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3 美月 ~ 記憶とジレンマ

 晴天の日が続く。

 今年の入梅はいつもの年より遅くなりそうだと、朝のテレビニュースが伝えている。

 美月には『にゅうばい』が何なのかは理解できなかったが、どうやらいい天気がまだ続くらしいということはわかった。


 相変わらず部屋のカーテンは閉め切られたままだ。だが、部屋の中は以前より多少片づいていた。

 美月が片づけたわけではない。

 絵本など、自分の部屋に持ち帰られるものはできるだけやってみたが、家に帰っておやつと宿題を済ませると眠くなってしまい、その後の記憶が曖昧になってしまうのだ。

 朝になれば、ベッドで目覚めるし、夕食を食べた記憶も思い返せばある。しかし、どうしてもそれは『記憶』でしか残っていないのだ。そしてその記憶の中で母親や兄の姿を探しても、もやが掛かったようによく見えなくなってしまうのだった。


 美月の父親は毎朝「つうきんじかんが」と言って早く出掛ける。中学に上がったばかりの兄は「ぶかつのあされんが」とか「ぶかつのせんぱいが」と言って、やはり妹よりは早起きだ。なんだかよくわからないけど二人とも早起きする理由があってかっこいい、と美月は思う。だからできれば何か理由を見つけて早起きして一緒に朝ごはんを食べたいのだが、何しろ眠いのでなかなか起きられない。

 毎朝彼女が起きて来る頃には、大抵は二人が出掛けてしまっていた。それでも、母親が今のようになるまでは、美月もたまに頑張って早起きして一緒に食卓を囲み、お喋りしたり行儀をたしなめられたりしながら朝の時間を過ごしていた、はずだった。

 しかし今では、朝に父親や兄の姿を見掛けることはまったくなくなってしまった。

 

「みぃもびょうきなのかなぁ……」

 ピンク色の子供用茶碗に赤いウィンナーを乗せて、美月はつぶやく。母親からは「お行儀が悪い」と叱られる食べ方だが、美月の兄は目玉焼きまで乗せて白飯を掻き込んだりする。時にはトーストに目玉焼きやハムなどを乗せて食べていることもあるが、彼女にはまだそれは真似できない。


 それに、今の母親は、そんな食べ方をしている娘を叱ろうともしない。


 毎日美月が部屋から出る頃には、いつもきちんと彼女の朝食が用意されているが、母親の視線は相変わらずテレビに釘付けだ。

 学校では休み時間ごとに窓を開けて空気の入れ替えをするのが約束になっているのだが、美月のうちではあまりそれをしない。特に春先から梅雨に入るまでは、窓を開けようとすると花粉症持ちの兄がなんだかんだと大騒ぎするのだ。

 だがカーテンも窓も閉め切っているせいで、室内の空気も澱んでいるように感じる。空気が汚れていると病気になりやすいと、美月はテレビ番組で聞いたことがあった。もしも汚れている空気のせいで母親が病気になったのだとしたら、美月自身も同じ病気になるかも知れない――幼いながら、母親がこうなってしまった原因をどうにかして突き止めたいと考えていた。


「カーテンあけたらだめなのかなぁ」


 この景色がいいんだ、と美月の父親は言っていた。多分ここに入居している半数以上はその理由も大きいだろう。

 このリビングの窓は東を向いているから、今カーテンを開ければ眩しいくらいの陽射しが入るはずだった。実際、カーテンの生地を通してでも外の明るさが感じられるくらいだ。

 そして東側は美月の学校がある方向だ。

 なので美月は毎朝、四階のこの窓から母親が見送るのを確認しつつ登校し、下校時にも早く母親の姿が見えないかと思いながら走って団地の敷地内を自宅の棟まで向かうのだった。母親もそれを気に入っていたはずなのに、ある時から突然、すべてのカーテンを閉め切ってしまうようになった。

外の世界を、そして美月をも拒否するように、母親はすべてから引き籠ってしまい、娘の顔を見ることもほとんどなくなった。それがいつ、何がきっかけだったのかは思い出せないが、美月には「おかあさんのいうことをきかなかったから」という記憶だけが残っている。そのせいで、自分は母親から嫌われたのかも知れない――美月はそうも考えている。


「おかあさん、いってきます」

 食べ終わった食器を自分で下げて、ランドセルを背負い、帽子をかぶり、挨拶を忘れずに。

 今の美月には、母親に言われたことをひとつづつ、忘れないように繰り返すしかできなかった。この毎日がいつまで続くのかわからないが、いつかきっと、以前の母親に戻ってくれると信じて。


 * * *


「おにいちゃん!」

 美月は積極的に少年の姿を探していた。

 昨日一緒にお喋りをした、陽の当たるベンチには誰もいない。砂場では隣の棟の赤ちゃんとその母親が静かに遊んでいる。他には水飲み場の近くのベンチにお弁当を食べているOLらしき三人組。それから――


「やあ、みづきちゃん。今日も来たんだね」


 少年は木陰になっているベンチで寝転んでいた。気だるそうに身を起こし、目を細めて彼女を眺めた。強い昼間の陽射しの中では、その木陰に誰かがいても美月にはすぐ見つけられなかったのだ。

「だってここ、みぃのうちのかえりみちだもん」

 今日もいた、いてくれた。そんな安堵を感じながら、ベンチに駈け寄って隣に腰掛ける。

 二人がいる公園の脇を、ダンプカーが忙しそうに行き交っていた。少年は薄い土埃が上がった方向を眺めてから美月に視線を戻す。

「そうだったね……そこの信号を渡るんだったっけ」

「うん、そう。それで、あっちにみえるおっきなだんちのとこが、みぃのうちなの」

「ふぅん……」


 少年はまた目を細めて団地に視線を向けた。それぞれの棟が微妙に角度をつけて並んでいる。少しの間眺めていて、突然小さく吹き出した。

「どうしたの?」

 美月はきょとんとする。

「いや、なんか……きっと上から見たら、マッチ箱を並べたように見えるんだろうな、って。神様がドミノ倒ししてるのかなぁ、って考えたら」

「ふぅん? みぃ、おにいちゃんとドミノだおしやったことあるよ。でも、おにいちゃんはすぐ『じゃまだ!』っておこるんだよね」

「え? 僕と?」

 少年は目を丸くしたが、美月はふるふると頭を揺らし、「ううん、みぃのおにいちゃん。あのねぇ、なまえはねぇ……あれ?」

 続けて出て来ないことに戸惑い、眉間に小さな皺を作る美月。少年はひっそりと、冷静な観察者のようにその様子を眺める。


「――あ、そうそう、せんちゃん、なの。でも『おにいちゃんていえ』っていうから、おにいちゃんっていうの」

 ようやく思い出し、にっこり微笑む美月。

「せんちゃん、かぁ。僕の名前とは違うみたいだ」

 噛みしめるようにつぶやくと、少年は寂しそうな笑顔を見せた。

「あ、じゃあねえ、みぃがおにいちゃんのおなまえつけてあげる──れいちゃん、とかどうかなぁ?」

「れい?」

「うん、まえにね、どこかできいたおなまえだけど、かっこいいからおにいちゃんにあうとおもうよ」

 得意満面な美月の言葉に、少年は少し照れるような様子を見せた。

「かっこいい、か……僕はそんなんじゃないんだけどな」

「ううん、かっこいいよ、おにい……れいちゃん」

 二人は顔を見合わせてくすくすと笑い合った。


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