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10 謙太 ~ 眠りにつく前

 謙太はソファに横たわっている妻の顔を、隣に座ってしばらく眺めていたが、はたと我に返って時刻を確認する。

 いつの間にか十時近くになっていた。彼の会社の始業時間はもう間もなくである。

「しまった。もうこんな時間か――この様子では、今日は出社を諦めなければならないな……」

 一度は慌てたように立ち上がったが、数歩進んでから思い直したように踵を返した。

 通勤には片道二時間弱必要だった。この時間から出勤するよりは、上司に事情を伝えて自宅勤務に切り替えた方が得策だろう。


 ――打ち合わせが数日先に延びたのは幸いだったな。だが紅林に例の資料をメールしてもらわないといけないな。あとは……


 そんなことを冷静に考えて、彼は自分が冷たい人間のように思う。

 仕事に必要なデータは会社でも自宅でもすぐ同期できるようにしてあるので、出社できないことは大きな問題ではない。だが、彼はやはり家庭より仕事を優先させる思考になってしまうのだった。

「俺はまだ逃げるつもりなのか……お前をこんな状態にして、自分だけ――」

 目を開けない妻に向かい、謙太は懺悔するようにつぶやく。


「いえ、あなたは冷たいわけでも逃げているわけでもないですよ。僕がそう処方したんです。あなたにまで倒れられては、本当にこの家族が立ち行かなくなってしまいますからね」


 他には誰もいないはずの室内で急に声が聞こえ、謙太は驚いて顔を上げる。

「七石さん……? なんでここに。いや、でも、よく似ているがあんたは随分ちいさ――お若い……」

 目の前の、青年というよりはまだ少年ともいえそうなその男性は、ふうっとため息をついて首を振った。

「ですよねえ……この姿でお会いしたくはなかったんですが、今はしょうがないなぁ、と。ご依頼主からの緊急のSOSだったのでね……」

 せいぜい高校生くらいにしか見えないその男性は肩をすくめる。

「僕は、あたなが会ったことがある(なな)(いし)(れい)()本人ですよ。一応」


「依頼主? しかし私はまだ何も……会社にすら連絡していないんだが」

「おや、それは大変。じゃあ僕が奥さんを見ていますから、早く電話した方がいいですよ――そうですね、三日。医者にそう言われたから、と伝えて下さい。必要でしたら一筆添えますから」

 人差し指を立て、空中にサインを書くような仕草をして、その少年七石は謙太に指示を出す。謙太は状況が飲み込めないながらも指示に従い、電話のために席を立つ。

 ちらりと七石を振り返ると、

「解せないって表情ですよね、無理もない……大丈夫です。後ほどきちんと説明しますよ」

 と言いながら、七石は苦笑した。


 * * *


 電話を終えて戻って来ると、数分のうちに七石が育っていた。ように謙太には見えた。

「あまりじろじろ見ないでもらえますか……なんていうか、着替えを覗かれているような気分になるんで」

 恥じらうように言う七石の声も、先ほどより幾分低く聞こえる。元々男声としては高めのトーンではあるが、例えるならさっきまでの声は声変わり前、今はそれが終った頃、という程度の違いがある。

「す、すまない……ええと、とりあえずそうだな、コーヒーでも――」

「あ、ごめんなさい。僕ここのコーヒーは飲めないんです」

 その場を取り繕おうとした謙太の言葉を、何故か七石は遮る。怪訝な表情で見つめられて、困ったように眉尻を下げた。


「えーとですね……旦那さんはコーヒーで構いませんが、僕にはお水をいただけますか?」

 解せないまま、謙太はその言葉に従う。ソファで横たわっている葉月にタオルケットを掛け、それぞれ一人掛けのソファに落ち着いたところで、改めて謙太は切り出した。

「まず最初に、あんたがここに来た理由を教えてもらおうか」

「それはさっきも言いましたが依頼主が――」

「俺は、頼んでいない」

 キッと睨みつけて謙太は言い切る。

 その視線を受けて、七石はため息をついた。

「やっぱりそうなるんですね……まぁ、ご本人から同意はいただいているので説明しますが、ここでいう依頼主はあなたの息子さんです」


「――(ゆき)(とも)が?」


「状況が飲み込めない、そんな感じですよね。あなたは口先だけじゃ信用しない、ということも聞いてますので……ほら、さっきの通話履歴」

 七石がぐいと謙太の目前に差し出した携帯には、千智の名前と電話番号が表示されていた。

「どういうことなんだ?」

 携帯を軽く押し退けて謙太は問う。七石はまたため息をついてから言葉を続けた。

「一応ね、こういう職業なんで守秘義務とかがアレするんですけどね……お伝えしてもいいと言われている範囲では、つまり、こういうことなんです。最初に僕の所に来たのは千智くんで、彼の依頼内容が、とても中学生のお小遣いじゃ賄えないような規模だったので、『保護者の方を連れて来るように』と追い返したんですよ。そしたら――」

「ゆきはあの時、ネットで評判がいいと、俺にそう説明して熱心に薦めていたが……」

「まぁそういうわけなんです。もう色んなクリニックなどを回ってらっしゃるということで、電話帳には出ていないような怪しいクリニックでも、自分が強く推せば動くはずだから、と」

 七石は肩をすくめてみせた。


「待て、話がおかしいんじゃないか? さっきは千智が依頼主だと言ったが、今は――」

「その辺はアレなんで詳しくは言えませんが、そうですねぇ……『お父さんを助けて欲しい』というのが彼の依頼だった、ということにでもしておきましょうか」

 くすくすと思い出し笑いをして、七石は言う。が、その表情の裏にはまだ何か隠していることがあるように謙太には見えた。

「――まあ、そういうことにしておいてもいいが……しかし、七石さん、あんたのその姿の説明は――」

 そう言いながら、謙太は改めて相手を観察してみたが、既に七石は見慣れているいつもの青年の姿に戻っていた。

「僕の姿が? ああ、僕、苗字で呼ばれるより名前で呼ばれる方が好きなんですよね。(れい)()でいいですよ」

 しれっと流す青年の顔を思いっきり睨みつけると、謙太は話題を変えた。


「葉月は、どうなるんだ? その……もう治せないとか」

「それはないですよ。厳密に言えば、治すっていうのは違いますけど」

「その説明はもう何度も聞いた」

「でしたね」


 治すのではなく、原因を忘れさせる――つまり『消して』しまうのだと。だが、すべて忘れてしまうのではなく、『遠い記憶』や『いい思い出』としてなら残すことならできる、と。

 去ってしまった子供をいつまでも想って留まるのではなく、前へ進むために。


 謙太は、はっとして顔を上げた。

「――ひょっとして、そう望んだのは」

「ええ、千智くんが治療方針を決めました」

「そうか――そうだったのか……」

 そう言われて思い返すと、彼には心当たりがいくつかあるのだった。

 もし本当に中学二年の息子がそこまで頼み込み、今までそんなそぶりをおくびにも出さずに毎日を過ごして来たのだとしたら――と彼は想像する。

 ――つい先日の、ジャムの違いを指摘してしまった時の、ゆきの表情。あれは自分の失敗を悔やんだのではなく、父親を心配してのものだったというのか。


「俺は……父親失格だな……」

 がっくりと肩を落とした謙太に、七石零芝は優しく語り掛ける。

「いえ、千智くんは、あなたが誰よりも家族を思い、頑張っていることを知っていました。そして、あなたに限界が来て壊れてしまうことを一番恐れたのです。」

「ゆきが……」

「そして――」

 零芝は小さな黒いクラッチバッグから袋を取り出した。

「今日はさすがに、あなたの心身にも大きな負担が掛かっているはずなので、これを飲ませて欲しい、と」

 手のひらに収まるような小さな袋の中には、カプセル錠が二つ入っていた。カプセルの中には薄紫の粒と白い粒が入り混じっている。

「その色は……」

 謙太は警戒する。


「でも、同じことを何度も繰り返すのはつらいでしょう? 今日のことは特に。明日からもしばらく奥さんの投薬を見守っていただかなくてはならないのに、そのたびに今日のことを思い出すと疲れてしまうと思うんですよね。僕も」

 これは専門家としての見解です、と零芝は続ける。

「……千智が、それを望んだんだな? あんた……いや、零芝さんじゃなくて」

「そうですよ。あ、大丈夫です。お仕事の予定などの、必要なことは忘れませんから」

「これを飲んだら、俺も眠ってしまうのか?」

「そうですね……少しの間、眠るかも知れませんが、その間に脳が情報を整理して取捨選択するんです。夢を見る仕組みって、聞いたことありませんか?」

「まぁ、そういう話は聞いたことがあるが……」

 正直なところ、ここまで来てもまだ零芝を信用しきっていなかった謙太だが、息子の千智のことを思えば、と、意を決してカプセルを手に取る。


「旦那さんが眠りについたのを見届けましたら、僕はおいとましますよ。あ、奥様には水薬を少し飲ませておきますね。これで目覚めの時も落ち着いて目覚められると思います。息子さんから、玄関近くのキーボックスに鍵があると伺いました。それで施錠して、鍵はポストに――」

 零芝がいつものように長々と説明しているのを聞きながら、謙太はカプセルをまとめてコーヒーで流し込んだ。

 やがて、高ぶっていた神経が急激に凪いでいく感覚と、アルコールの酔いに似た心地よさが彼を包み込む。

「眠い……」

 そうつぶやくと、謙太はそのままテーブルにうつ伏せて目をゆっくりと閉じた。

 零芝の説明はまだ続いていたが、もう何を言っているのか理解できないくらい、彼はとにかく眠かったのだ。

 そしてその眠りに落ちる瞬間は、例えようもなく心地よかった。


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