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8 れい ~ 夕焼けを止めて

※事故の表現があります。

苦手なかたは、読まないようお願いします。

 ダンプカーが、信号機に衝突して止まっていた。

 衝突の衝撃で電柱は歪み、歩行者用信号機はダンプカーの屋根にめり込んでいる。

 その先に、ピンクのランドセルや教科書、鉛筆などが散乱している。ランドセルには黄色いカバーが掛けてあった。


 そして、ぐったりとしたまま動かない小さな身体が転がっていた。


 倒れた少女に駆け寄って肩を掴み、叫んでいる少年がいた。声の限り何度も名前を呼び、叫び、えづき、それでもまた名前を呼び続けている。

 倒れている少女、美月の兄だった。

 手には白いビニール袋を提げていたが、側面に穴が開いて中から菓子のパッケージらしき箱や液体がこぼれ出ていた。駆け寄った時に転んだのだろうか、彼の膝には擦り傷ができており、うっすらを血がにじんでいた。

 それ以上に、少女が流したと思われる大量の血が、少年の脚や衣服を(あか)く染め上げて行く。


 れいも美月も固まったまま、その少年が叫び続ける様子をただ見つめている。

 二人が先ほどまでいたベンチは公園の中にあり、交差点からは百メートルあまり離れていたはずだ。しかし何故かその光景は、二人の目の前で展開されていたのだった。


「――おにいちゃんのおなまえはせんちゃんだけど、ほんとうのおなまえは、ゆきともっていうの」


 やがて、淡々と、表情をなくしたままの美月は話を再開した。

「でも『ゆきちゃん』はおんなのこみたいだから、おにいちゃんのなまえのさいしょのもじをとって『せんちゃん』ってよべって、いわれたの。ゆきの、じが、すうじの『せん』だよって、おしえてもらったの」


 泣き叫んでいた少年は、周囲にいた大人の手によって、倒れている少女から慎重に引きはがされた。


「こないだなんだけどね、『テスト』だから、おにいちゃんだけはやくかえってきてるときがあってね、みぃがかえってくるとき、このこうえんにおにいちゃんがいたの。コンビニでおやつかってきた、っていったの」

 虚ろな視線を、横断歩道とは反対側の公園の出口の方へ向ける。公園に併設されているような位置に、コンビニの四角い建物が見える。


 次の瞬間、二人はコンビニの駐車場に立っていた。

 店の前には、ランドセルと背負った黄色い帽子の女の子と、涼し気な半袖シャツにラフなパンツ姿の中学生くらいの男の子がいた。その親しげな様子の二人はいかにも仲のいい兄妹らしい。

 だがその姿はゆらゆらと陽炎のように頼りなく、向こうの景色が彼らを通して透けて見えていた。

「おにいちゃんはときどき、みぃにいじわるなこというの。そのときも、『アイスがとけちゃうからはやくかえろー』っていってね、『でもおれにまけたら、みづきはばつゲームで、アイスなしな』っていったの」

 美月はゆっくりと視線を横断歩道の方へ戻した。

 先ほどの二人が、いつ移動したのか横断歩道に向かう緩い坂道を掛けて行く。当然、年長である兄の方が何歩も先を走り、その差はどんどん広がって行った。

 映画のスクリーンを観ているかのように、走り抜ける兄妹の様子は、常に美月たち二人のすぐそばで映し出されていた。

「みぃはおにいちゃんをおっかけたの。おにいちゃんがわたったときは、ちゃんとあおだったんだよ? みぃ、しんごうみてたもん――でも、みぃがはしってわたろうとしたとき――」


 れいは耐えられず、美月の言葉を遮った。

「ごめん、みぃちゃん――もう、わかったよ。ごめん、思い出させてしまってごめん……折角忘れていたのに……ごめん……」

 美月の肩に添えられた彼の手は震えていた。

「僕の腕が未熟だったんだ――僕が『忘れてしまう』ような矛盾ができてしまったのは、僕のせいだ」

「れいちゃんのせい? なんで?」

 虚ろな表情のまま、美月はれいを見上げる。


 少年の叫び声はもう聞こえない。その代わり、女性の――おそらく母親の――聴く者が心を引き裂かれるような抉られるような叫び声が遠くで聴こえている。

「おかあさんだ……おかあさん、ごめんなさい……みぃが、いうこときかなかったから」

 美月はれいから視線を移し、空を見上げる。

「おかあさんがとおくへいっちゃう……みぃが、いうこときかなかったから……」


「――みぃちゃん……みづきちゃん、お話してくれてありがとう。疲れちゃったよね……少し、座って休もうか」

 れいは震える手で美月の手を取りゆっくり導く。美月は大人しくついて来てベンチに腰掛けた。

 いつの間にか、二人は初夏の陽射しがあふれる公園の中にまた戻っていた。

「最後まで話してくれたからね。約束のごほうびだよ」

 彼の声はまだ震えていたが、

「ほら、きれいなキャンディでしょ? お話、疲れたよね。頑張ったよね、ありがとう……ごほうびに、僕が食べさせてあげる」

 と、どこからか大粒の飴を取り出して、光に透かして美月に見せた。それは淡い紫色で、初夏の陽射しを受けてキラキラと輝いている。

 美月がうっとりとそれを見ていると、れいは笑顔を作りながら包装を解き、そっと美月の口に入れてやった。


「甘いでしょ? 前に僕、魔法使いだって言ったの、覚えてる? このキャンディは特別の魔法が掛かっているんだ」


 その言葉が聞こえているのか聞こえていないのか、うっとりした表情のまま美月は目を閉じる。れいは美月の身体をそっとベンチに横たえ、しばらく無言で眺め続けていた。陽射しが濃い影を作り、彼の表情は誰にも見えなかった。

「――すぐに、魔法が効いて来るからね。ゆっくり、おやすみ――」


 * * *


 周囲の喧騒はもう何も聞こえない。

 さっきまで大騒ぎだった事故現場も、信号機をひしゃげさせたダンプカーも、跡形もなく消えていた。信号機も今まで通りすっくと伸びて立っている。

 事故などなかったかのように、公園の中では楽しそうな親子連れのざわめきと小鳥のさえずりが聞こえている。

 いや、『今』『ここ』では事故などなかったのだ。あれは既に遠い過去なのだから。


「あれが最後の記憶――」

 れいは唇を噛む。

 轟音と、兄の絶叫と……母親の声は、もう遠くにしか聞こえなかった。それが美月の最後の音の記憶――だから、母親の存在を遠くに感じていたのだ。だから、兄のことは思い出せなかったのだ。

 いや、兄の記憶が直接の引き金になっていたため、兄のことは思い出したくなくて自分で蓋をしていたのだ……三年間もの間、ここでずっと。

 でも兄を慕う気持ちも強くて、その行き場のない思いが、ここでの『れい』をこの姿にしたのだろう。

 そして、れいの中に湧き上がっていた美月に対する愛情。それから押し隠していた悲しみ、悩み、やり場をなくした後悔の念――これは美月の兄のものだった。

 彼は自己の心の中を分析する。これらの感情は『れい』自身の心と同化するように溶け込んでいたが、これは自分のものではない。


 ようやく、彼はすべてを思い出した。依頼者の依頼内容も、自分がなすべきことも。それから、自分の本当の名前も。

 思い出すにつれて、『れい』は中学生の『お兄ちゃん』の姿から徐々に変化していた。

 だが『ここ』ではこの姿に慣れてしまっていたため、すぐに元には戻らないだろう……童顔のせいで、普段から年齢相応に見られることの方が少ないのに、この姿では余計に怪しまれてしまう。


「肉体とは、あると便利なことも多い反面、無理が利かないことも多いのだな……」


 苦笑している間にも、ミシミシと骨が鳴る。無理に身体を成長させているせいだ。

 『ここ』で彼に与えられた肉体の年齢に逆らっているため、普段より余計に負担が掛かる。その成長痛のため、彼は時々顔を歪ませる。


 ふいに、携帯電話(スマートフォン)が鳴った。

 ――電話? 『ここ』に?

 れいはその音に驚く。この実在しない空間を超えて現実の『れい』――(なな)(いし)(れい)()に干渉できるのは、ここに関わる直接の依頼者のみだ。それはつまり、この件に関しての連絡ということになる。

 よくない予感と共に、ポケットから携帯電話を取り出して指をスライドさせた。


 『ここ』から出る前に、零芝はベンチの美月をもう一度振り返る。大丈夫だ、よく寝ている……目が覚める頃には、さっきのできごとも忘れているだろう。公園は昼間の明るさを維持し、彼女は下校途中に少し寝てしまっただけ、と感じるだろう。

 彼に会う前のように、美月はまっすぐ帰宅するだろう。そして、()()に会うことがなければ、そのまま『れい』のことも忘れてしまうだろう。

 少しだけ胸が痛い。これは『お兄ちゃん』の心が痛むのか。それとも『れい』の心が痛むのか……感傷と後悔がまだ胸の内に渦巻いている。

 だが、これはミスを犯した()()の責任なのだ。気持ちを切り替えねば。


 * * *


「――もしもし? ええ、どうしたんです? 何か、あったんですね? わかりました。落ち着いて説明してください――」

 電話を受けながら、もう片方の空いている手でポケットから何かを取り出す。それは水でできたような半透明のナイフだった。零芝はそのナイフで薄衣を裂くように、目の前の空間を裂いた。


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