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6 謙太 ~ あの日忘れた時間には

 今年の入梅はいつもの年より遅くなりそうだと、朝のテレビニュースが伝えていた。CMが明けると、天気予報から芸能ニュースへと朝の番組のコーナーは変わる。

「ゆきちゃん。ほら、テレビばっかり観てないでちゃんと食べて?」

 夫の弁当を作りながら、妻の葉月は息子をたしなめる。

「だってさぁ、これ今日やるドラマのさぁ」

 視線だけはしっかりとテレビに釘付けのまま言い訳する息子に、ガスの火を止めながらため息をつく葉月。

「もう、ゆきちゃんったら」

「だからゆきちゃんってやめてよ」

「あら、そうだったわね」


 彼らが毎朝同じ行動、同じ台詞を繰り返しているような気がするのは謙太だけではあるまい。しかし、それで険悪になるというわけでもなく、そのやりとりを楽しんでいるようにさえ見えて来る。

 手際良く弁当を作り終え、謙太の食器を下げる代わりに食後のコーヒーを置き、自分の分のコーヒーカップを手にして葉月もテーブルに着く。

「あ、そうだ。今日はさ、部活の後ユージん家に寄って来るから」

 その言葉に、母親は優しくうなずいた。

「じゃあいつもより少し遅いのかしら? 夕飯には間に合うようにね――」

 ふと時計を見上げて、葉月は困ったような顔をする。


「それにしても、うちのお姫様は、相変わらずお寝坊さんねぇ……」


 その途端、父と息子は困り顔になってお互いそっと目配せをした。

「あ、ねえお母さん、このドラマ、録画しといてよ?」

 葉月にはもうその声も聞こえていない様子だ。どうしてもまだ開かないドアが気になるのか、そわそわと落ち着きがなくなった。

「母さん、薬は飲んだのか?」

 謙太が少し大きな声で引き留めると、今にも立ち上がりそうだった葉月は、きょとんとした表情で夫を振り返る。

「お薬? なんのお薬でしたっけ?」

 やはり、飲み始めの頃と同じで、薬のこと自体忘れているらしい。謙太はキッチンのカウンターの上に置いてある大きなピルケースを掴んで葉月の前に置いた。


 * * *


 七石なないしのクリニックに寄った日の夜、早速謙太がピルケースを確認した。すると、一週間分で七列あるピルケールの最後の二列分に薬が残っていた。

 土曜の夜に詰め直し、日曜始まりで使用しているものだ。途中飲み忘れたものはカレンダーに印をつけ、また土曜日にすべてに詰め直すというルールになっている。

 下から二列目には一回分の薬が残っている。つまり金曜の夜からまったく飲んでいなかったことになるのだろう。

 葉月に見せても、何故そんなものがそこにあるのか、誰のものなのかすら覚えていなかった。ついきつい調子で言い聞かせそうになったが、謙太はぐっとこらえて薬の飲み方を説明して聞かせた。


 彼は七石の言葉を思い出す。

「――淡い紫色の錠剤は、『忘れる』ためのお薬です。これで奥様の心を軽くします。もう一種類の、淡いピンク色の錠剤は、『置いて来る』ためのお薬です。これはお子様のために、奥様の心を一部を置いて来るために必要です。どちらも大切ですが、特にお子様のためにはピンクの錠剤が重要で、これがない場合、お子様はお母さんに向き合ってもらえないと感じて──」

 やはり何度聞いても胡散臭く突拍子もない話に聞こえる。

 しかし実際、飲まなかった頃の葉月は今より酷かった。そして説明通り飲んでいた時は、確かに落ち着いていた。そして、飲み忘れたのか、それとも意図的に飲まなかったのか、いずれにしてもその結果がこれだ。

「最初の二週間は朝昼晩、そして寝る前に白い錠剤を――これは寝つきをよくするお薬ですが――これを、忘れないように、ご主人が注意して見てあげてください」

 大きな薬瓶を二種類と二週間分の睡眠導入剤のシートを渡されて、謙太はそう説明を受けた。


 今回もまた一日三回と睡眠導入剤のやり直しからで、今朝はまだ四日目だ。その日の夜から再開したので、実質まだ三日目ということになる。

 習慣づくまでの最初の一週間くらいは、毎回分謙太が確認してやらないといけない。昼間の分は自宅に電話をして確実に飲ませるようにする。習慣にならないと覚えられないのは、今の葉月の精神状態ではしょうがないことだという説明もされた。

 胡散臭いと思っている理由は、その薬そのものにもある。

 普通は内服後三十分から一時間経たないと目に見えるような効果はないはずで、ものによっては『目に見える効果』なんてのはなく、服用を続けていたらいつの間にか調子が良くなっていた、という種類の薬もある。

 しかしこれを飲み下して間もなく、葉月はぽわっと夢見るような表情になって空気の抜けた風船のようにソファに座り込んでしまうのだ。


 初回の時はダイニングテーブルで飲ませたので、危うく椅子から転げ落ちるところだった。

 以降は、必ずソファに座らせてから服用させるようにしている。謙太たちが市販の風邪薬を飲む時のように、コップに水を汲むついでにシンクに向かって立ったままなんて、とてもじゃないが勧められない。

 『忘れる』薬というのは、特定の感情に関係する記憶だけを忘れるように処方されているという話だが、薬に慣れるまでは薬を飲んだことも、飲むことも、忘れてしまうのだという。

 その説明を受けた時、「副作用の一種じゃないのか」と謙太は眉をしかめたが、「健康上は問題ないし、仕事や生活に関わる他のことを忘れたりはしないから大丈夫ですよ」と七石に軽く流された。


 服薬したあとの脱力状態は大抵三十分。長いと一時間を超えることもあるが、やがて昼寝から覚めるように徐々に目に光が宿って来て、普段の葉月と変わらない様子に戻る。

 実際、葉月本人は「あら、うっかり寝ちゃったかしら」などと言うこともあるのだ。しかし、目を閉じていたことはない。ただ脱力し、人形のようにそこに存在しているだけだが、普通に呼吸も瞬きもしている。

 息子はその様子を見て「魂が抜けたようだ」と言ったことがある。謙太も時々、そのまま葉月の魂が戻って来なくなるのではないかと空恐ろしく感じることもある。そんな『副作用』はない、とこれも七石に一蹴されたが。

 初めのうちこそ物珍し気に眺めたり寄り添って、母親が『目覚める』のを待っていたりした息子だが、やがて飽きてしまったのか謙太のように感じることがあるのか、葉月が薬を飲むタイミングでさり気なく席を外すようになった。

 実は、初回のカウンセリングでは謙太たちにも同じ色の小さな錠剤を勧められたのだが、断わっておいて正解だったと、今でも思っている。


 ――とにかく、問題なのは葉月の様子なのだ。自分たちはそれが解決してからでも遅くない。


 * * *


「これは? 誰のお薬?」

 ピルケースを前に、葉月は夫に問い掛ける。何十回となく繰り返されるそのやりとりを、謙太はまた耐えなければならなかった。

「これは母さんの薬だよ」

「でも私、どこも悪くないわ?」

「そうだね。そう見えるけどね、でもお医者さんが言ったことだから。毎日きちんと飲まないと」

「そうなの……お医者様が」


 あの青年を『お医者様』と呼ばせるのは甚だ不本意だが、葉月は昔から教師や医者といった立場の人間の言うことなら比較的素直に聞く。だから、謙太もそう言い聞かせて服薬の準備をした。

「水を用意したから、こっちのテーブルで――」

 夫がてきぱきと準備をしているのを不思議そうな表情のまま眺めていた葉月は、飲み掛けていたコーヒーカップを置き、ふいに立ち上がる。

「やっぱり、ちょっと起こしてくるわ」

 そう言うと、そのままダイニングキッチンを出て行こうとする。

 謙太は慌ててソファから立ち上がる。

「ゆき、出られるなら先に行ってなさい。皿は父さんがやっておくから」

 父親の言葉に神妙な顔で小さくうなずき、無言のままトーストの残りを口に押し込む。目で挨拶を交わすとそのまま息子はカバンを掴み、固い表情のまま玄関に走った。


 ――もう三年になるのに……だが、まだ三年しか経っていないのだ。

 今、一番の被害者は、ひょっとしたら息子なのかも知れない。時々謙太はそう考えるが、それは誰にも言ってはいけないことだった。


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