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9 謙太 ~ 欠けたピース

 子供部屋から、葉月の困惑したような声が聞こえる。

 子供の名前を何度も何度も呼んでいる……呼び続けている。それを聞くだけで謙太は息苦しくなった。


 ――前はどうしたんだったか。とりあえず怒鳴るのが一番駄目なのだけは覚えている。驚かさないように、優しく、諭すように……


 どう言えば大丈夫だったか。どう言うと駄目だったか。彼は思い出し、反省し、反芻する。

「今更焦ってもしょうがないのですから。奥様の命に危険が及ぶような状況じゃない限り、まず落ち着くこと、状況を分析したうえで声を掛けることが重要です。旦那さんまでが引きずられては意味がないのです」

 そう七石に教わっていた。妻の困惑した声を聞きながら謙太は深呼吸を繰り返し、やがて覚悟を決めて子供部屋へ向かった。固く握られた手は細かく震えていた。


「あぁ、あなた……みぃが、美月がいないの。あの子、どこに行ったの? どこにもいないのよ」


 葉月は夫の姿を視界に留めると、すっかり動転した様子ですがる。そのやりとりは、謙太にとっても葉月にとっても、幾度も幾度も、繰り返した悪夢のような現実だった。

「葉月……気をしっかりとして聞いてくれ……」

 妻の肩を掴み、夫はゆっくりと語り掛ける。


「美月は、もういないんだ。あの子は、もう三年も前に死んでるんだよ」


 葉月は、その言葉を今初めて耳にしたかのように驚く。

「あなた何を言っているの? いやだ……嘘でしょう? 悪い冗談だわ……どこに隠れているの?」

 信じられないといった表情のまま、きょろきょろと周囲を見回す。その様子をを見て、謙太の心はまた重く沈む。だが、ここで折れるわけにはいかない。深呼吸を繰り返す。

「嘘じゃない。もう、いないんだ……机の上に、写真が置いてあっただろ? あれは美月の――」

 いやいやと首を強く振り、夫の言葉を遮る葉月。謙太はとうとう我慢できなくなり、妻の両手首を掴んで声を上げる。


「あの子はもういないんだ! いい加減にしてくれ!」


 しまった、と謙太が後悔した時には手遅れだった。

「いやだ……そんなはずがないじゃない……そんなはずが、ないのよ!」

 葉月の表情は大きく歪み、目には涙が浮かぶ。後悔と共に彼がもう一度口を開こうとした時には、葉月の心はもうここにはなかった。

 ゆっくりと脱力し、その分彼の両腕に重みが圧し掛かる。


「まだ……駄目なのか……」


 ぐったりとして遠くを見つめたまま動かない妻を、謙太は抱きかかえてソファに横たわらせた。

 そっと目を閉じさせる。こうなってしまった妻は薬を飲んだ時と違っていつ起きるかわからない。そして目覚めた時の精神状態がよくないことが多いので、うっかり目が離せないのだ。


 * * *


 あの事故以来、葉月は壊れてしまった。

 呆然としたまま葬式を終え、葉月はそのまま、気分が悪いからと言って火葬場に行かずに寝込んでしまった。彼女を誰も責めなかった。母親としての葉月の心情を思えば当然だ。

 しかし喪が明け、謙太は仕事に戻る――娘の事故死という現実から逃げるように、仕事という他の現実へ戻って行った。一人分の隙間ができてしまった自宅へ、葉月を残したまま。


 それから数日後、最初に葉月の『異変』に遭遇したのは息子の(ゆき)(とも)だった。

 夕方に葉月がふらりとどこかへ出て行ったのだ。

 たまたま下校途中の千智が団地の近くで母親を見掛け、追って声を掛けた。

 すると、葉月は笑顔で千智の手を振り払い、「美月がまだ帰って来ないので迎えに行くの」と、小学校へ向かおうとしたのだった。


 千智にも中学生ながら思う所があったのだろう。葬式後にも沈み込だままの様子の母親を見て、

「なるべく母さんのそばにいてあげたいから、部活はしばらく休むよ。その分早く下校できるし」と千智は言っていたが、この時はそれがたまたま幸いした。

 しかし下校途中だったため、千智には謙太に連絡を取る術もなかった。涙で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、母親の手を引き必死で止めているところを、買い物帰りで通り掛かった階下の住人にどうにか助けてもらったのだった。


 連絡を受けて慌てて謙太が帰宅したのは、それから二時間後のことだ。彼は世話になった近隣住人に頭を下げ、ショックを受けて部屋に閉じ籠っていた千智をなだめ、時間を掛けて事情を確認した。

 その後更に一週間の有休を使い――実際は、自宅でも仕事を進めつつ――妻と息子を心療内科やメンタルクリニックへ連れて行ったのだった。


 骨を拾わせてやらなかったせいだと謙太を責める者もいた。しかしそれは結果論だ。

 美月の骨と対峙していたとしても、いや、対峙したせいで余計に葉月の心には耐え難い負担が掛かったかも知れない。

 それよりも今とこれからをどうするかの方が重要だ。謙太はそう考えた。

 葉月にはカウンセリングや投薬など色々試してみたが、落ち着くのは一時的だった。義父母にも事情を話てしばらく滞在してもらったりもしたが、義父もまだ仕事を持つ立場だ。いつまでも甘えるわけにはいかなかった。


 義父が帰ったあとも「哀れな娘をどうにかしてやりたい」と、義母がなおも滞在してくれたが、日に日に表情が暗くなって行くのを、謙太はやはり見ていられなくなった。義母まで精神が疲れきってしまっては元も子もないので、一ヶ月後には半ば強制的に帰ってもらった。

 美月を探し続け、わめき、泣き叫び、神経が耐えられなくなって気絶する。そんな状態の娘を毎日見ていて、年老いた母親が耐えられるわけがないのだ。


 千智は、あれ以降は泣くことがなかった。しかし笑うこともほとんどなくなり、母親の些細な変化にも神経質になった。

 担任や学校長にも掛け合い、携帯を所持させたまま登校させた。休みたいと言えば無理をさせずに休ませた。

 『美月』という存在が突然消えてしまったため、謙太の家族も、その周囲にまでも連鎖して多大な影響が出ていた。

 そんな日々が約一年半続いた。


 そして、ある年の暮れ――千智が中学二年の冬に、千智がネットで見つけて来たという口コミ情報を元に、謙太は七石のクリニックを初めて訪れたのだった。

 黒いタイトなセーターを着込んだ華奢な青年は、胡散臭そうに値踏みをする謙太の視線を軽く流してみせた。

「皆さん、最初はそうおっしゃるんです」と、こともなげに。そして結局謙太もまた半信半疑ながら葉月の『治療』を受けることになったのだった。

 あれから一年半、謙太が油断しなければ、『治療』は順調に進んでいたのかも知れない。

 だが彼はまた逃げてしまった。


 木の芽時期から梅雨前までの季節の移り変わりの中で、どうしても思い出してしまうのだ。娘の卒園、息子の卒業、そしてそれぞれの入学……去年は息子の学年が上がっただけだったのでどうにか耐えられた。しかし今年は高校に入学したのだ。

 あの独特な真新しい緊張感を、あの期待と希望に満ちている空気をまた体験してしまったのだ。

 表向きは祝福していたが、心中では輝かしいはずの息子の新生活を素直に祝ってやれない自分を責めた。

 謙太でさえそうなのだから、葉月は尚更不安定になっていた。ふとした時に娘を探す。誰かが声を掛けると我に返るが、その後しばらく物思いにふけるのだ。

 謙太はそんな妻の姿を見ているのが徐々につらくなり、新規プロジェクトの立ち上げという機会に乗じて、つい逃げるように仕事にのめり込み過ぎたのだった。


 ――もう逃げまいと誓ったはずなのに、結果この体たらくだ……


 謙太は己がふがいなさを悔やむ。

 もうあれから三年経つ。

 しかし、まだ三年しか経っていないのだ……この先、あと何年これが続くのだろうと考えると、目の前が暗くなって行くのは当然のことだった。


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