〒002-0005
トントン、と遠慮がちに肩を叩かれて目を醒した。
薄らと開けた寝起きの目には、日差しが眩しく映る。思わず手で目元に日よけをつくった。
うーん……なんで僕こんなところにいるんだっけ……?
一人寝ぼけ眼でぼんやりとそう思っていると、
「どうしたんだい、こんなところで」
柔らかく、品の良さそうなおばあさんの声が聞こえた。
僕は肩に置かれた骨張った手から顔をたどるように視線を移す。そこには栗色のロングスカートにカーディガン姿の優しそうなおばあさんが立っていた。
その顔の目尻の皺や頬の皺から、よく笑っていた人なんだなと読み取った。これはきっと笑い皺だ。
「もしもし?」
おばあさんがもう一度不思議そうに声をかけてきてくれた時、ようやく待ちぼうけて眠っていたことを思い出した。
大慌てで口元を拭い、目を擦る。落ちかけていた帽子を頭に乗せ直す。
そして背筋を伸ばし、おばあさんを正面から見た。
「あ、あの、ここの家の方でしょうか。僕、白紀沢夕詩と言います!」
あれ、これ名乗る必要はなかったのでは。
そう思ったが、言ってしまったものは仕方がない。
「ええ、そうです。わたしね、今日ここに来たばかりなのよ」
コロコロと笑うその笑顔を、どこかで見たことがある気がした。
どこで見たんだろう。……とても最近、どこか、どこかで……必ず……。
その時、おばあさんの後ろをエンジンの音を響かせて、軽自動車が走っていった。
……軽自動車!
ザッと、今朝のことが思い出される。朝起きて、支度を整えて、テレビを見ていたんだ。そうだテレビだ。僕はこの人をテレビで見た。
印象に残っているのは、あのニュースだけ。その話題は……交通事故!
「もしかして来藤さん……?」
恐る恐るそう聞いてみる。
すると、おばあさんはますます不思議そうな表情になった。
「ええ。わたし、来籐 智代子といいます」
血の気が引いていくのがわかった。
僕は今朝、来藤さんが交通事故で亡くなったと、そうニュースで聞いてきたのだ。
「え」
我ながら間抜けな空気の抜けたような声が出てしまう。
「あなた、わたしのこと知っているの? ……失礼だけれど、どこかであったことあったかしら」
頬に手を当てて首を捻る彼女は、確かに生きているように見える。
小さい頃に読んだ怪談の本とはまるっきり正反対だ。足はあるし、血色もいいし、身だしなみだって綺麗なのに。
いや……そう断言はできないのか。だって前島さんもそうだったし。
考え込んでしまった僕を気遣うように、来藤さんが顔を覗き込んできた。
「大丈夫? 日に当たりすぎて熱中症にでもなってしまったかしら?」
「いっ、いえ、大丈夫です」
後ずさるようにして少し後ろに下がると、ボスンと鞄が壁に当たった。
あ、そうだ手紙!
来藤さんに驚きすぎてすっかり忘れてしまっていた。
僕は鞄に手を突っ込み、手紙を引き出す。
今まで見ていなかったのだが、成る程、宛先の名前にはしっかりと『来藤智代子様』と書かれていた。
「どうぞ、お手紙です」
来藤さんに両手でそれを差し出すと、彼女はそれをとても神聖なもののように受け取る。
どうしてか、受け取った格好のまま固まってしまったので、今度は僕が彼女を気遣う番だった。
「あの……どなたからか、お心当たりは?」
そう聞いてみても、来藤さんの目は手紙に向けられたまま動かない。その手紙の裏に、差出人が書いてある筈なのに。
来藤さんが聞き取れないくらいの小さい声で何かを呟いた。
「え?」
「見なくても、わかるの」
夫からだわ、と息がそう言った。
「旦那さん、ですか」
「ええ。……ごめんなさい、ちょっと……」
そこまで言って、いきなり来藤さんは胸を押さえて倒れこみそうになった。僕は慌ててそれを受け止め、体勢を立て直す。
何故だか呼吸が浅い。額には汗が浮かんでいて、それでも触れている手は恐ろしい程冷たい。表情は苦しそうに歪められていた。
何が起きているのかわからない。
「どうしました!?」
「う……思い出そうとしたら、急に……」
軽く呻きながらそう答える来藤さんは、本当に具合が悪そうだ。
とにかくどこかに移動した方がいい。ここは日の光も暑いくらいだし、何よりも寝転んだ方がずっと楽になるだろうから。
「来藤さん、家の鍵は?」
弱々しく彼女は自分の持っていた鞄を指差した。この中?
開いてみて見ると、小さな銀色の鍵を見つけた。それを使って家へ入る。
家の中は意外と広かった。来藤さんに寝室まで案内してもらって、彼女を寝かせた。
洗面所で自分のハンカチを水で濡らす。台所にあったコップに水を注ぎ、寝室まで戻る。
そしてハンカチを来藤さんの額に乗せ、呼吸を確かめた。
……うん、正常だ。よかった。
しばらくそのまま寝かせ、後から水を一口飲ませると、来藤さんは幾分か楽になったようだった。さっきよりも顔色がぐんとよくなている。
外はいつの間に曇ってしまったのか、明るかった筈の部屋は妙に薄暗かった。
「ありがとう、……えっと、夕詩くんっていったかしら?」
「はい、そうです。平気ですよ。これくらい、気になさらずに」
笑顔でそう言うと、つられたのか来藤さんも笑顔になる。
乾いた唇を湿らすように、もう一度水を飲んだ。
そしてさっきまでとは一変して寂しげな表情を浮かべた。ここではない、とても遠くを見るような目をしている。
「変ねぇ、思い出そうとすればするほど見えなくなっていくみたいだわ」
唇の隙間から、長く息が漏れた。伏せられた目が苦しそうに歪む。見ているこっちが辛くなってくるような表情だ。
「たくさんの時間を一緒に過ごしていた筈なのに、どうしてかしらね」
その言葉の最後は、ほとんど独り言に近いようで、聞こえなかった。
ベッドの隣の小さなテーブルに置かれた手紙を、悔しそうに見つめる。
僕はそんな来藤さんを見守っているように見せかけ、心ではすごく焦っていた。
どうしよう。どうすればいい。
手紙は届けた。ちゃんと直接、手渡しで。これで一応試験はこなした筈だ。
すぐに帰るべきなのだろうか。
でも、こんな状態の来藤さんを放っておけない。
お節介だと思うけど、このままにしていたら、きっと後悔させてしまう。なぜかそう思い、側を離れることが出来ないのだ。
僕はそっと来藤さんの手に自分の手を重ねた。
さっきの冷たさはやはり体調不良によるものだったらしい。もしかしたら貧血だったのかもしれない。
今はもう温かい。……こんなに優しい温度を持った人が、幽霊だなんて思えない。
「わからないなら、手紙を開けてみたらどうですか? きっと、何かを思い出すきっかけになりますよ」
僕の手の下で、ギュッと拳が握られる。小さく震えているような気もする。
「ええ、そうね。そうすればいいのよね。でも本当にどうしてかしら」
怖いのよ。
蚊の鳴くような小さい声で聞き取りづらかったが、唇の形でそう読み取った。
「旦那さんからなんですよね、それ。読みたいんでしょう?」
僕は不思議でたまらない。大切な人からの大切な手紙なら、読みたいだろうに。
どうして怖いなんて。
急に来藤さんは俯いていた顔を上げ、声を絞り出した。
「ええ、読みたいわよ!」
その剣幕に吃驚してしまって、呆然と彼女の顔を見つめる。
「あ、ご、ごめんなさい……」
しょんぼりして謝ってくるから、慌てて手を振って大丈夫だと主張した。
また俯いてしまった来藤さんが言う。
「読みたいのよ、それでも怖いの。
だってあの人……結婚する前もした後も、私に一度も好きだって言ってくれなかったの。もしかしたら嫌われていたのかもしれない。結婚だって……あの人が言い出したけれど、もし親に強制されてのことだったら? 今までの恨み言が書いてあったらどうすればいいの?
いいことだと思って私がやっていたことが、全部あの人の迷惑になっていたら……」
両手で顔を覆って絞り出すようにそう言う。言葉の語尾が揺れていて、泣いているのではないかと思えてくる。
……そういうことだったのか。
僕は来藤さんの拳に添えている手に少しだけ力を込めた。
来藤さんは旦那さんがすごく大切だったんだ。
純粋に人を想うあまり、傷つけることや傷つくことが極端に嫌いで耐えられないんだろう。
「そんな人が、嫌われるわけない」
独り言のつもりで言ったその言葉は、思いのほか大きな声だったようだ。来藤さんがハッとしたように僕を見た。
安心させるつもりで一度微笑む。そして息を吸い込んだ。
「手紙を開けましょう、来藤さん。
あなたは人から嫌われるようなことは何もしていないと思いますよ。何も知らない僕でも、あなたはいい人だとわかります。どれだけ大切に旦那さんとの時間を過ごしていたのかも。もっと自分に自信を持って下さい。
あなたは素敵な人ですよ」
脇のテーブルに置いてあった白い封筒を手に取り、彼女に向かって差し出す。
ね、読みましょうと言いながら押し付けるように手に乗せる。
……ちょっと無理矢理すぎたかな。
来藤さんが全く動かないので心配になってきた。
言われてみれば、当たり前のことだろう。初対面の若者が手紙を読むのを強制してくるなんて。
不快に思われても仕方が無い。
「いきなりこんなこと言ってごめんなさい。
失礼なのはわかっているつもりなんです。それでも、あなたにはこの手紙を読んで欲しい。なぜだかわからないけれど、わかるんです。きっとあなたにとって嬉しいことが書いてあるはずだからっ……!」
来藤さんは、悪い人じゃないと伝えたい。旦那さんはあなたの事をきっと大切に思っている。
僕がこんなこと知ったように言っていいのかな。不安だけれど……それでも手紙を読んで欲しい。
だってそれは、旦那さんが来藤さんのために時間を作って書いた、想いの結晶なんだから。
色々な思いが自分の中で渦巻いて、それがそのまま口に出た。
情けないことにじんわりと涙が滲んできた。
……人に自分の思っていることを伝えることって、こんなにも難しいことだったっけ。
心に染み入るようにそう思っていたら、来藤さんがついに動いた。
ゆっくりと手紙を持ち上げる。そして指先で愛おしそうにそれを撫でた。
お年寄りらしい、骨の浮き出た指が封を破っていく。中から三枚ほど、便箋が滑り落ちてきた。
流れるように書かれた字を、来藤さんの目が追っていった。
読んでいくうちに、その瞳が懐かしそうに細められていった……。
○●
『拝啓、来藤智代子様。
雪も溶け始め、太陽の日差しも柔らかくなり始めましたが、いかがお過ごしでしょうか。
……なんて、かしこまって書いてみようと思ったのだが、そういえばお前は昨日の晩私と過ごしたばかりなのだったな。それなのに、いかがお過ごしでしょうかなんて聞いたら馬鹿みたいだ。
前々からあったあの噂、信じてみることにしたんだ。ほら、小さい頃友達とよく見に行ったって言ってただろう、あの空き地のポストの噂だ。
こんな七十を過ぎた爺さんが噂話を信じるなんて、お前は笑うだろうか。
それでも、どうしても伝えておきたいことがあるんだ。何年も言おうと思って言えなかったことを。
噂話だろう? わかっているんだ、届かないって。
少し昔話をしようか。
お前と初めて会ったのは見合いのときだったな。
緊張して何も話せなかったのを覚えてるよ。こんなに可愛らしい人が私の妻になるかもしれないと思うと、下手なことを言えなくてね。
お前には始終不貞腐れているように見えたかもしれないな。
しょうがないだろう、緊張するとああいう顔になるんだ。それは今までの長い生活で察してもらっていると信じている。
結婚が決まった時、本当に嬉しく思った。
これから二人で幸せになっていこうと、密かに心の中で誓ったんだ。
実際、これだけ長く一緒にいられたんだから嬉しい限りだよ。別れがなんとも苦しい結末になってしまったけれどね。
ここからは、今の私のこと。
お前が事故に遭ったと聞いた時、立ち上がることが出来なかったよ。足に力が入らないんだ。
スーパーに買い物に行ってくると言って家を出て、まさかあんな近くで事故に遭ってしまうなんて。
どうして止めなかったのか。私が茶を一杯淹れてくれと言っていれば、事故には遭わなかった筈だ。
気が付いたら泣いていた。
大切な人が死んでしまったんだ、それも突然に。泣いたっていいだろう。
ああでも、声を上げて泣いたのは久しぶりだったな。
しかし、ここでも年寄りだった。元々身体にある水分が少ないからか、すぐに涙が止まってしまったんだ。
泣きたいのに泣けないんだ。
……いや、なんでもかんでも歳のせいにするのはやめよう。素直に言うことにしよう。
泣けないくらいに悲しかったんだ。
運転手の若い子と会ったよ。
随分疲れていたみたいだ。
目がギラギラしていたように見えたが、あれはきっと性格が凶暴だからだとか、そんなことはない。大方寝不足なんだろう。
ちゃんと奥底では取り返しのつかないことをしてしまったと思っている顔だった。
真っ直ぐに頭を下げてくれた。すみませんと、本当に苦しそうに言ってくれた。
あの子はこれからすごく苦労をするだろうね、陰で人殺しだと言われるかもしれない。今の世の中は残念なことにそういう風になってしまっているからね。
今回の事故はまあ、あの子が原因なんだろうけど……その前に、あの子があの時間帯、トラックであの道を通るようになっていたことが問題なんだ。
それと同様にお前にあの時間、あの道を通らせてしまった私にも、あの子と同じくらいの罪があると思う。
許してほしい。
最後に、一番言いたかったことを書いておく。
愛してるよ。
何度も言おうと思っていたのだが、なかなか勇気が出なくてね。
こんなことになってしまうなら、きちんと言っておけばよかった。後悔あとに立たず、だ。
プロポーズしたときも、愛してるなんて言った記憶がないんだから、私は一体どんな求婚の仕方をしたのかな。
もう覚えていない。
でも、お前が泣きながら頷いてくれたのを抱きしめた記憶はあるんだ。その時に私も少しだけ涙ぐんだことも。
こんなことも手紙でしか言えないなんて、私は本当に愚かだ。間抜けだ。愚図だ。
それでも、こんな私に長年連れ添ってくれたこと、本当に感謝している。
こんな陳腐な言葉じゃ足りないくらいなんだ。でも、他に伝える術を知らない。
愛してる。
これからも、ずっと。私が死んでも、お前のことを思い続けるという確証があるよ。
そちらの世界には遅かれ早かれ行くことになるだろう。
だから、それまで首を長くして待っていて下さい。
きっと、探し出して迎えに行くから。そしたらまた、ゆっくり茶でも飲んで、なんでもないような話をしよう。
来藤 銀治朗』
○●
さっきとはうって変わって、気持ちが悪くなるくらいの静寂に、僕は体を震わせていた。
来藤さんが横になっていたベッドには、もう何もない。
手紙を読み終えたと思ったら、彼女は光の粒になって消えてしまった。
光り輝きながら、音もなく逝ってしまった。
最期に見たのは、来藤さんの泣き笑いの顔。何度も繰り返して「ありがとう」と言っていたあの表情が、頭に焼き付いて離れない。
詳しいことはわからない。
でも、彼女が……救われたのだと思ってもいいのだろうか。
現世に残していた未練が解き放たれて、あるべきところへ帰ることができたのだと、思ってもいいのだろうか。
ここに来る途中ですれ違ったおばあさんの言葉を思い出す。
『未練に取り込まれないようにね』
あの意味がわかった。
だって僕の胸は今、こんなにも苦しくて、切ない。
このまま何処かに消えてしまいたいとさえ思う。……さっきの来藤さんみたいに。
理由もなく泣きたくなって、叫びたくなる。
足から力が抜けて立っていられなくなり、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
「……成る程、これはやめたくなる理由もわかります、前島さん」
小さくそう呟いたけど、答えてくれる人はいない。
僕はしばらくそこから動くことが出来なかった。
閉められたカーテンの向こうで、曇っていた空がだんだん明るくなっていった。
○●
帰り道、自転車で来た道を戻りながら思う。
僕は、なにか人の役に立つことがしたい。それはつまり、ありがとうと言われるようなこと、笑顔になってもらえるようなことをしたいということだ。
さっきの来藤さんの泣き笑いの顔を思い出す。
逝ってしまうことに悲しさももちろんあった。でも、とても嬉しかった。
だって、僕が手紙を届けたことでお礼を言ってくれた。あんなに幸せそうに笑ってくれた。それだけで、十分じゃないか。
あんな場面をこれから何度も見ることになるのだろうな、と不思議なことに自分の中で確信した。
僕は、この仕事をやりたい。
試験の結果がどうなっているかは分からない。でも、前島さんに言うだけ言ってみよう。
誰かの役に立ちたいんですって。笑顔が見たいんですって。
人が人のために動くのには、そんな単純な理由でいい筈だから。