4 謙太 ~ ある晴れた初夏の日の午後
午前中のうちにきりのいい所まで仕事をまとめた謙太は、昼休みに入ると弁当を急いで胃に詰め込み、外出の予定をボードに書き込んだ。
「あれ、先輩。今日は外回りありましたっけ?」
部下の紅林がカップ麺をすすりながら顔を上げた。予定表のボードからは離れた席にいるというのに、目敏く謙太の姿を確認したらしい。
「いや、個人的な所用だ。許可は取ってある。つかクレ、その資料に汁飛ばすなよ。俺も使うんだから」
膝の上には今週末会議に出す資料の原稿ががさがさと乗せられている。箸を持ったまま片手をひらめかせて返事を済ませる紅林は、これでもなかなか優秀な営業なのだ。
謙太より十歳近く年下のくせに、いつもどこか馴れ馴れしい奴なのだが、しかしそれが不思議と不快じゃないという不思議な才能の持ち主なのだった。紅林以外の者相手なら、不作法を厳しく注意しているだろうが、不思議と営業中には粗相がまったくない男なのだ。
今も、直前まで食事より資料に集中していたところを、謙太の姿が視界の端にでも映ったのだろうか、誰よりも先に声を掛けたのだ。
――俺は、仕事にも部下にも恵まれているんだ。
謙太はまた食事に、というより資料に集中し始めた紅林の背中を見やって、心の中でもう一度自分に言い聞かせる。そして深い息をひとつしてから、目的の場所へ向かった。
* * *
そこは謙太の会社から徒歩で十分もない、雑居ビルの三階にある。
薄暗いビルの廊下を進み、奥から二番目の右手の部屋だ。ドアには数字が羅列されている小さいプレートが貼ってあるが、いつからあるのか手書きの文字がかすれてしまってよく読めない。
もっとも、ここの主はわざと読めなくしているのではないかと、謙太は考えている。何しろ、話が非常に胡散臭い──下手すれば詐欺などで訴えられそうな──微妙な『商売』だからだ。
一度面と向かって本人にそう言ったら、相手は一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、すぐくすくすと笑ってこう言った。
「やだなぁ。詐欺じゃないのはご主人が一番よくわかっているじゃないですか。それに──これは商売というより治療のようなものですからね。取引と言う人もいますが……どちらにせよ、必要のない人にはお譲りできませんし」
その時は夕方で、赤くなり掛けた西日が彼をほっそりとしたシルエットに見せていた。
紅林よりも更に年下で、ともすればまだ学生にも見えるような若さの青年だ。しかし、普段は穏やかに見えていたはずのその微笑みは、夕日の逆光の中では何故か、この世のものには思えないような不気味さと脅威を謙太に与えたのだった。
* * *
「嫌なタイミングで思い出しちまったな……」
ドアノブに手を掛けようとした寸前で、謙太の動きは止まってしまっていた。
しかし、ここでひるんでいるわけにはいかない。今日は文句を言いに来たのだ。
と、ふいにドアの向こうに人の気配を感じた。ぼんやりと映った影が動き、ドアに近づいて来る。思わず謙太は身を退いた。
「なんだ、誰かと思ったら……もうそろそろ、お薬追加の時期でしたっけ?」
ドアを開けて謙太の顔を見た途端、ここの主であり自称カウンセラーの七石が目を丸くしたまま問い掛けて来た。
その表情は更に彼を幼く見せる。中性的な顔立ちだから尚更、カウンセラーというのも、その実績も、謙太には信じられないのだ。少年を卒業したばかり――せいぜい二十歳になったかどうかというように見える青年だからだ。そして今は更に、その実績というのも怪しいところだ。
「いや、薬は……多分、確か、あと一ヶ月分はあるはずなんだが。それよりも、その薬が効いてないみたいなので、今日はクレームを──」
「効いてない? おかしいですね?」
七石は言葉を遮り、その繊細な柳眉をひそめた。そして「立ち話もなんですから」と、謙太を招き入れる。
怒りと恐れと焦りがないまぜになり、落ち着かない気持ちの勢いそのままにクレームをつけようとしていた謙太は、うっかり毒気を抜かれる形になってしまった。
しかし、感情に任せて迫るより、落ち着いて説明した方が得策だと考え直す。
席に通されてまもなく、七石自身がコーヒーをふたつ持って来た。しかしその表情は心なしか憮然としている。
「でもねぇご主人、今日はたまたま午後から空いてましたけど、本来ならば一本ご連絡をいただかないと。先客があったり、僕だって往診に出ているかも知れないじゃないですか」
自分用のマグカップを置き、謙太と向かいのソファに座って、七石はそう言った。その口調はビジネスライクとは言い難く、どちらかというと小学校の教師などが児童に対して叱り、言い含める時のそれだった。
「それは、そうだった。申し訳ない。しかし、今日は会えるという確信が何故かあったんだ──いや、会わなければいけない、という確信が、あった」
ついうっかり「先生、ごめんなさい」と言いそうな気分になっていた謙太は、気を取り直して、あくまでもサービスを受ける側という態度を保った。
七石と面と向かっていると、何故か時々自分が小学生くらいの時代に戻ったような感覚に陥る時が謙太にはあるのだ。
七石は少し首を傾げて話の先を促す。
「簡潔に言えば、妻の様子がおかしくなって来た。その、薬が効いていないんじゃないのか?」
謙太は視線に力を込める。
詐欺師は言葉巧みに相手を誤魔化そうとするものだ。さて、どんな言い訳をするつもりなのか、じっくりと拝見してやろう――という具合だ。
しかし、七石は少し考え込む風に、顎にそっと手を触れた。
女性の手にしては少し骨っぽい、だが謙太の手と比べるとやはり女性的な柔らかさがあるように見えるその手のゆらゆらとゆっくり揺れるさまに、彼はしばし見とれる。それすらも演技なのか──それとも。
「奥様は……きちんとお薬を毎回お飲みになっていますか?」
やがて発せられた言葉に、謙太ははっとした。
「飲んでいるはずだと……だが、ここ一週間ほどは、私も仕事が忙しくて確認していなかった……帰宅が遅くなって、そのまま自宅で徹夜することもあったので……」
果たして。今度こそ彼は「先生、ごめんなさい」と言わなければいけない気分だった。最近の葉月の様子を思い返そうにも、向き合えていた時間は帰宅後のほんの数分しかなかった日もある。まさか──
「ふむ……普段、ピルケースには、奥様がご自分で?」
「そう、ですが、妻にはそれを飲む理由を伝えてないので、いつも私が見ている時に準備させていて……」
脂汗が出て来た。七石の視線は責める様子ではなく、あくまでも穏やかだ。しかしその裏に巧妙に隠された感情を、どうしても謙太は感じてしまう。それが彼の被害妄想だとしてもだ。
「それはいつも何曜日なんですか? やはり日曜に?」
「いや、うちは土曜日に次の週の準備をしてしまうという家族のルールがあって……」
ふいに謙太の目に涙が溢れそうになった。そのルールは、子供のために葉月が作ったものだ。
「……そうでしたか。では先週の土曜──」
「いや、忙しくしていたのは先々週の木曜からだったので、その土曜からだと思う。今日は火曜日だから……俺のせいか……」
深く、苦いようなため息が謙太の口から吐き出された。
七石も小さくため息をついたが、そのまま何も言わずコーヒーをゆっくりと飲み始めた。
「あの、先せ──七石さん、どうすれば……」
「まず、コーヒーが冷めてしまうので飲みましょう」
七石はゆったりと微笑んだ。謙太が呆れた表情で見返すと、
「どうすればいいかは、もうご主人がよく理解なさっているから、僕からは特に何もありませんよ。あ、カウンセリング代だけは、基本料金いただかなきゃいけませんけど……」
「あ、ああ」
──またやり直し、か……
ぬるくなり始めたコーヒーを流し込むと、少しの諦めと気持ちの区切りができたような気がする。
「大丈夫ですよ。まだやり直せます。でも、今度は間違えないようにしてくださいね」
諭すように、たしなめるように、その青年は語り掛ける。
何度聞いても胡散臭く、突拍子もない話に聞こえる。
しかし実際、飲まなかった頃の葉月は今より酷かった。そして説明通り飲んでいた時は、落ち着いていた。そして、飲み忘れたのか、それとも──ひょっとしたら意図的に飲まなかったのか──いずれにしても、その結果があれだ。
まず、今日は早めにあがらせてもらおう。そして錠剤の残りの数と、ピルケースを確認しよう……そうしなければ葉月が……家族が、壊れてしまう。
「──で、ご主人、僕の説明聞いてもらえてます? なくなる一週間前にご連絡いただいた方が確実ですからね?」
相変わらず胡散臭いが、おまけに薬代も保険が効かないとかでやたら高価だが、まだしばらくはこいつに付き合わなければなるまい。
謙太は青年に曖昧に頷いて見せた。