悪い笑みを浮かべて耳打ちしてくる。
「だけど、ここだけの話、今朝くらいから城中聖女様の噂で持ちきりですよ。病に伏して今にも死にそうだとか」
「え!? 聖女が病気!?」
「何でもベーヴェルシュタム公爵の使用人が話を聞いたらしくて、朝から一気に広まりましてね」
「聖女が病気だなんて……」
シグルンは衝撃によろめきそうになったのを何とか堪えた。
突然の呼び出し、顔を隠せ、未亡人のふりをしろ、その次は病気……随分ひどい扱いだ。自分の与り知らぬところで勝手に物事が進むことに、目眩を覚える。
こんなことを考えるのは枢密院なんだろうが、最終的にシグルンを死んだことにしたいのか。
それにベーヴェルシュタム公爵と言えば、故郷のラップラントの領主ではないか。
(舞踏会だなんて、一体何が目的なの?)
外からヴェールの中が見えないことを良いことに、シグルンは苛立ちで唇を噛んだ。
とても怒った顔をしているに違いないが、当然フロスティーは気付かず、黙り込んだシグルンを怪訝そうに見ている。
「フロスティーさ……フロスティー、庭仕事は明日お手伝いしますわ! 私、ちょっと急用を思い出したので失礼しますね」
シグルンは言うや否や手を振った。
本当はゆっくり庭を案内してもらって、庭仕事もしてみたかったが、まずは舞踏会について確認しよう。
シグルンは正面玄関に向かって、息巻いて歩いた。