11 千智 ~ いつかの、いくつかの僕らのせかい
謙太が寝入ったのを確認して、零芝は喋るのをやめた。
ふぅ、と息を吐き、憮然とした口調で、青年零芝は玄関に向かって話し掛ける。
「――これで満足か? おい」
ついさっきまでの柔らかい営業スマイルもどこかへ消え去り、不機嫌を隠そうともしない。
そっとドアを開けて入って来たのは、謙太の息子、千智だった。手にはカバンと携帯を持っている。
「そんなに怒らないでよ……零さんの責任でもあるんだよ?」
自分の家だというのに、千智はおどおどと様子をうかがいながらリビングまで来る。父親が寝息を立てているのを見て、ようやくほっとした表情を見せた。だが、零芝にはぎこちない笑顔を向けた。
零芝はため息をつきながら首を振った。「そうじゃない」と、彼は言う。
「僕の責任の話はどうでもいい。お金を頂いている以上責任があるのは当然だ――そこじゃない。何故お前が学校をサボったのか、僕はそこを問題視しているんだ」
え、という声が千智の口から洩れた。
「えっとそれは……約束が違う、ってこと?」
「その通り。僕たちは契約時に二つ約束したはずだ」
言いながら、零芝は荷物から薬の瓶と何かの液体を取り出し、瓶の中の粉を慎重に量りだした。
「僕はお前の両親を『治療』する。だが二人分には費用が掛かるから、母親の分は父親に出させるようにしろ、と――」
「そうだね、そしてもう一つは、俺を弟子にしてくれる代わりに、俺も零さんの治療を受けること」
零芝は液体に粉を溶かしながらうなずいた。
「まぁ、お前の場合は治療というよりは、その暴走した力を抑えるための『修行』だけどな。だが、大体、学生の本分は勉強であって――」
千智は慌てて口を挟む。
「ねえ零さん、今日学校をサボったのはほんとごめん。だけど、ほんとに緊急事態だっただろ? ちゃんとあの後、学校にも連絡したんだよ。でも俺には依頼主として見届ける責任とか権利とかそーゆーアレがあると思うんだ」
零芝は千智の言い訳を聞きながら、むっとした表情を崩さない。千智は落ち着きなく小刻みに揺れながら立ち尽くしていた。
「――そんな言い分で僕が誤魔化されると思ってるわけじゃないよな?」
果たして、千智の『依頼主の弁』は効果がなかったようだ。
「大体、お前は――」と、まるで父親が息子を叱るような口調で、零芝は説教を再開したのだった。しかし傍から見れば二人の外見は友人同士のようにしか見えない。
そして説教が一区切りついたところで、深い息と共に零芝は言葉を吐き出す。
「――だがな、お前の父親はきっと、こんな姿を見せたくなかったと思うんだ……敏いお前には、そこだけは察してやって欲しかったんだけどな」
どうやら千智には、零芝のその指摘は思いもよらなかったことだったらしい。ぽかんと口を開けて、数瞬の後納得したようにうなずいた。
「ああ……そうだよね。だから零さんは『学校に行け』って言ったのか……ごめん。ありがとう」
零芝はちらりと千智に視線を向けるが、またふいとそっぽを向く。
「その言葉は僕に言っても意味がない」
「うん、そうだよね……でも、零さんもありがとう」
「……僕は依頼された仕事をしたまでだ」
あくまでもツンとしてはねのける態度を取る零芝に、千智は「ツンデレか……」と肩をすくめた。
「そうだ、そんなことよりゆき、お前、僕の事務所のコーヒーにまでアレ混ぜたんだろう? そのせいで危うく、僕はあの空間の美月を壊してしまうところだったぞ」
唐突に零芝は話題を変える。千智は悪戯が見つかってしまったというように、キョドキョドと視線を逸らして言い訳を始めた。
「あ……ごめん……父さんの薬を粉末にしてもらったけどさ、ほんとに無味無臭なのか確認したくて、袋に残ってたやつに一匙だけ、つい出来心で……」
はぁ――と、零芝は大きなため息をついた。
「いたずらで済まされないところだったんだぞ。僕の『処方』を信用していなかったということなら――」
「違う、違うよ、それは信用してる。だからほんの出来心だったんだってば――ごめんなさい……まさか零さんにも効果があるなんて考えてなくて」
へらへらと誤魔化すように愛想笑いをした千智に対して、零芝は心底呆れた、という様子を見せた。
「効果があって当たり前だ。僕を化け物か何かとでも思ってるのか?」
「……似たようなもんじゃん」
千智がぼそりとつぶやくと、零芝はじろり睨みつける。
「僕に言わせれば、ゆきの能力の方が化け物に近いと思うけどな。他人の――既にいない人間の精神世界にまで介入したり、そこで更に別の人間の『アバター』に影響を及ぼしたり――それを無意識にやってのける」
「――ごめんなさい、自覚なしで。っていうか、未だによくわかってないんだよね……」
「いや……だからこそ、暴走しないようにコントロールが必要なんだが。まぁ、この件については後ほどじっくり説教するとして――」
それを聞いて小さく「うえぇ……」と呻いている千智をちらりと確認してから、零芝は言葉を続ける。
「――準備はできたが、ほんとに、いいんだな? より強い薬を使って、両親に暗示を掛け、一連の騒動、ゆきと美月に関する記憶を書き換える――二人とも、事故で死んだことにして、それは遠い昔のことのように感じるくらい、彼らの中では納得していることにする……」
零芝の表情は厳しい。
「これは日常の細かい記憶まで書き換えるような最終手段だ。彼らの脳にも少なからず負担が掛かるし、この書き換えには二度目はないんだぞ」
「うん、いいよ……お願いします。ここには、俺がいない方がきっと前向きな未来が訪れる」
千智も真顔になり、真っ直ぐな瞳で零芝を見つめる。零芝はしばらくその視線を受け止めていたが、やがて根負けしたように視線を逸らした。
「――なあ、せめてお前は、遠くの学校に通っているということにしないか? それならご両親にも希望の糸を残しておけるし」
零芝の言葉に虚を衝かれたという顔で、千智はつぶやく。
「……そんなこと、俺全然考えていなかった……なんでいつも零さんはそんな、贅沢な。とんでもない……」
「莫迦かお前は。子供が二人ともいなくなってしまって、どうしてご両親に明るい未来が訪れると思えるんだ?」
零芝は空になったペットボトルで、弟子の頭をポコンと叩く。
「少なくとも僕の方が年長者であって、そういうことは年長者の方がわかっているもんだ。っていうか、そもそも師匠の言うことは絶対服従、まして師匠に一服盛るなんてもってのほかだと――」
遠慮したつもりがかえって藪蛇だったらしい。千智は慌てて同意する。
「ああそうだよね、ごめんなさい。零さんはプロなんだしそーゆーことはよくわかってるよね。大丈夫ですその通りにします。ありがとうございます」
「……あと、通信制でもなんでもいいから、高校は本当に卒業まで行くことだ」
「え、でも……」
戸惑う千智。零芝は苦笑して言葉を続けた。
「必要最低限の費用くらい、親に出してもらってもいい年齢だろう。経済的に困難なわけでもないし。あとは寮費とでもして、生活費を一緒に送ってもらえばいい……そしたら僕も困らない」
「あ……はい――って、じゃあ、俺、零さんとこにいていいの?」
「……しかたあるまい。ただし、自分のことは自分で――」
「ありがとうございます! じゃあ俺、零さんのごはんとか頑張って作りますね!」
「ちょ、いや、僕のことはほっといて――」
「いやいや、駄目ですよっ。零さんいつもロクなもん食べてないんだから。お世話になるし、ちゃんとそれなりの食事を――」
さっきまでの深刻さはどこへ行ったのか、今度は弟子である千智が満面の笑みで師匠に向かって滔々と説教を始める。
零芝はむきになって反論したり憮然と黙したりと大人げない態度で応戦する。
「だがしかし、家事のせいで勉学がおろそかになってしまっては、本末転倒だろう……」
なかば諦めたように零芝はため息をつく。だが同時に、いつになく千智が彼に対して饒舌なのも感じていた。
多分今日は、彼がここで過ごす最後の日となるのだ。
たった三年間といえども、悲哀の方が多かったとしても、ここには家族の喜怒哀楽の記憶が詰まっている。そういう場所に別れを告げる時のなんともいえない心情には、零芝にだって覚えがある。
* * *
「――零さん」
『治療』の準備を始めた零芝に、こちらも荷物をまとめ始めた千智はおずおずと声を掛ける。
「何だ?」
「あの、母さんの記憶は……その、美月に関する気持ちとかは――」
零芝はその言葉を聞いて、ふっと笑顔になる。
「大丈夫だ、みぃちゃんのところにも母親は『帰って』来るよ。残念ながら、父親と美月の間にはそこまでの親密度はなかったようだが……彼女たちがいつまであそこにいるかは僕にもわからないが、少なくとも、あそこにいる間はみぃちゃんと母親とで幸せな日々を送れるようになるはずだ」
千智はほっとした表情になった。
「そうか……よかった」
――お前は、その気になれば見に行けるんだろう?
喉元まで出掛かった言葉を、零芝は飲み込んだ。それはさすがに大人げない台詞だ。会いに行けるだろうが、行かないつもりなのだろう、ということも彼はわかっていたのだ。
千智が無意識のうちに、妹がいる空間に干渉してしまっていた時期にはしょうがなかったが、今は自分の特殊な能力を自覚している。
まず最初に零芝が教えたのは、他人の精神世界に干渉しないように能力をセーブさせることだった。その能力の危険性についても多少は理解できているだろう。
千智は、妹の死に対して非常に責任を感じているが、こればかりは、いつか彼が自分自身を赦せる時が来るのを待つしかないのだ。