〒002-0002
家に帰って昼御飯を食べ、取り敢えず落ち着く。
ご飯は、不器用な母が一生懸命作ったのであろう手巻き寿司だった。少し歪な形をしていたり、ご飯がはみ出していたりするが、それもご愛嬌。
食後に淹れた緑茶を啜りながら、僕はぼんやりとしたまま居間のソファに座っていた。
少しずつ気温も下がり始めた午後三時。
気がつけば急須の中身は空になっている。
お茶を淹れ直してお饅頭でも食べるか、と思ったけれどやめた。
三月後半といっても、この辺ではまだまだ冬のままでいる気分だ。雪も満足に溶けていない。
ひんやりとしてきた足を温めようと寝転び、足首の先からをクッションの山に突っ込む。
頭の中ではさっきから舞原さんの言葉が巡っている。
『日が昇る前にここに来て』。
行くのはいいが、何があるのだろうか。あそこはただの空き地だろう。……見た限りでは。
あ、もしかして、小説みたいに別世界に連れて行かれたりするのかな? もしそうなら、ちゃんと帰って来られるのだろうか。
なんて、真剣に考えている自分が馬鹿らしく思えてくるくらい、現実味がない。噂話の中の郵便局での仕事なんて、想像もつかない。
そんなの、五、六歳の子が考えた作り話みたいじゃないか。
でも、これを断ったらもう仕事は見つからない……気がする。第六感はなめてかかると痛い目を見ると、小さい頃から母に教えられてきた。
舞原さん、確か配達員だって言ってたっけ。
身近にいるがよくわからないその職業に、少し興味が湧く。
僕は立ち上がってPCの電源をつけ、インターネットを開く。検索のキーワードを『郵便配達員』として、エンターキーを叩いた。
ああきっと、こうやってすぐネットに頼るところとかが、最近の若者は、と言われる原因の一つなんだろうなぁ。でも便利だからとやっぱり使ってしまう。
一人苦笑いをしながら、表示された検索結果をスクロールしていく。意外に沢山出てきたその情報量に吃驚した。
えーと……どれどれ……。
・郵政民営化後、厳しい状態にある
・給与が安い
・その日の分の配達ノルマが終わらなかったら残業
出てきたものは、どれも厳しい意見ばかり。
思わず腕を組んで考えてしまった。
そんなにきつい仕事なの……?
少し興味があっただけに、がっかり度合いも違う。
知らず知らずに眉間にシワがよっていく。
なんというか、こう、モチベーションを上げられるような情報はないのかな?
パラパラとページを移動させていた時、一つの文が目に飛び込んできた。
『郵便配達員をしていて、やっていてよかったと思う時はいつですか?』
どうやらそれは、某有名質問サイトで質問されたものらしい。
『就職する前に聞いておきたいのですが』と言う書き出しで始まったその質問の回答に、目が引き寄せられる。
……どんなときなんだろう。こういうことを知っていたらちょっとは希望が持てるのかも……。
僕は期待を指に乗せてカチリ、とそれをクリックした。
出てきた答えは、
・やはり、『ありがとう』や『ご苦労様です』などと声をかけていただいた時でしょうか。
急に目の前が明るくなった気がした。
でもそれは本当に気がしただけで、実際は僕の心の何かが晴れたんだろう。周りは明るくなるどころか、日が落ちて暗くなっているのだから。
今までの意見が辛辣なものばかりだったから、その文が光って見える。何か特別なもののように思えてきた。
不意に小さい頃を思い出す。
毎年、誕生日になると出て行ってしまった父親から絵はがきが一通来ていた。
父から僕への連絡は、一年に一度のその葉書だけ。
どれだけ会いたいとねだっても、電話までよと母に言われていただけに、父を思い出す角張った癖字が愛おしかった。
時期だから仕方がないのか、葉書はいつもクリスマスカードだった。それに小さく添えられたその字が見たいがために、小さい僕はポストの前でじっと待っていたのだった。
雪がしんしんと降る中、手袋をしていても冷えてくる手を擦り合わせ、何度もポストを覗いた。
母が何度か『もう中へ入りなさい』と呼びに来たけれど、僕は頑にそこを離れなかった。
音が全て雪に吸い込まれていく、冬の夕暮れ。それはいつも、今年はもう来ないのかもしれない、と思い始めた頃にやって来た。
耳に響いた配達バイクの音は、サンタさんのそりを引くトナカイの鈴の音みたいだった。バッと顔を上げると、ブルルルと音を立てて僕の家の前でバイクが止まったところだった。
鼻を真っ赤にした僕に、同じように鼻を赤くした配達員さんが寄ってくる。そして、待ち望んでいた葉書を僕に差し出した。
『お待たせ、メリークリスマス。お誕生日おめでとう』
葉書の文面が少し見えたのか、おじさんは僕にそう言った。
僕は嬉しくてたまらなくて、飛びつくように手紙を受け取る。
おじさんは、僕の頭に積もった雪をほろってくれ、一度ゆっくりと撫でた。
それがくすぐったくて、思わず笑ったんだ。
『おじさん、ありがとう。寒いけど、まだお仕事あるの?』
『そうだよ、君みたいに手紙を待ってる人がいっぱいいるからね』
おじさんが指差した赤いバイク。
きっと僕には信じられないくらいの量の手紙が、バイクに積まれているんだろうな。
『おじさん、お仕事頑張ってすごいね。おじさんのところにはサンタさん来ないの? きっといっぱいプレゼントもらえるよ!お母さんが言ってたんだ、いい子にはサンタさんがプレゼントをくれるんだよ!』
その時の僕は、きっと羨ましそうな顔をしていたんだろう。
おじさんは豪快に笑って、僕のほっぺを掴んだ。冷えていたほっぺは、おじさんが触った所から溶けていくみたいだ。そのくらい、温かくて大きい手だった。
『いひゃい』
『はは、ごめんごめん。君だって偉いだろう。こんなに寒い中、ずっとめげずに手紙を待っていたんだから』
そうかなぁ、とぼやく僕に大きくそうだ、と頷くおじさん。
小さい子にとっての大人の言葉は魔法のようだ。本当にその通りな気がしてくる。
僕は、偉いと言われたことに少々の誇りを持って笑った。
『それじゃあね、早くお家に入るんだよ』
『ありがとう! メリークリスマス!』
僕がそう言った時には、おじさんはもうバイクにまたがっていた。
そして僕は発車したバイクが見えなくなるまで手を降り続けていた。
おじさんはそんな僕に、一度だけ振向き、僕に向かって手を振ってくれた。
……いい仕事なのかもしれない。そう思った。
淡く、花が綻ぶみたいに気持ちが解けていく。胸の中に何かほっこりとしたものが宿った感覚。
しばらくああでもない、こうでもないと昔の思い出に浸っていたら、
「ただいまー」
家のドアが開く音、続いて母の声が聞こえる。
その方向に向かって僕は声を張り上げた。
「おかえり。早いね」
「今日はめでたい日だものね、無理言って帰ってきちゃったわ」
あら、随分暗いじゃない、そう言いながら母は居間に入ってきて、手に下げていた買い物袋を置いた。中身から想像するに、今日の晩御飯はカレーだろう。
母はパチンと電気をつける。いきなり明るくなって目が眩む。
「母さん」
僕はPCの電源を落とした。そして母に向き直る。
「どうしたの?」
優しく微笑む母は、焦らずにそっと先を促してきた。
「明日、仕事の面接に行ってくるよ」
できるだけなんでもないことのように僕がそう言うと、母は袋から出しかけていたジャガイモをごとりと床に落とした。
そして、
「まあまあ、よかったじゃない! どうしましょう、晩御飯がカレーなんて安っぽすぎちゃったわね!」
あ、やっぱりカレーなんだ。
母の頬に赤みがさしている。よほど嬉しかったらしい。
予想よりも喜んでくれたことが嬉しくて、ようやく僕も笑った。
「そんなことないよ、僕、母さんのカレー大好きなんだ」
すると母は、なんと涙ぐんだ。
え、何で泣くの、そこ泣くポイントなの。
でも涙は一瞬のものだったようだ。すぐにもとの母に戻る。
僕は行く場もなく持ち上げていた両腕をそっと降ろした。
微笑みを浮かべて母は言った。
「お前は本当にいい息子だよ」
こんなに苦労をかけても?
いいのよ、子供が苦労をかければかけるほど、成長した時の姿を見た親の気持ちは大きいものなんだから。
そういうもの?
そういうもの。
そんな会話をしながら、何年かぶりに一緒に台所に立った。
小さい頃は二人でよく晩ご飯を作ったものだけれど、最近はそういうことは全くなかった。
あんなに広くて、高くて、踏み台を使わないとシンクも見えなかったのに。今では低すぎるくらいだ。
久しぶりに食べたカレーは、記憶のものよりも甘かった。
○●
明日が早いんだったら早く寝たほうがいいんじゃない、という母の提案で、二十時には寝ることにした。
昔から睡眠はしっかり取らないと頭が働かない。御飯はどれだけ抜こうが一向にかまわないのだが、これだけはどうしても駄目だった。
一度だけ課題に追われて徹夜をしたことがあるがその後丸二日眠ってしまい、生活サイクルが大変なことになった。もうしないと心に決めている。
そのため、修学旅行などでは定番の『夜更かし』を随分楽しめなかったものだ。どうして皆はあんなに起きていられるんだろう。
寝る前、舞原さんに言われた通り鞄にノートと筆記用具を入れておく。何も言っていなかったけれど、一応履歴書も入れておいた。
目覚ましは三時にセット。これで日の出前には確実に間に合うだろう。
ぼすんとベッドに倒れ込んだ。布団は柔らかく僕を包んで沈み込む。
……今日は色々なことがあったな。目を閉じて考える。
卒業式の後に、初めて話すような女の子に連れられて、噂話の舞台である空き地まで行って、そこで喉から手が出るくらい欲しかった仕事の話を貰って……。こんなにうまい話があるかと心の中で考えたりして。
まぶたに映る今日の出来事は、映画の中のことみたいに未だに信じられないようなことばかり。
どうなっちゃうんだろう、という漠然とした不安にどこかわくわくしている自分がいる。知らない土地を自分一人で探検しにいくようなそんな気分。
まあ、実際一人ではないし(舞原さんがいる)探検しにいく訳でもないんだけれど。
だんだん波のように睡魔がやってきた。
たゆたうような心地よい感覚の中、最後に思ったことはやっぱり能天気なことだった。
……なるようになるさ。
○●
無機質な電子音が耳に障る。
薄らと目を開けると、辺りはまだ暗かった。
ぐっと手を伸ばして目覚ましを止めようとするが、頭の上においてある筈のそれがない。
普段そこにあるものがないというのは、なかなか不快なものだ。どうしてないのか、と考えている間にも電子音は鳴り止まない。
ああもう、うるさいなぁ。
嫌々起き上がっていつもの場所に目をやるが、やっぱりない。
どこに置いたっけ。
よく聞くと、音は机の方から聞こえてくる。でもいつもはそんなところに目覚まし時計なんて置かない。
……ああ、そうだった。
昨日の自分の行動を思い出して立ち上がり、机の上を見る。あった。
時計の頭をポンと軽く叩いた。音が止む。
そいえば、絶対起きられるようにって、遠いところに置いたんだった。頭の上だったら止めてまた寝てしまうかもしれないから。
そうして正解だったかもしれない。僕、絶対寝てた。
まだぼんやりしている身体を引きずって洗面所に向かう。
いつもはこんな早い時間になんて起きないから、日が出る前の暗い家の中は新鮮だ。
洗面所は、母の寝室と近い。起こさないように抜き足差し足忍び足だ。
鏡に映された自分はいつもと変わりない。ただ唯一、違うところは盛大に撥ねた髪の毛が存在を主張しているだけだ。
それらを手でどうにか撫でつけ、顔を洗ったら少し目が覚めた気がした。
おはよう、白紀沢夕詩。今日はどんな一日になるのだろうね。
朝ご飯は、母があらかじめ作っておいてくれていた。
ラップがかかったままテーブルに置かれていたおにぎりを、一人、黙々と食べる。
うん、ちょっと塩がキツい。しょっぱいよ、母さん。
でもこの味が、母のおにぎりって感じがする。昔からこうなんだ、うちのおにぎりって。
それにしても、一人というのはどうも寂しい。
うちには御飯を一緒に食べなくてはならない、という暗黙の了解がある。なので、母の帰りが遅くても、待って二人で晩御飯を食べている。
普段しないことはするもんじゃないな。
朝から何度そう思ったかわからない。
寂しさを紛らわせるためにテレビをつけた。勿論、母の睡眠の邪魔にならないようにボリュームは大分落として。
見事にどこのチャンネルもニュースばかりだ。まあ、変なバラエティ番組よりは全然いいんだけど。
適当に聞き流していると、少し吃驚するようなことが耳に入ってきた。
『昨晩、交通事故が発生しました。
大型トラックが反対車線を走っていた小型乗用車に追突しました。
飲酒をしていたとして、警察はトラックの運転手である佐伯容疑者を逮捕しました。
この事故で小型乗用車に乗っていた来藤さんが死亡、佐伯容疑者は軽傷です………………』
ニュースを呼んでいたアナウンサーと切り替わって、容疑者と被害者の顔写真がうつる。
被害者の来藤さんは、優しそうな顔をしたおばあさんだ。それに比べて、佐伯さんは少しギラギラとした印象を受ける。
また画面が切り替わって、今度は事故現場が映された。トラックが軽自動車に追突していて、さらにその軽自動車が電柱に激突している。
ぺちゃんこ、という表現を具現化したのかと思うくらい、ぺちゃんこだった。
何に驚いたって、その事故がこの町で起こっていたからだ。しかも、ここからそう遠くない。
あの後ろに見えているコンビニは、たまに使っている。それくらい、身近な場所。
自分の知っている場所で死人が出る事故なんて、あまりいいことだとは思えない。
気をつけよう、と事故のことを心に刻みつけた。
時計をみると、日の出まであと三十分ほど。
舞原さんはもう来ているだろうか。もし待たせているなら申し訳ない。
僕はコート片手に立ち上がった。ポケットにはカイロをいれてある。これで少しは暖かいだろう。
最後に玄関で鞄の中身をもう一度確認しておく。……うん、忘れ物はない、筈。
靴ひもを結ぶ指が、少し震えている気がする。
緊張してきた。
ぐっと反対の手で自分の手を握る。大丈夫、大丈夫。
昨日の舞原さんの様子は、好感触だったと思う。……きっと、これで職に就ける。そうだ、そう思わないと。
前向きにとって悪いことは何もない、と昔母も言っていた。
腹を決めて真っ直ぐ前を向いて立った。
どんなことでもやってやるさ! さあ来い、仕事!!
膨らんでいく気持ちとは対照的に小さな声でいってきます、と呟いて、僕は家を出た。
2014.02.21. 加筆、修正
2016.08.15. 加筆、修正