〒003-0002
自転車のタイヤが地面を滑る。
朝の町は心地いい活気に包まれていて、歌いだしたくなるくらい気分がいい。
町の人たちと挨拶をしながら、木音の商店街を走り抜ける。
一瞬、果物屋さんの前で見慣れた長身の背中が見えた気がして自転車を止めると、向こうも僕に気がついたらしい。
「やあ。おはよう、夕詩くん」
後ろから、落ち着いた、声だけで好青年だとわかりそうな声で名前を呼ばれた。
ああ、やっぱり彼だったか。
声の主なんて、顔を見なくてもわかる。
「おはよう、朝樹くん。珍しいね、こんな時間に会うのって」
僕は振り返りながら軽く帽子を持ち上げ、笑う。
普段なら彼はこの時間、昼の開店に向けて仕込みをしている筈なんだけど……。
そう思いながら首を捻ると、当たり前、というような表情で朝樹くんは微笑んだ。
「今日、店休みだからね」
「え」
失念していた。
今日は木曜日。カフェ『柘榴』は定休日。
朝樹くんの答えを聞いて、がっくりと膝から崩れ落ちそうになった。朝の僕の試食会は一体……。
そんな心の内が顔に出ていたのか、朝樹くんはプッと吹き出した。
「随分残念そうだね」
小さく肩を震わせながら、目を細める。
「そりゃあもうね。盛大に期待を裏切られた気分だから」
勝手に期待していたのは僕の方だから、彼に愚痴を言うのは筋違いだとわかっている。
でも朝樹くんは優しいから。
三日月みたいに弧を描いた口が開かれる。
「今日も試食に付き合ってくれるかい?」
「うん!」
その素敵すぎる提案に、首がちぎれそうになるくらい強く、縦に振った。
だが、彼はふと思いついたように顎に手をやった。……ああ、僕もそれくらい綺麗な手が欲しかったよ。
「あ、でもお昼だけじゃ時間が足りないかもしれないな……。なんせ色々考えてるから」
片目を閉じてちらりとこちらを伺ってくる朝樹くんは、ずるい。とてもずるい。色々なんて伏せておいて、僕を釣るつもりなんだ。
さっきの優しいっての、訂正。彼は優しいだけじゃなく、ちょっとだけ意地が悪い。
悔しい。でも食い気には勝てない。だって朝樹くんの料理はすごくおいしいから。
「仕事が終わったら行くよ。それでもいい?」
ほら、負けちゃった。
心のどこかでがっかりしながらも、勤務後の甘いひとときに想いを馳せる。
色々というのは、どういうことなんだろう。僕の好きなスイーツとかもあったりするんだろうか。果物屋にいるということは、季節のフルーツを使った何かか?
「わかった。待ってるよ」
朝樹くんは爽やかに笑うと、背中に垂らした長い髪を揺らして僕と反対方向を向いた。
僕はその背中に呼びかける。
「きっと夕方の五時くらいだと思うな」
「了解」
彼は、振向いてぐっと親指を立て、そのままその手を開いてひらひら振った。
「じゃ、仕事頑張ってね」
「ありがとう。朝樹くんも!」
僕も手を振って、彼と別れた。
さあ、夕方を楽しみに仕事を頑張ろう!
○●
今日の仕事は、木音、風伝、川澄、赤火、緑山、水井、虹端という町一周コースだ。郵便局からスタートして、左から円を描く感じで回る。
中でも、虹端は郵便局から直線距離で行っても結構遠い。しかも、帰りは上り坂なのだ。
半年間、自転車を漕ぎ続けて来た自分の足に自信がない訳ではないが、明日はきっと筋肉痛だ。
水井まで配達を終え、さあ、いざ虹端へ。と思ったけれど、腹が減っては戦はできぬ。
ちょっと早いけれど、と、手近にあったパン屋さんでいくつかパンを買った。
滅多に行かないところなので、飲食店があったかどうか記憶があやふやなのだ。だったら、ここで食べておいた方がいい。
僕は近くにあった公園に入った。
公園というよりも、小さな丘と言った方が良さそうな何もない公園だ。
それでもおじいさんやおばあさんが仲良さそうに散歩をし、小さい子供達がじゃれ合って駆けているから、やっぱり公園なんだろう。
自転車置き場に自転車を止めた。
こうして別の自転車と並べて置いてみると、やっぱり郵便局の自転車は古い。一つ時代を間違えたような、そんな具合だ。
本当に、いつもよく働いてくれている。
自転車の鍵を抜き、そして丘に向かって歩き出す。
なんせこの格好は目立つ。しかも僕の職業はみんなにとって、とても大事なことなのだ。
だからか、丘の天辺によいしょと腰を落ち着けたとき、女の子が僕の元に寄って来た。
「こんにちは、お兄さん!」
「こんにちは」
年齢ゆえの好奇心で一杯の瞳が、僕が手に持っている紙袋を見た。
「お昼ごはん?」
「そうだよ。自転車で回ってるから、体力使うんだよね」
女の子は、ふーん、とおさげを揺らしながら、ちらちらとこちらを伺う。その視線の先は、どうやら紙袋の中身にあるようだ。
何度か彼女と紙袋を交互に見て、ようやく気が付いた。思わず苦笑して、自分の隣を小さく叩く。
「一緒に食べる?」
すると彼女の顔がパッと輝き、元気よく返事をして僕の隣に座る。ふわりと、彼女の服から花の匂いがした。
僕は、袋から取り出したフランスパンを半分に千切って。
……うん、知ってたさ。僕あんまり器用じゃないんだった。半分に千切ろうとしたが、うまくできなかった。
女の子にどっちがいい? と訊くと、小さい方を指差したのでそっちをあげる。
嬉しそうにそれにかぶりつく彼女は、なかなか謙虚な子なのか、それとも単純に大きい方は食べきれないからと判断したのか。
まあどっちでもいいかと、自分もパンを口に含んだ。
「……お兄さん、お手紙配ってるんだよね」
「そうだよ」
飲み物も一緒に買ってくればよかったと少し後悔し始めたとき、女の子が口を開いた。手元のパンは、もう三分の一ほどになっている。
「あのね、あたしのお友達、みんなお手紙をもらってどこかに行っちゃうの。どうして?」
つい、手を止めた。
「また明日ねって言って別れても、次の日には来ないの。朝から夕方までずっと待ってても来ないの。お家に行ってみても、だあれもいないし……。寂しいと思うはずなのに、それよりも羨ましいって思っちゃうの」
この町の人は、どうやら手紙を受け取れば成仏できるという仕組みを、漠然としか認識していないらしいのだ。
来藤さんがそうだったように、手紙を受け取って初めて、自分はこれを待っていたんだと悟っている人がほとんどだ。
この子も例外ではないのだろう。
女の子の視線は手元に注がれているのに、何故だか遠いところを見つめているようにも見えて……。
そうなんだ。日常だから、なんて思っていても、改めて見るとこの状況は結構きつい。
だって、この子はもう生きていないんだ。
ここにいて、僕と会話をしていても。
ちょっとした事情があってここに残っているだけで、本当はもう、
「お兄さん?」
不思議そうにこちらを見上げてくるあどけない顔に、とてつもなく胸が締め付けられる。
「ごめんね」
僕がこう言ったところで何も変わらないけれど。彼女に手紙が来ないと、その辛さからは解放されないのだけれど。
せめても、と思って頭を撫でた。彼女の背負っている物が、少しでも軽くなればいい。
ふわふわとした髪の感触が心地よかった。
「きっとね、お友達は引っ越したんだよ。この町よりもいい場所を見つけたんじゃないかな?」
「そう、かな」
女の子はパンの最後の欠片を咀嚼し、真っ直ぐ僕を見つめた。
「あたしも、見つけられると思う?」
僕はその問いに、笑顔で答えた。
「勿論」
そのとき、不意に思い出した。母の言葉だ。
僕が様々なことが一度に重なって、潰れそうになっていた時期に言ってくれた言葉。
「人を羨まないと、自分も成長できない」
それを呟くと、女の子が不思議そうな顔で僕を見上げてきた。
「母さんが言ってたんだ。そうなりたいって思って努力すれば、たとえなりたかったものとは違う結果になったとしても、経験は何よりも強い味方になるんだよ」
そこまで言って、彼女に向き直る。
「だから、君が今もうちょっと頑張って待っていたら、君はもっと素敵な人になれるってこと」
……難しかったかな?
でも、女の子の表情が最初の時よりも、幾分か楽になっているように見えたので良しとする。
「……お兄さん」
「なあに?」
「ありがとう」
女の子は今までで一番の笑顔でそう言って、駆けて行った。
残ったのは僕と、花の香りだけ。
でも花の香りも、すぐに風によって消されてしまった。
○●
あの子宛の手紙も、いつか配達する日が来るのだろう。
自転車を走らせながら考える。
渡してあげた方がいいのはわかっている。
でも、僕と話したことのある人……実際に関わっていた人が消えてしまうのは、辛い。
僕は空を見上げた。
空はどこへでも続いているというが、それは本当らしい。だってこの世界でも、向こうの世界のようにこんなにも青いのだから。
きっと天国でも同じ青に違いない。
……存在しない筈の人が、ここにはいるんだ。
それを本来あるべき姿に、つまり成仏させてあげるのが僕の仕事だ。わかってる。
わかってるんだけど、
「たまに泣きたくなる」
「それは大変ね」
独り言のつもりだったのに、返事が帰ってきてすごく驚いた。
視線を空から前へ移すと、ニッコリとした笑顔にぶつかった。
「泣きたいときは泣けばいいのよ。あとでちゃんと立ち直ることができるならね」
おばあちゃん、と言った方がいいだろうか。全体的に丸っこい老人だ。
でも声は若々しく、ハリがある。
ただ老いを感じるとしたら、手に持っている杖だろうか。持っていることは持っているのだが、足が悪いと言う訳でもなさそうだった。
「い、いえ、大丈夫です。泣きません」
「そうかい。まあ、男の子だからね」
そう言っておばあちゃんは丸い体を震わせて笑う。ふるふるとした動きがなくなったと思ったら、今度は真面目な顔で僕を見つめてきた。
「ところで、少し訊きたいんだけれど」
「はい?」
なんだろう。
首を傾げた僕に投げかけられた質問は、案外あっさりとしたものだった。
「ここはどこだか、わかるかい?」
「……水井と虹端の間ってとこですかね。水井に行くなら十五分くらい歩きますよ」
すると、おばあちゃんはやってしまった、というように顔をしかめた。
「あらら、来すぎちゃったね」
「あの、どこまで行かれるんですか?」
「どこって、自分の家さ。久しぶりに出かけたら迷っちゃってね」
「はぁ」
方向音痴? いや、でも久しぶりだからといって、自分の家もわからなくなるような人がいるものなのか。
「家はどこなんですか?」
「虹端だよ」
ああ、なんだ。それなら送っていける。
「僕、これから虹端まで行くんですけど、よければお送りしましょうか」
すると、おばあちゃんは驚いたような顔をして、すぐに笑顔に戻った。
「それはうれしいね。お願いしてもいいかい?」
「はい」
僕は自転車から降り、おばあちゃんと並んで歩き始めた。




