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5 れい ~ 初夏は遠く夕焼けに

 れいは今日もベンチに寝転がって、雲の流れを見ていた。

 ひたすら美月を待つ間、時おり美月の自宅がある団地群の方を眺めたりする。

「……相変わらず、不安定な並び方だ」

 いつ見てもそのような感想を抱いてしまう。

 人間にはどうすることもできない、大きな不思議な力を持つ手で、ピンと弾かれてゆっくりとドミノのように倒れて行く様子を想像する……そんなアニメを、いつか見たことがあるような気がする。

 いつだったのかわからない、いや覚えていない。遠い昔のような気もするし、去年か、ひょっとしたら先月の話かも知れない。それには猫とネズミが出て来ただろうか。それとも、デフォルメされた二頭身のキャラクターがたくさん出て来ていただろうか。


 虚構ではなく現実の世界でも、何かきっかけがひとつあれば、不安定なひとコマがふいに倒れてしまったりすることはあるものだ。きっかけなど、誰かがついと弾いてしまえば連鎖して次々と倒れて行く――世の出来事も人間の心も、まるでドミノのようだとれいは思う。

 そしてそのドミノ倒しは一人の心だけではなく、周囲の人間にも伝播する。


 ――神の視点とやらで見れば、その様子も美しい風景画に見えるのだろうか……それとも醜いモザイクに見えるのだろうか。


 やがて、彼を呼ぶ小さな女の子の声が遠くから聞こえて来た。遠く、遠く、か細く――彼以外の耳には、犬の遠吠えにも聞こえるかも知れない。だが、彼はその声を聴き分ける。

 その声がはっきり聞こえるようになるまで、彼女がこの公園に、このベンチの近くに来るまではじっくりと待つ。

 ベンチに寝転がって、待ち続ける。


 * * *


 あれから毎日、美月は公園へ寄り道をするようになった。

 入学した頃ならば、美月の帰宅が少しでも遅いと母親が心配して窓からずっと外を眺めていたり、待ちきれなくなって外に出てまで美月の帰りを待っていてくれたものだが、今では「遅かったわね」どころか「おかえり」の一言もないらしい。


「でもね、おへやのなかがすこおしだけ、きれいになってるの」


 美月は小さな希望でも、毎日何かしら見つけて少年――『れい』に報告するのだった。

「そうか、じゃあお母さんの病気も少しよくなっているのかな」

 れいはまるで自分の親の話をするように喜んで見せた。美月もそれに笑顔で応える。

「そうかも。びょういんにいったかわからないけど、きっとおとうさんがおくすりもらってきてくれるとおもうの」

「お父さん? お医者さんなの?」

「ううん、でも、おかあさんがぐあいわるくなると、おとうさんがおくすりかってきてくれるから」

 それは風邪薬などのことだろうかとれいは考えたが、口にはしなかった。そんなもので治るような症状ではないのだが。

「そっか……もし病気だったとしても、急いで治ろうとすると無理があるらしいからさ。美月ちゃんも急がないように、ゆっくりでいいんだよ。その間、お話なら僕が聞いてあげるからさ」

「うん、ありがとうおに……れいちゃん」

「どっちでもいいよ」

 れいは笑い、美月も笑った。


「あぁそうだ、みぃちゃんのお兄ちゃんってどんな人なの? 僕に似てる?」


 『おにいちゃん』と呼び慣れているのは兄妹仲がいいのだろうか。れいはそう考えていた。兄が部活に夢中で、そのせいもあって美月が寂しがるのではないか。そんな予想をしていた。

「どうして?」

「ん~……なんとなく、そうなのかなぁって」

 しかし、美月の答えは違っていた。

「う~んと、れいちゃんにはあんま、にてない。おにいちゃん、いじわるするし……みぃのおやつ、たべちゃうとかいうし」

 口を尖らせて不満を述べる美月の様子は愛らしい。兄の『せんちゃん』は、年の離れた妹のそんな様子が可愛くて、つい意地悪するのではないだろうか。その気持ちはれいにもわからないでもない。

「そっかぁ、困ったお兄ちゃんだね。食べちゃうんだ?」

「ほんとにたべたことは、たぶん、ない……でも、たべちゃうっていうから」

 やはり、美月の兄は妹のことが可愛くて構いたくてしょうがないらしい。その様子を想像すると、なかなか微笑ましいものだ。


「あ、れいちゃんは、せんちゃんとおなじがっこうじゃないの?」

 ふと、思いついたように、美月は訊ねる。確かに、年の頃なられいも美月の兄も同じ年代くらいだろう。

「あ~……そうだな、違うみたいだ。せんちゃんって名前に覚えがないもの。それよりみぃちゃんのお兄ちゃんの話を聞かせてよ。お父さんの話でもいいよ。聞きたいな、僕」

 れいは曖昧に微笑むと、話題を戻した。

「うん、いいよ。あのね、こないだなんだけどね、テストだからおにいちゃんだけはやくかえってきてるときがあって――」


 時折通り過ぎるダンプカーが、土埃を公園の中に漂わせる。

 まだしばらく雨の予報はないようで、朝に夕に公園の管理者が水を撒いたりしているが、タイヤが巻き上げる埃以外に、ダンプカーが運んでいる土砂からも砂利などが時々落ちるのだ。

 横断歩道の付近の車道の端にはいつの間にかそういった砂利や土、砂などがうっすらと堆積し、雨が降らないので誰かがそこを踏むと小さな土埃がまた舞うのだった。

 遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。やがて、小鳥たちのさえずりや公園の梢のざわめきがそれを掻き消してしまう。

 そういった音を聴きながら、明日もまた同じように、二人はこの公園で時間を潰すことになるのだろう。


 * * *


 夕方、辺りが朱く染まり始めた頃にようやく美月と別れ、公園のベンチにはれいが一人だけぽつんと取り残されている。公園内の人影もそろそろまばらになる頃だ。

 紙切れで作られたようなペラペラの人影が、談笑したり別れの挨拶を交わしたりしながら、三々五々散って行く――彼には夕暮れの公園の風景がそんな風に見えていた。


 美月がつけてくれた、この『れい』という名前は、彼自身も気に入っていた。この響きは『自分』にしっくり来る、そう思うのだった。

 だが美月との会話を反芻するうちに、美月がどこで『れい』という名前を聞いたのだろうかという疑問が浮かんで来た。

「あの横断歩道の手前で出会う直前まで接点などなかったはずだ。父親が『れい』という名前を美月に教えるだろうか? いや、そんなことは考えられない……母親は尚更、論外だ。そんな名前など聞いたこともないだろう――では誰が?」

 ぶつぶつと独り言をつぶやき続けるその周囲には、もう誰もいなかった。景色は益々朱くなり、背後からはインク色の夜が忍び寄っている。傾いた陽はれいのその表情に影を作る。


 ふいに、彼は膝を打った。

「そうか、あの子の兄なら」

 以前、美月が兄について話す時に部活という言葉が出て来ていたことがある。つまり中学生以上であろう。父親が何をしようとしているのか、疑問に思ったまま何も問わずに過ごせるような年齢ではない。父親も、名刺くらいは見せた可能性がある。

「そうか、それで『おにいちゃん』か……」

 我ながら名推理だと満足しながら、また寝転がる。遠くで子供たちの帰宅を促すメロディが流れ出していた。

「――交響曲第九番、第二楽章……テストに出たっけなぁ」

 風に流されるのか、時おりそのメロディが遠ざかる中、少年は目を閉じる。


 どれくらい寝転んでいただろうか。先ほどの自分の推理を反芻していたれいは、辻褄が合わないと気づいた。

「――名刺? 名刺って何の話だろう?」

 折角の名推理の確信だったが、もう早彼には自信がなくなってしまった。何か思い込みを持っていたのか、それとも何か忘れているのか……どうしてだか、『ここ』に来ると滞在時間に比例して記憶が曖昧になるような気がする。

「うーん……僕が物忘れなんて、変だなぁ……」

 少しの間眉間に皺を寄せていたが、考えても何が足りないのか思い出せなかった。だが次第に、どうでもいいことのように思われて来た。

 忘れたということは、それほど重要じゃなかったのかも知れない。もし重要なことだとしたら、忘れていたこともそのうち思い出すだろう。


 れいは今日の美月との会話をまた反芻する。ついつい年長者として手を差し伸べて、美月に答えを教えてしまいそうになるのだ。しかし、時にはそれをこらえて待つことも必要なのだと理解もしている。

 大人相手なら、そう、例えば彼女の父親が相手なら、そんなお節介は決してしない。それくらいの分別は彼にもある。しかし美月には助けてあげたくなるようなか弱さと、ちょっかいを掛けて構いたくなる愛らしさがあるのだ。


 ――これは彼女の『お兄ちゃん』の気持ちなのだな。


 そんな風に、れいは納得する。彼女の話を聞いていると、彼女の兄の気持ちに同調(リンク)するような感覚があるのだ。しかし、その衝動のままに行動しては『お兄ちゃん』のマガイモノでしかなくなる。

 だから『れい』には待つ必要があるのだ。

 もっとれいの近くまで、もっと『れい』を必要とするまで。

 冷静な観察者としての彼は、いつかこの関係が終ってしまうことを知っている。どこまで行っても、マガイモノはマガイモノでしかない。だが、今はそれを考えないようにしようと思う。


 ――だって、れいは美月の『お兄ちゃん』なのだから――


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