〒002-0003
「おはようございます」
空き地にはやはりというか、もうすでに舞原さんが来ていた。
赤いコートの首元をきっちりと絞め、その中に口もとまで顔を沈めて立っている。白い息が、隙間から浮かび上がってくる。
さほど待っていた訳ではないようだが、女の子を待たせるということは男としてはいけないことだ。
「おはよう。待たせてごめん」
僕は彼女に駆け寄って、罪滅ぼしにポケットに入れていたカイロを差し出した。役に立ってよかった。
舞原さんは手のひらにそれを包み、ありがとうと呟いた。
「こっち。ポストの横に立っていて」
「うん」
舞原さんにコートの裾を引っ張られて、ポストの真横に立った。
まだ薄らと雪が積もっている草の上は、じっとりと濡れている。滑りそうになって焦った。
舞原さんの顔を盗み見た。僕とは正反対に、なんでもない顔をして遠くを見ている。
これからのことを聞いても「すぐにわかることよ」とか言って、きっと何も教えてくれないだろう。
そのまま二人、しばらく無言でそこに立つ。
ふぅと大きく息を吐いてみれば、それは白く姿を変えて空に上っていく。
今まで彼女もいたことのない僕が、こんな朝早くに女の子と一緒にいるなんて……昨日までの僕では、絶対に想像がつかないだろう。
黙っているのがなんだか居心地が悪くて、そういえば、と少々わざとらしく僕の方から切り出した。
「昨日の夜、事故があったみたいだね。この近くで。酷い事故だったらしくて、おばあさんが一人亡くなったそうだよ」
言ってから、もっと明るい話題はなかったのかと自分を責めた。朝からするようなものじゃないだろう、交通事故の話なんて!
でも彼女は腑に落ちたような表情で頷いた。
「あら、そうだったの。だからさっき……」
そこで言葉を切って黙ってしまう。
……あのー、だからさっきなんだったの? この話題はもうこれで終わりなの? 僕の努力ってなんだったの?
どれだけ待っても彼女は口を開かない。
どうやら僕と違って、黙っていても平気なようだ。無口なのとは違う。無音の世界でも気にしていないような。そんな感じ。
それならならそれで、まあいいか。
左手につけた腕時計を見ると、日が昇るまであと少しだった。
正面に見える山の後ろが、少しずつ明るくなってくる。
少し感動してしまった。
おお、これか。ようよう白くなりゆく山際。雲が紫だっていないし、細くたなびいていないのが残念だ。
清少納言の気持ちが少しわかる気がする。だって、一つだけでもこんなに綺麗なんだから。三つ全て見ることができたら、語り継ぎたくもなるね。
「ちょっと、何やってるのよ!」
ほわほわと考えていた頭の中を、凛とした声が貫いた。
何やってるって、何が?
見ると舞原さんはぴったりと、レトロな丸ポストに手をつけている。その反対の手をブンブンと振って、僕に抗議する。目が怖い。
僕なんかマズいことした?
「あなたも早くポストに触れて! 向こうに行けなくなっちちゃうわ!」
う、うん? 向こう?
よくわからないけど、彼女の様子からして相当やばいらしい。
僕は慌ててポストに触った。
ひんやりとした感覚が指先から伝わり、背筋が震える。
その途端。
「うわあああ……!」
僕たちの後ろの方でざっぱんという音が響いた。刹那、色の波が押し寄せてくる。
上下左右と色々な方向へ身体が引っ張られ、波に流されそうになるが、ポストに触れている手は強力な磁石のように離れない。
波のぶつかる感覚はまるで水のようなのに、息ができるし服は濡れない。
「綺麗でしょう」
舞原さんがポスト越しにそう言う。黒髪が波にゆられて広がっている。
「そうだね、夢の中にいるみたいだ」
「こんなんで夢なんて言ってたら、働けないわよ」
不敵な笑みとともに彼女が発した働けない、というワードにびくんと飛び上がる。それは困る。
でも、この景色は本当に夢みたいだ。
次第に波が落ち着いてくる。色の比率としては緑が多い。
そのうち霧のような青が、頭上でもやもやと広がってきた。ところどころ白い部分が残っているのは、雲だろうか。
遠くには赤茶色っぽい四角いものが現れる。……あれは煉瓦? 家のようだ。
景色がしっかりと定まったのは、それからさらに時間が経った時だった。
ここはどうやら丘の上のようだった。下にある建物がミニチュアのおもちゃみたいに見える。少し冷たい風が頬を撫でた。
あれ、と思った。あれだけ強力に手に張り付いていたポストが、どこにもない。辺りを見渡してみても、ポストなんてどこにもない。緑色の綺麗な草の絨毯が広がっているだけだ。
いつからなかったんだろう。全然気付かなかった。
「行くわよ」
「行く?」
さっさと歩いていってしまう彼女を追いかけて振り返ると、大きな赤い郵便印が目に入った。
大きな印に反して少し小さい建物が、そこにはあった。僕たちの住んでいる町の郵便局と同じくらいかな。
都会にはビルが丸ごと郵便局になっていたりするけど、これはそんなんじゃない。
もっとこう……そう、素朴な感じ。
「何してるのー?」
舞原さんの声が入口の辺りから聞こえる。うわ、いつの間にあんな所まで。
「ちょっと驚いただけだよ」
そう言いながら彼女のもとまで駆け足で向かうと、また? と首を傾げられた。
そりゃあ、君は随分ここに来たことあるみたいだから、慣れてるだろうけどさ。僕は初回なの。
いきなりこんなことになったら、みんな吃驚するに決まっているだろう。
「まだまだ序の口よ。今から更にすごいことになるわよ」
笑いながらそう言う舞原さんに、得体の知れない恐怖を覚える。
一体どんなことになるんだろうか、僕は。
○●
なぜか爽やかなハーブの香りが漂っている郵便局内。僕は受付カウンターの更に奥にある、落ち着いた緑色のソファに座っていた。着ていたコートは畳んで横に置いてある。
「待ってて。今おじいちゃん呼んでくるから」
おじいちゃん?
昨日の舞原さんを思い出す。……そういえば、ポストに向かって『おじいちゃん』って言っていたような……。
僕の前にコトリと小さい音を立てて、ティーカップが置かれる。綺麗な花の絵が描かれていて、ああきっとこれは舞原さんの趣味なんだろうなと思った。
それから立ち上る湯気をぼんやりと見ていたら、なんでもないような彼女の声が聞こえた。
「この郵便局で一番偉い人よ」
へー、一番偉い人。
…………え、一番偉い人!?
一人ガタガタと慌てだす僕を置いて、「すぐ来るからお茶飲んでて」と言い残し、舞原さんは奥の部屋に言ってしまう。
お茶なんて飲めるか。飲んでいられるか。
僕これで失敗したら仕事ないんだよ!? そういうことはもっと先に言ってほしい!
大慌てで、まだ少し残っている寝癖を引っ張ってみたり、服の皺を伸ばしたりだとかしてみる。心拍数がみるみるうちに上がっていく。ばくん、ばくんと音が聞こえてきそうなくらい。
ええと、落ち着け落ち着け。緊張したときは『人』の字を手のひらに三回書いて飲み込んで……。でも指が震えてうまく字が書けない。
母さんがいつだったか『胸を張っていれば、それなりに堂々として見える』って言ってたっけ。『聞かれたことに、しっかりと自分の意見を混ぜることも大事』とも。
胸を張って、自分の気持ちをしっかり言うこと。僕はそれを頭なのかで何回も呟く。刻み込む。
そうこうしている間に後ろから綺麗な声が呼びかけてきた。
「お待たせ」
ロボットのような、ギリギリと音がなりそうな動きで首を回す。
あ、待って、その前に立った方がいいんじゃないか!?
そう思い直して首を変な方向に向けながら、わたわた立ち上がった。
そして正面を見て……
「初めまして、白紀沢夕詩ですっ!」
深く、腰から身体を折ってお辞儀をした。
見えるのは、舞原さんの綺麗に磨かれた靴の先だけ。
誰も何も言わないので、僕は頭を上げるに上げられず、変な汗をかいていく。
僕が頭下げた相手って、もしかして舞原さんなのかな。だって、『一番偉い人』がどこにいるかわかんないし。焦って、相手をよく見ていなかった。
うわああ、やっちゃったかも!?
ど、どうすればいいんだろう。
何か言った方がいいのかと思って口を開きかけた時、嗄れた声が聞こえた。
「いいよ、顔上げて」
「は、はいっ!」
勢いよく顔を上げると、まず舞原さんが目に入った。その長い黒髪に隠れるように、ピンと背筋を伸ばした、姿勢のいい老人が立っていた。落ち着いた色合いの袴姿が、厳めしい顔つきによく似合っている。
舞原さん越しにだけれど、鋭い視線が僕を射抜く。目を離すこともできずに見つめ返す。
うわああああ緊張するぅぅうううう…………。
「紹介するわね、おじいちゃん。こちら、私と同学年だった白紀沢夕詩くん。今仕事を探しているって言うから、連れてきてみたの」
舞原さんは少しよけて僕を丁寧に示しながら、そう言った。何となくもう一度頭を下げておく。
続いて彼女は老人を示しながら、
「白紀沢くん、こちら私の先祖の前島密。この郵便局の局長よ」
その言葉を聞きながら、老人……前島さんは、うんと軽く頷いた。
僕は舞原さんの言葉が理解できなかった。
「せ、んぞ……?」
「そう、先祖。幽霊よ」
呆然と口を半開きにした僕に彼女はしれっと言い放つ。
そう言われて見れば、重そうな口とか、綺麗な目元とかが、どことなく似ているような気がしてくる。
というか、それよりも。
……幽霊だって!?
「羽月。いきなり言ってもわからないでしょう。こういうのは、ちゃんと段階を踏んで知らせるべきだよ」
前島さんは無表情にそう言ってソファを指差した。
「座りなさい、説明をするから」
○●
前島さんは、無口そうに見えて意外と喋る所も、舞原さんに似ていた。
「夕詩クンといったね。君は、僕のことを知っているかい? ……やっぱり咄嗟には出てこないか。
ああいいんだ、気にしてないから。無理もないよ。教科書の隅っこに、小さく写真が載ってるくらいだからね。僕だったらそんな奴、とっとと記憶から追っ払う。
僕はね、一言でいえば郵便制度をつくった男なんだ。おや、思い出してくれたかな? そうそう、切手とか葉書とか、命名したのは僕だよ。
……そんなにかしこまらなくても。もっとリラックスしていいよ、ほら肩の力を抜いて」
ポンと肩を叩かれる。手は大きくて温かくて、とても死んだ人のようには思えない。
折角そう言ってもらえたのはありがたいが、僕は色々な感情が複雑に絡み合って、どうしても力を抜けずにいた。
「あの……本当に幽霊、なんですか」
これは失礼に当たるだろうか。こわごわ聞いてみる。
すると前島さんは、無表情のまま「そうだね」と呟いた。そして一瞬、横に立っていた舞原さんを見た。目配せするみたいに。
「白紀沢くん」
急に呼ぶからなんだろうと思って、舞原さんに目を向ける。
じっと彼女の顔を見つめてみるけど、涼しい顔をしているだけで何も言ってこない。どういうことなんだ。
不思議に思いながら、前島さんが座っていた向かいのソファに目を戻す。
え、と目を見開いた。
さっきまでいたはずの前島さんがいなくなっていたのだ。
なぜ? 人が立った気配も、移動した気配もなかった。もちろん、衣擦れの音だって聞こえなかった。
何よりも目の前にいたのだ。僕に気付かれずに立ち去るなんて、不可能なことなのに。
立ち上がってバッと後ろを振り返る。前島さんはいない。
「どこ見てるのさ」
クスクスという笑い声のせいで余計に嗄れた声が聞こえてきて、僕はまた目を剥いた。
さっきまで空席だったソファには、また元通り前島さんが座っていた。
「信じてくれたかい」
唇の端だけをつり上げてそう笑われては、返す言葉がない。
力無く僕は腰を落とした。
「……はい」
確証した。
ここは普通の郵便局じゃない。
「それでは、僕のことを知ってもらった所で」
前島さんはよっこらしょ、と言いながら立ち上がった。紺色の羽織の袖が音を立てて翻る。
彼の目に狼が獲物を狙うような鋭い煌めきが、映ったような気がした。
ぞくりと緊張が再び体中を駆け巡る。
「入社試験といきますか」
2014.02.21 加筆、修正
2016.08.18 加筆、修正