7 れい ~ もしも時が戻せるなら
※事故の表現があります。
苦手なかたは、読まないようお願いします。
毎日少しずつ、れいは美月の家族について詳しくなって行った。
まず初めは母親の話だった。
最近はかなり落ち着いて来たようで、部屋の中もほとんど散らかっていないらしい。
だがまだ部屋のカーテンは閉め切ったままで、相変わらず美月の方を見ようともしないということだった。れいは、健気な様子の美月を元気づけようと考えて言葉を選んだ。
「でも、みぃちゃんのお母さんは、少しずつ病気がよくなっていると思うよ。もう少しだけ、我慢できるかな? その間、寂しいなら僕が――」
「みぃ、さみしくないよ? おかあさんはずっとおうちにいるし、まいにちれいちゃんともあえるから、たのしいよ」
本当に、心の底からそう思っているように、まっすぐな瞳を向けて美月はそう言い切った。
「そう……」
れいは曖昧に微笑む。
少し深入りし過ぎたかも知れない、と内心では後悔し始めていた。だが、このままの距離感を維持するように努め続けられれば、母親の状態がよくなった時に自然にシフトできるであろう。
しかし、彼には一点だけ気懸かりがあった。
父親との接点が少ないのはしょうがないとしても、兄の情報があまり出て来ないことは、どうにも不自然に思えてしょうがない。美月と少し年齢が離れているが、現在のことだけではなく、思い出話ならもっと出て来てもいいのではないだろうか。
彼は何度か『お兄ちゃん』について訊ねてみたが、具体的なエピソードに差し掛かるタイミングでいつも何か邪魔が入り、それに気を取られた美月は話すのをやめてしまう。工事のダンプが通り過ぎて会話が中断されたり、誰かが持っていた風船が割れ、その音に驚いた鳥たちが一斉に羽ばたいてそちらに注目してしまったり、砂場で遊んでいた小さな子たちが喧嘩を始めて片方が大声で泣き出したり……運命なのか神様なのか知らないが、随分とタイミングよく邪魔してくれるものだ。
そういう時の美月は、いつも別れ際に「れいちゃんみたいなおにいちゃんだったら、よかったのになぁ」とつぶやくのだった。
その日の夕方、美月を見送って手を振り続けたれいは、その小さな姿が視界から消えてしまうと、ため息をついて怠そうにベンチに腰を下ろした。
今日もまた、核心に迫るようなことは何一つ訊き出せなかった。
だが逆に、訊き出せないからこそ、そこに核心があるのではないか、とれいは考える。
「――少し、周辺を調べてみようか?」
彼は自問する。しかしそれは本来の自分のやり方ではないことは自覚している。
手当たり次第調べて回ることで徐々に核心に迫る、ということを上手くやってのけるやつもいるが、れいのような不慣れな者が調査を無理強いすると、何かを壊してしまうかも知れない。
ここまで慎重にやって来たのだ。もう少しのところで駄目にしてしまいたくない。
そんな感情を覚える。
れいには、こんなことは初めてだった。臆病風に吹かれた、という表現がぴったりだと思った。しかし何故こんなにも踏み込むのを恐れるのか……そもそも、何故自分はそんなに気になるのか。シフトするって何をだ? 『不慣れ』ってなんのことだ?
思い浮かんだ言葉に思考がついて行かず、頭を抱えてしまう。
「よくわからないが、やはり何か『お兄ちゃん』にあると思うんだけどなぁ……」
思い出せない何か、忘れてしまう何か。れいは今の自分自身が調子がよくないのはわかっていた。しかしその状態であまり長引くのもよくないだろう、と考えてもいた。
――明日もう一度だけ、美月に直接聞けるかどうか、試してみる方法を考えてみよう。
れいはようやく、そう決心した。
* * *
「ねえ、今日はちょっとゲームをしてみようか」
れいはそう切り出した。
美月は、ベンチにちょこんと腰掛けて、今日食べて来た給食のメニューについて熱く語っているところだった。
「ゲーム?」
「そう、ゲーム。お互いに話すことのお題を出し合って――あ、お題って意味、わかる? そう、今の美月ちゃんの話のお題は『給食』だったよね。それで、最後まで話し終わったら勝ち。いいものをあげるよ。でも途中でやめちゃったら負け。簡単でしょ?」
「まけたら、どうするの? ばつゲーム?」
美月は興味をそそられたようだが、負けた時の不安があるらしかった。
「負けたら? そうだなぁ……考えてなかったけど、じゃあ負けたら罰ゲームはこちょこちょ、かな」
れいがくすぐるような真似をすると、美月はきゃあきゃあと笑った。彼も一緒に笑ってみせる。この年頃の子供は、くすぐる真似をしただけでも騒ぎ始めるものだ。
だが、本当に罰ゲームをするつもりは彼にはなかった。本当の目的は、美月に最後まで話をさせることなのだから。
「ほら、給食の話もまだ途中だよね。今はまだゲーム開始してないけど、そういう時にやめちゃうと、負けってわけ」
少し意地悪な顔で微笑むと、美月は慌てて話を続けた。
「あ、あ、どこまでおはなし、したんだっけ? そだ、やきそばたべて、デザートのはなし」
――よし、この方法なら、今までよりはずっと先が見えて来そうだ。
彼は美月の話に相づちを打ちながら確信した。
「――で、さゆりちゃんがおやすみだから、だいちゃんがプリン2こたべちゃったの。おはなしおしまいっ」
満面の笑みで話し終えると、美月はれいを見上げた。
「つぎは、れいちゃんのばんね?」
「僕? そ、そうか、そうだよね……何の話にしようか」
自分が話さなければいけない、という可能性をまるで考えていなかったれいは、少したじろぐ。
元々彼は話すこと自体が得意ではないのだ。子供相手に何を話せばいいのか、見当もつかなかった。
「ん~とね、れいちゃんのおうちのはなしがいいなぁ。いっつもみぃのおはなしばっかりだから、れいちゃんもおはなししたいでしょ?」
――いや、別に話したくはないんだけどな……
れいは苦笑したが、
「わかった。じゃあ僕の家の話をしようか――僕の家はね、あっちの方にあるよ」
と、身体をひねって東の方向を指差した。
「あっち? みぃのおとうさんはあっちいくよ。えきからでんしゃのって、おしごといくの」
「そうだね、そう言ってたね。うん、駅の方、かなぁ」
「わすれちゃった?」
ふいに、美月が心配そうな表情でれいの顔を覗き込んだ。
そういえば、名前も忘れたのかと訊かれたな……と、彼は思い出し、ふっと笑顔になる。
「大丈夫、覚えているよ」
「よかった」
「僕ってそんなに忘れっぽいかな?」
「ううん、みぃがね、わすれちゃいそうなきがするの」
「……うん? どういうこと?」
母親との毎日が不安定なせいで、彼女の心まで疲れているのだろうか……と、れいは不安になる。
「みぃね。おやつたべたらねむくなっちゃうの。それで、おきたらあさなの」
小さい子の説明は要領を得ない。れいは根気よく訊き出すことにした。
「おやつを食べたら、朝まで寝ちゃうのかな?」
「ううん、おゆうはんもたべてる……みたい」
「みたい?」
「うん、ねたらわすれちゃってるみたい」
「みたい、ね……」
「みぃも、わすれちゃうびょうきなのかなぁ?」
「『も』……? ああ、みぃちゃんのは多分、病気じゃないよ――みぃちゃんのお母さんも、病気だからというわけでは――」
後半はほとんど独り言のようにつぶやき、れいは考え込んでしまう。
「……れいちゃん?」
れいの顔を覗き込む美月の表情は不安で曇っていた。
「あ、ごめん。ちょっと考え事……何かを忘れているような気がして――僕がそんなことになるなんて、本来ならありえないんだけど――」
「でもれいちゃん、おなまえわすれちゃったんでしょ?」
美月の言葉に、れいははっとする。
「そうだ……何故僕が忘れているのか、そもそもそれを忘れてる? いや、まさか」
れいは目を見開き、両手で頭を抱えた。
と、すぐ美月に向き直って、美月の両肩をほとんど掴むように手を掛ける。
「みぃちゃん、みぃちゃんのお兄ちゃんのお名前って『せんちゃん』っていうんだよね? 本当の名前はなんていうの? せんたろう? せんいち? それとも――」
「いたいよれいちゃん――おにいちゃんのおなまえはせんちゃんだけど、ほんとうは――」
「本当の、名前は?」
「うん、ほんとうのおなまえは――」
美月が兄の名前を口にしようとした時、公園のすぐ脇で今までにない大音響――ブレーキの音と、空気を震わせるような衝突音が響いた。そして何かが破壊される時のメキメキと軋む音が続く。
事故だ。ダンプカーが何かに衝突したらしい。
少し遅れて聴こえて来たのは、何人もの言葉にならない悲鳴だった。れいと美月は驚きと恐怖で固まったまま、首だけをかろうじて音のした方へ向ける。
悲鳴と怒声の中に混じって、誰かが通報した何台ものパトカーや救急車らしきサイレンも近づいて来る。
そしてその中でひと際響いたのは、悲痛な少年の声だった。
「みづき――――っ!!」
* * *
その一瞬で、この世界のすべてが塗り変えられた。