2 謙太 ~ コーヒーカップと謙太の部屋
謙太は新聞を片手にリビングのカーテンを開け放った。
初夏の日差しは断熱窓を通していても柔らかい温かみを感じる。眩しさに目を細めながらゆっくりと背伸びをし、そのまま左右に曲げながら身体を伸ばすと、肩から腰に掛けての関節がみしみしと音を立て、一つずつ剥がれて行くような快感が伝わって来る。
──いい朝だ。
家族と共にこの団地に越して来たのは三年前。まだ新築だった頃だ。
彼はこの部屋の日当たりがいいところが特に気に入った。通勤時間が延びることを心配した妻を、むしろ夫である謙太が説得して入居を決めたのだった。
当時からのご近所づきあいもつかず離れずの距離感で続いているし、その後越して来た住人たちもおおむね良識人ばかりなので、隣人トラブルというやつとは今のところ無縁の生活だ。
肩の関節をぐるぐる回してから、独りごちる。
「この分ならそろそろ、半袖にした方がいいかも知れないな」
クールビズにはまだ早いが、エアコンもそう簡単には入れてもらえないのが昨今の職場の常識だ。打ち合わせが入った時にはしょうがないが、普段は半袖のワイシャツで、着替え用に一枚長袖のものを会社に置いておけばいいだろう。
どうせ外回りの際には、上着もずっと腕に掛けた状態で持ち歩くことになるのだが、あと約一ヶ月は耐えなければならない。
「おはよう、あなた。今日は早起きね。よかった」
ダイニングキッチンから、妻の機嫌のよさそうな笑いを含んだ声が聞こえる。
「おはよう……たまたま、先週は夜更しが続いただけだよ。もう回復したはずだ」
苦笑しながら夫は答える。
妻の目には毎日そんなに朝がつらそうに見えていたのだろうか。数年前までなら多少の無理が効いたが、そろそろ年齢を自覚しなければいけないのかも知れない。
もっとも、最近仕事に没頭していたのは、忙しい以外の理由もあったのだが……
妻の葉月は鼻歌を歌いながら、家族の朝食を用意している。その鼻歌も、久し振りに聞いた気がする。いや、最近の彼が、そこまで気にするような余裕を持てなかったというのが正しい。
「幸せ者、か……」
謙太は幸せ者だと、みんなが口を揃えて言う。良妻賢母を絵に描いたような、と、周囲の人たちから言われる妻。多少通勤距離が遠くても周辺環境に恵まれた自宅を手に入れられたこともそうだ。
幸せ者。そう思わなきゃいけないのかも知れない。よき妻、よき息子、そしてやりがいのある仕事。俺はまだ恵まれているのだと。
――もう三年……いや、ようやく三年になるのだから。
自己流の体操を終え、筒状に丸めていた新聞を伸ばしながらダイニングキッチンに移動する。
朝食の準備もほぼ済んでいるが、一人で先に食べ始めることは滅多にしない。同じ時間帯に出掛ける息子が起きて来るまでは新聞を読みながら待つことにしている。
毎日毎日同じようなやりとりを繰り返すその短い時間だけでも、何かあればいつもと違う空気を感じる。自分が夫として、そして父親としての責任を果たさなければ……謙太にはその思いが強い。
朝は早く出勤してしまい、夜も遅くまで帰宅できない彼が少しでも家族と一緒の時間を持とうとするのは、自分のためというより家族のためだった。
「そろそろ、子供たちを起こさなきゃいけない時間かしら……」
サラダボウルを手にして、葉月は時計を見上げた。
妻の言葉を聞いて、謙太はそっと眉をひそめる。
「おい、葉月……」
「あら、いやだ。わかってるわよ」
物思いにふけるように宙を彷徨う葉月の視線は、夫の声で我に返ったようにくるりと動いた。
「過保護だって言いたいんでしょ? 確かに、自分で起きられるようにならなきゃいけないけど」
「いや……ならいいんだが」
謙太は曖昧に返し、そのまま黙って新聞を広げた。
──落ち着け。
そう、自分に言い聞かせるが、心の中に黒い影がもくもくと──今日の空には似つかわしくない、重たい雨雲のように──沸き上がって来ているのを自覚していた。
重たくなり掛けた空気を割るように、ふわふわさせた茶髪がダイニングキッチンに入って来た。
「おはよぉ……なんか今日暑そうじゃん?」
そののんびりとした声色にほんの少し安堵を感じながら、息子に、謙太は新聞から目線だけで挨拶を返す。
「もうそろそろ上着が邪魔なんだよなぁ……あ、俺今日部活だからさぁ、帰り遅くなる。あと、高体連の予定がさぁ」
そう言いながら天気予報を探してパチパチとチャンネルを変え、空いている手でソーセージをつまむ。
「最近の高校は、校則が随分緩いんだな。父さんが高校の頃には、運動部で茶髪なやつなんかいなかったんだが」
「んー……そうだね。時代の流れってやつ?」
「いやだ。ちゃんと席についてから食べてよ、ゆきちゃん。牛乳は? 飲むの?」
顔をしかめながらトーストの皿を並べる妻の様子をちらりと確認して、謙太は新聞をたたんでテーブルに着く。
「それ、女みたいって言われっからやめてくれって言ってっしょ。『ゆきちゃん』とかさぁ……せめて『ゆきとも』か、『とも』って呼んでよ」
「あら、そうだったわね。ごめんね、ともくん」
このやりとりを聞くたびに、謙太は居心地の悪さを感じる。
親からもらった名前に文句を言うとは、とまでは言わないが……いや、そもそも名付け親は謙太ではなく義父、つまり葉月の父親だったのでどうすることもできないのだが。
そんな彼の心中を気にするでもなく、二人はこのやりとりを時々繰り返す。確か、中学に上がった頃から始まったような覚えがあるが、やはり思春期というやつなのかと思えば、謙太にも覚えがなくはない。
「いただきまー」
言い終わると同時にトーストに齧りつく息子に、謙太は無言でジャムの瓶を渡す。
が、不満そうな視線がジャムの瓶と父親を交互に見た。
「俺、イチゴジャムじゃなくてママレードのが好きなんだけど。イチゴジャムは……」
そこまで言って言葉は途切れた。そして二人同時に、慌てたようにキッチンの方を振り返る。
「あらいやだ。ごめんねゆきちゃ――ともくん。お母さん最近忘れっぽくて……今出すわ」
夫のためのコーヒーを用意しながら謝る葉月。
その様子を見ながら、うっかりしていた、と自分の些細なミスを悔やむ。謙太の心はまた暗く沈んで行った。
しかし、まるで叱られたようにバツの悪い顔をして父親の様子を窺う息子に気付き、眉間に寄っていた皺を伸ばして無理に笑顔を作った。
「いや、すまん……お前は悪くない。父さんのせいだ」
謙太は息子に小声で謝ったが、その後の食卓は重苦しい空気のままだった。
──もう、三年になるというのに……