1 美月 ~ 僕と美月と公園で
「危ないよ?」
ふいに声を掛けられて、美月ははっと立ち止まった。
「ほら、信号」
声に促されて美月が見上げると、歩行者用の信号は赤だった。
「え? あれ?」
通学路の途中には公園があり、そこを突っ切って行くと美月が住んでいる団地までの近道になる。
公園の周囲にはぐるりと芝が張ってあり、信号まではゆるい上り坂になっている。美月はそのいつものコースを駈け上がりながら信号が青だと確認していた、はずだった。
「上って来る間に変わっちゃったみたいだね?」
声の主は美月の疑問に答えるように、腰を屈めて彼女と同じ目線まで下がって来た。中腰で笑顔を向けるのは、女性的な顔立ちの、まだ線の細い少年だった。
二人のすぐ脇を、ダンプカーがごうと音を立てて走り抜ける。
「おにいちゃん、みづきのこと、しってるの?」
薄く土埃が立つ中で、まだ新しい黄色い通学帽の頭が揺れる。ゆるく編まれたおさげが一歩遅れて頭の動きについて来る。身体に対してまだ大き過ぎるピンク色のランドセルには黄色いカバーが掛かっていた。
「みづきちゃんっていうんだ。ううん、みづきちゃんのことは知らないよ。でも、危なかったら注意してあげないといけないでしょ?」
声変わりが済んだのか、それともまだなのか──アルトの、少しだけハスキー掛かった声も、聞きようによっては女性のものにも思える。
美月も『おにいちゃん』と呼び掛けたものの、どちらなのか少し迷っているようだった。丸い目を更に大きく見開いて、その少年に話し掛ける。
「でもきょう、がっこうで、『しらないひとにはなしかけちゃいけません』っておはなし、きいたんだ。あ、でも、『しらないおとなのひと』だったかな……おにいちゃんは、おとなじゃないから……」
少年は一瞬、ぽかんと口を開けた。だがすぐくすくすと笑って頷いた。
「そっか、僕は大人じゃないのか……そうだね、先生の言うことは聞かなきゃね」
美月は得意げに頷いた。
「でも──ねえ、こういうことも言ってたんじゃない? 『道路を渡る時は、左右をよく見てから渡りましょう』って」
「そう、そうだ! そのおはなしもしてた。すごい……どうしてしってるの?」
少年の言葉を聞いて、美月の表情がまたぱあっと変わった。
この辺りはいわゆる新興住宅街だ。既に何年も前から団地やマンションが何棟も建っているが、地域一帯の土地計画的にはまだまだ進行形で、今も山側では土地の整備などの工事が盛んに行われている。さっきすぐそばを通り過ぎて行ったダンプカーも、土砂の運搬作業で往復している中の一台だろう。
引っ越し直後で不慣れな通勤路を走る車と、すっかりこの辺りの道に慣れきってしまっている工事車両との、小競り合いのような接触事故もたびたび目撃されている。
つい先日も歩行者とダンプカーとの事故があり、ニュースにもなった。数日間マスコミがうろうろし廻り、それに便乗した野次馬まで周辺地域から押しかけ、各学校の教師や保護者たちは神経を尖らせているところだった。
美月が聞いて来たという話も、その件に関係あったのだった。しかし、小さな美月にはそこまでの連想をするような知恵はまだなかった。
どうして、と問われて説明をしても、彼女の年齢では半分ほどしか理解できないだろう。だがもう少し大きくなればきっと、彼女自身にも多少の予想がついたかも知れない。
少年はくるくる変わる美月の表情を楽しんでいるように眺める。そんな二人のすぐ脇をダンプカーがまた轟音を立てて通り過ぎて行った。
「どうしてだと思う? ──実はねぇ、おにいちゃん、魔法使いなんだ」
きょとんとした美月に対して、少年はまた楽しそうに微笑んでみせた。
* * *
美月はランドセルを鳴らしながら全力でドアを開ける。
「ただいまぁぁっっ」
まだ小さい美月には少し重たい鉄製のドアが、バタンと音を立てて閉まる。
靴を脱ぐのももどかしく、ランドセルに手を掛けながら、部屋に向かって呼び掛ける。
「ただいまおかあさん。あのねぇ、きょうねぇ……」
レースののれんをくぐりながら話すその声は、しかし段々と尻すぼみになった。
薄暗いダイニングキッチンのテーブルに肘をつき、テレビの方を見つめたまま動かない母親。
「……ただいま、おかあさん」
美月が帽子を脱いでもう一度言うと、母親はようやく少しだけ頭を動かした。
「おかえり。手を洗って来たらおやつあるから」
びかびかと眩しいだけのテレビから視線を外さずにそれだけ言い、また石像のように固まる。
母親にまた話し掛けようと口を開きかけたが思い直し、帽子とランドセルを手に部屋に向かった。
帽子はフックに掛けて、ランドセルは棚の上──入学前に何度も母親から言われて練習した。入学して最初の数週間は言われた通りに置いていたが、そのうちリビングに放り出してそのまま遊び始めたりしては叱られていた。
だから、今は。
母親の『怒り』を解くために、美月はいい子にならなければいけない。
――みぃがいいこになったら、おかあさんはみぃのことをみててくれるようになるはず。
彼女はそう考えていた。
──だから、いまは。
深呼吸してドアを開ける。
おやつのクッキーは、いつものところに置いてあった。手を洗い、アルミの袋をがさがさ言わせながら、ボウルを食器棚から出しテーブルに乗せる。
麦茶と牛乳のどちらがいいか少し迷い、結局冷蔵庫から牛乳を取り出す。
「一度に全部食べたら、多過ぎて駄目だから」
やはりテレビに向かったまま、母親が言う。感情の籠らない、棒読みの台詞のような声で。
美月は無言でうなずき、袋の中身を慎重にボウルに入れた。花型、丸型、星型。ウサギや猫の形も混ざっている、大好きなクッキーだった。
美月はこれを小さい頃から食べているのに、何故かいつまでも飽きないのだ。暑い日などは時々、ゼリーやアイスなども食べたりするが、やはり今でも一番好きなのはこのクッキーなので、美月の家では切らしたことがないのだった。
「あのねぇ、きょうねぇ、がっこうでね……」
食べながら母親に話し掛ける美月。母親は聞いているのかいないのか、ちらりともこっちを見ない。
それでも、娘は母親に向かって嬉しそうに話し続ける。
薄暗い部屋の中には、子どものおもちゃや本や服が、足の踏み場もないほど散乱している。カーテンはきっちりと閉められ、一筋の光さえも入って来ない。
ただ、テレビだけがいつも眩しい。
美月は母親の横顔を見つめ、部屋の中を見回して話を終える。
そして最後にとっておいたウサギ型のクッキーを食べ切ってしまうと、牛乳を飲み干して席を立つ。
──おもちゃも、ほんも、みぃがかたづけたらきっと、おかあさんよろこぶよね。すこしずつ、がんばろう。
「……それで?」
美月の心に呼応するようなタイミングで、まったく期待していなかった返事が突然返って来た。美月は驚いて母親の方へ振り向いた。母親の視線はテレビに釘付けのままだったが、美月の胸はどきん、と大きく脈打った。
「そんな程度で? いやだ。ありえないでしょ」
同時にテレビから笑い声が聞こえて来る。
ふぅ……と、力なく息を吐き出すと、美月は黙ったままボウルとコップをシンクに置いた。
「しゅくだい、してくるね」
動かない母親に向かって言い残す。今度は、ため息をそっと押し殺して。
「ご飯ができたら呼ぶから」
母親は口だけ動かしてそう言った。
* * *
翌日の帰り道にも、その少年はいた。
「――それでね、おかあさん、きゅうにへんになっちゃったの」
いつもならまっすぐ自宅へ走って行く美月だったが、今日は坂を上らず、横断歩道の手前にある公園のベンチに腰掛けていた。公園を通り抜ける途中で、昨日の少年の姿を見つけたのだ。
昨日までは『しらないひと』だったが、もう今日は違う。
何よりも、自分の言葉に返事が来るし、自分を見つめてくれるし、その表情も変わる。
「どうしたんだろうね? 病気かなぁ?」
美月の隣に座った少年は思案顔で応える。
「きっとね、みぃのこときらいになっちゃったんだ……いうこと、きかなかったから」
寂しそうに口を尖らせて、美月はうつむいた。
公園に降り注ぐ梅雨入り前の元気な陽射しと、時おり吹く清々しい風には生命力が溢れている。もうこのまま夏になってしまいそうな熱すら感じさせる。
なのに小さな少女の周囲には、既に梅雨の雨雲が取り巻いているような重たい空気が離れない。
「みづきちゃんって、普段は自分のことみぃちゃんって言うんだね」
のんびりとつぶやいた少年の顔を、美月はゆっくりと見上げた。
「うん。あれ? おにいちゃんのおなまえは?」
「僕? 僕はねぇ……名前、ないんだ」
美月の反応を窺うように、少年は微笑む。
美月は困ったような戸惑ったような微妙な表情のまま首を傾げた。
「おにいちゃん、おなまえ、ないの? わすれちゃったの?」
「そうだねぇ……忘れちゃったのかもねぇ」
少年はそのまま静かに微笑んだ。美月は幼い思考の中で言うべき言葉を探してみたが、結局何も言えず足元を行列で過行く蟻に視線を移した。
風がまた、公園の木立をざわざわと揺らして通り過ぎる。新緑も徐々にその色に深みを増して行く。
二人はしばらくそのまま、風の音を聴いていた。