月下の庭園(2)
思考は行き止まりにぶち当たった。
シグルンはまた暇を持て余して、今度はいくつかある部屋を探検することにした。
シグルンの部屋は、応接間、居間、寝室、浴場からなり、部屋というより屋敷を与えられたようなものだった。
一人で過ごすにはあまりにも広過ぎる。
そのどれもが贅の限りを尽くした精緻な装飾が施されていたが、元々そういうものに興味がないシグルンにとって、ここは居心地があまり良くないと言えた。シグルンは探検もそこそこに、出窓に腰かけて外を眺める。
窓の外には人の手が加えられた庭が秩序正しく広がっていた。陽も随分高いところまで昇っている。
「奥様、客人でございます」
部屋は広いにもかかわらずどこか窮屈さを感じさせ、シグルンは外に出たいと思った。
ちょうどその時、ヨハンナの声とともにノックの音が聞こえる。
「どなたがお見えなんですか?」
「ゲオルグ・ヤンセン様でございます」
ヨハンナは答えると、きびきびとお茶の準備を始めた。
一晩ぶりにゲオルグが顔を出す。
「シグルン様、ご不便はありませんでしたか?こちらに参るのが遅くなりましたが、お話よろしいでしょうか?」
「大丈夫です。私もちょうど暇をしていたところなので」
だと思いました、とゲオルグは大きな包みをシグルンに差し出した。
包みをほどけば、そこには何冊かの分厚い本と巻物が積まれている。
シグルンは思いがけない差し入れに感嘆の声を漏らした。
「時間潰しにと思い、王国と大陸の地図、それから地理や歴史の本をお持ちしました。シグルン様はゾーイ様の元で育っていらっしゃるので、きっと読み書きは大丈夫かと」
「わぁ素敵です! ありがとうございます! 気の利いた差し入れですね!」
シグルンは鬱々とした気持ちが晴れて、笑顔になった。
「私、昔から本を読んで学ぶのが好きだったんです。もし薬草の本がありましたら、貸してもらえないでしょうか? もしかしてお母さんの思惑って勉強のことだったのかしら。だとしたら、なんて素敵でしょう!」
「喜んでいただけたようで何よりです。もちろん薬学書についても手配しましょう」
シグルンは興奮して声が上擦った。
目を爛々とさせると、ゲオルグは満足げに頷く。
二人は応接間の椅子にテーブルを挟んで腰かけた。
ゲオルグはヨハンナに席を外すよう促すと声を潜める。
「今朝方、枢密院にシグルン様の王宮入りの件を話してきました。教会もまた然り」
「そうなんですね……では、私の容姿のことも……」
途端に笑っていたシグルンの顔が曇った。
ゲオルグは肯定する代わりに申し訳ありませんと言った。
ゲオルグ曰く、グヴズムンドゥル王国の政は、主に国王・枢密院・教会の三つの影響力が大きいという。
一つは国王で言わずもがなだが、二つ目の枢密院は、各荘園内の領主が集まった諮問機関のことであり、地方分権型の統治体制であるが故に政治的発言力が大きい。
そして三つ目の教会は、精霊信仰の総本山でありながら、魔法の学術的な研究と魔法使いの育成がされており、魔法を統べる機関としてこちらも政治的発言力が高い。
後者に挙げた二つは歴史上何度も対立してきたとのこと。
「元々私は平民出身の魔法使いで、貴族たちの権力争いを嫌うところがありまして。教会から王宮魔法使いとして召し抱えられましたが、王に腕を買われて近衛騎士団長を兼務したのをきっかけに、枢密院や教会どっちつかずの中立の立場になりました。この度のことも、後々問題になることは目に見えていましたので、事前に枢密院と教会両方に伝令を送りました。隠してもいずれは分かることですので……しかし、よもや枢密院がシグルン様にこのような扱いを強いるなど……私の力が及ばす申し訳ありません」
ゲオルグは言うや否や深く腰を折った。
大の男が謝ってばかりで、シグルンは逆に申し訳ない気持ちになってくる。
「でも、私が逆の立場でも同じことをしたと思いますよ。元は私のこんな顔が悪いんですから」
「シグルン様……」
「教会側はどんな感じなのですか?」
シグルンは困ったように笑って、話の続きを促した。
「え、はい……、教会側は精霊を絶対神としていますので、今回ばかりはシグルン様の強い味方となりそうです。枢密院の方では、国が乱れることを恐れて排除論は避けたいといったところですが、このまま聖女を秘匿したまま側室を擁するのではなどと噂されています。それでもこの件は極秘事項として、多くには伏せられているのが現状です」
ゲオルグの言葉には不穏な空気が包まれていた。
枢密院と教会の意見対立となれば、間に挟まれたシグルンも必然的に争いに巻き込まれることだろう。
だが、聖女を秘匿したまま側室とは……一体どういうことだろうか。また極秘事項ということは、国王や王太子は知っていると考えていいだろうか。
シグルンは婚姻についてはあまり興味を持たないようにした。
上手くいかないと分かりきった問題に、あれこれ考えて自ら傷付きたくなかった。
シグルンが知りたいのはただ一つ。母ゾーイの真意。
それが分かれば帰ろうと思った。争いに巻き込まれるのはごめんだ。
「ゲオルグさん、私はお母さんがなぜ自分を王都にやったのか……未だに分からないんです。誰が争って、誰が側室になるとか正直……」
(どうでもいい)
シグルンは溜め息をついた。
「……だから、帰りたいです。全てが分かったら」
シグルンは絞り出すように言葉にすると、ゲオルグは同意して頷いた。
もっと反論されたりするかと思って拍子抜けしたが、ゲオルグはシグルンの意思を尊重するようだ。
「王都内ではすでに対立が起きつつありますので、怪しい動きには注意しなければなりません。しかし、幸いにもこちらは身を偽って過ごすよう命じられています。どちらかと言えば動きやすいのかもしれません。私もできる限りお手伝いしましょう」
ゲオルグはシグルンを安心させるように笑顔を繕った。また何かあれば報告します、と言うや席を立つ。
「ゲオルグさん、何から何まで本当にありがとうございます」
「いいえ、今度は薬学書をお持ちしますよ」
「嬉しいです!」
ゲオルグは親指を立てると、頭を下げて静かに退出していった。
入れ替わるようにヨハンナが入室し、昼餉の支度を始める。
そこからはあっという間だった。
シグルンはゲオルグからの差し入れの本をありがたく読むことにした。
読書は好きだ。そうしていると色んな知識が入ってくるし、どこか遠い世界で旅をしている気分になれるからだ。
また、シグルンとゾーイの住んでいた家は片田舎のボロ屋だったが、蔵書数は図書館も顔負けだった。そもそも空間魔法の使えるゾーイにすれば、本は無尽蔵に溜め込めるものなのだ。
子どもの頃家に籠りがちだったシグルンが、本好きになるのにそう時間はかからなかった。
気付けば辺りはすっかり暗くなり、夜の帳が下りていた。
シグルンは夕餉を軽く済ませ、再び本に没頭した。
新しい本に興奮していたせいもあるが、なかなか寝付けなかったのだ。昨日は長旅で疲れていたから眠れたが、一晩経つと頭もすっきりし、異様な日常に胸が騒めく。
「……そうだわ。外に出てみよう!」
シグルンはそう思い立って本を閉じた。
ついいつもの癖で抜け出そうと決める。シグルンはヴェールと帽子を手にそっと扉を開けた。
廊下には誰もいない。さすがのヨハンナも終業時間か。いや、就寝時間の間違いか。辺りはしんと静まり返っていた。
****
王宮の庭は整然と広がっていた。
樹木は頭を四角や丸に綺麗に刈り込まれ、花壇の草花も礼儀正しく整列している。シグルンの家の庭の雑多な感じとは違い、同じ薔薇でも不思議と違う薔薇に見えた。
まるで人間の貴族と庶民のように、生まれが違うと言い放っているかのようだった。
「あなたたちもここのお城と同じで着飾ってるのね。そんなことをしなくても十分美しいのに」
もったいないなぁと、シグルンは残念に思った。
青白い月明かりとガラスの嵌め込まれた提灯の淡い灯火だけを頼りに、シグルンは迷路のような庭に足を進めていく。庭は真っ黒に縁取られているというのに、シグルンの足には少しも躊躇いがなかった。
夜のこの時間はシグルンの時間だ。闇夜に混じってヴェールが風に揺らめく。
ふいにどこからか、ちょろちょろと水の流れる音が聞こえた。噴水だろうか。
歩を進めると、薔薇の枝垂れるアーチ状の入り口が見えた。少し覗き込めば、噴水を中心に石畳が広がり、高さの違う花壇や優雅な細工の施された鉄格子に囲まれた箱庭が見えた。自然らしさと人工物が見事に調和したかのような小さな庭園だ。
シグルンは思わず唾を呑む。
とりわけ目を引いたのは、月光に向かってぴんと顔を上げる白い花——月下美人と、それを愛でるように傍らに寄り添う彫像だった。
「誰だ?」
突如、低くよく通る声がかけられたかと思うと、シグルンが彫像だと思った影が揺らめいた。
「誰かそこにいるのか?」
それが彫像ではなく人間だと気付くと、すみませんとシグルンは大きな声で言うが早いか、物陰に隠れた。
慌てて提灯の火を消す。
放たれた言葉には責めるような語気はなかったが、姿を見られてはいけないと咄嗟に思ったからだ。
「ぜ、ぜぜ全然寝付けなくて……さ、さ散歩してたら、す素敵な小庭が見えたのでつい……」
シグルンはそう弁解しながら、小庭を背に身を屈めた。
後ろの人の気配が動く感じはしない。
シグルンは見えていないとは分かりつつも、帽子を目深に被った。ヴェールの上から何度も尖った耳を擦る。
「奇遇だ、私もだ」
しかし、なぜかシグルンの背中越しからくつくつと笑い声がした。
動転してうまく話せなかったからか。シグルンは首を捻りながら振り返った。葉と葉の隙間から盗み見る。
暗闇にぼうっと浮かび上がる人影。
初めは彫像かと思ったが、夜目でも確認できるほど真っ白な肌をした男性だった。
ブラウスにパンツ姿でなければ、男性か女性かきっと分からなかっただろう。ここからは少し距離があるため瞳の色までは分からなかったが、月明かりで青味がかった黄金色の髪が夜風に揺れていた。遠目からでも男性は美しさを振りまくように佇んでいる。
シグルンは瞬きを忘れて見入った。
(なんて綺麗な人なんだろう……)
シグルンはこれほど美しい人を見たことがなかった。この世には自分のような醜女もいれば、反対に、絶世の美男子もいるのだと、身を以て知ったような気分だ。
皮肉な巡り合わせに思わず自嘲したが、気持ちとは裏腹にシグルンの胸は高鳴っていた。