〒002-0001
この郵便局は変わっている。
人が届けたいという想いは、必ずしも行き先があるわけじゃない。
届かないものも、届けられないものもある。
でもそれを叶えられるのが、このマエジマ郵便局なのだ。
○●
小さい頃から『マエジマ郵便局』という名前は知っていた。
僕の住んでいる町には、ずっと前からこんな噂があったのだ。
『空き地のポストに死人宛の手紙を投函すると、マエジマ郵便局がその手紙を届けてくれる』。
周りには面白がってイタズラする人もいたけど、特に何も起こらなかったので、てっきり嘘だと思ってた。
その認識が間違っていると知ったのは、高校卒業の次の日だった。
それまでは、信じていなかったんだ。
ただの、噂だと思ってた。
○●
「夕詩!」
後ろからかけられた声に振り向いた。
声の主はクラスメイト”だった”人のもの。さっき卒業式を終えたので、もうクラスメイトではない。
……なんて言ったら、薄情なやつだと言われてしまうだろうか。
彼は不満そうな顔を隠さず、僕に向けてきた。そういう素直なところが、付き合いやすい奴だ。
「お前、最後まで進路先言わないなんて酷いじゃないか」
「携帯番号、知ってるんだからいいでしょ」
無愛想に言ってしまってから、失敗したと気付いた。
彼とはそれなりに、いいや、この高校生活で一番仲がよく、学校でもよくつるみ、夜にメールや電話をするような間柄ではあった。
それでも、いや、だからこそかな。どうしても言いたくなかったんだ。
受かったと思っていた大学に落っこちた。滑り止めも何もない、見事に全部落っこちたんだ。
進路が、真っ暗になってしまった。
あーあ、浪人かぁ。おかしいなぁ、先生と進路相談した時は必ず受かるって言われてたんだけど……。
ヘコんだといえばヘコんだが、元々の能天気な性格が影響し、妙な自信を持って「どうにかなるだろう」と思っていた。
晩御飯の時間、母親に向かって黙って大学からの封筒を差し出すと、意味を察知した彼女はいいのよ、と笑った。
『大事な息子のために働かない親が、いると思う? 安心して勉強しなさい、なんとかするから』
優しい言葉だったと思う。
優しくても、その言葉は僕の目を少し覚まさせてくれた。頭から冷たい水をバケツ一杯分被ったような寒さが全身を駆け巡った。
ああ、どうしようもないことになってしまった。
やっとそう自覚し、学校が卒業式モードになり始めてきた三月のはじめのこと。
ある日突然、母親が倒れた。
父が家を出て行ってから、女手一つで僕を育ててきてくれた母が、病気になったのだ。
原因は過労だということで命に別状はなかったが、これ以上母に負担はかけられない。
僕はいよいよ気を引き締めた。
浪人なんて、まっぴらだ。
まる二日、病院で死んだように眠っていた母の目覚めた時の第一声も僕に突き刺さった。
『ダメだね、こんなんじゃ。夕詩のためにも働かないといけないのに』
弱々しい笑顔と一緒にそう言われ、自分が今までどれだけ母に甘えていたのかを思い知った気がした。
母さんの身体が心配で仕方がない時にそんなこと、言ってほしくなかったんだ。
自然と働こうと思った。高卒でも雇ってくれそうなところ、一つくらいはあるだろう。
それでも、就職難のことや、元々高卒採用なんて少ない方だからか、そんな仕事は一つもない。
しかも僕は、特技や趣味などもさして持ち合わせていなかったので、余計見つけるのに一苦労だ。
疲れるものだって、汚いものだっていい。どんな仕事でもやるのに。
担任には母が浪人するんだと三者面談で言ってしまっていた。先生の協力は仰げない。
一応、母には言った。働きたいって。
その時でさえも母さんは優しくて、笑顔でこう言ってくれたんだ。
『夕詩が決めたならそうすればいいわ。でも勉強はちゃんとしていなさいね、きっと役に立つから』
どんな時でも僕を勇気づけ、元気づけようとしてくれている母さんは、きっと世界で一番僕に優しくて、世界で一番いい母親だ。
でも時々、その優しさがどうしようもなく重く、残酷に感じる時があるんだ。
母さんが悪いんじゃない。悪いのは全部僕だから、何も言えない。あの時もっと頑張っていれば、なんて思い返しても過去には戻れないのだから。
そんなこんなで途方に暮れたまま卒業式を迎えてしまった。
「どこ行くの」
どうせ答えないんだろ、というような諦めた口調の彼。
「うーん、遠いところ」
「そういうことじゃないんだっつの」
ため息と一緒に卒業証書の入った筒でパコンと頭を叩かれる。そして呆れ顔で睨まれた。
「お前ホント、たまに日本語通じないよな」
「ええっ、これでも一番成績がいいのは国語なんだけど」
「だから、そういう意味じゃないんだって」
むう、と頬を膨らませる彼だが、口角が微妙に上がっているのを僕は見逃さなかった。
「前から言ってたとおり、俺、東京に行くから。これからめっきり会えなくなるな」
「そうだね……」
「だから、お前の進学先も知っておきたかったんだけど」
諦めきれないように再度、僕を睨む。気まずくって僕はやんわりその視線から逃れる。
そんな攻防戦を繰り広げていたら、教室の外で彼の名前を呼ぶ声がした。きっと彼の両親なんだろう。
「ほら、呼んでるよ。行った方がいいんじゃない?」
「うん……」
後ろを振り返ってまた僕を見て、今度は下を向いて、と、彼は色々なところに視線をさまよわせた。
そして意を決したように手を差し出した。
僕もその意味が分からない程、馬鹿じゃない。……大学落っこちたけど。
自分の手と彼の手が握り合う。握手だ。
彼は少し恥ずかしそうに笑う。こうやってちゃんと向き合ったことなんてなかったから、仕方ないだろう。
実際、僕もちょっと恥ずかしい。
「ちゃんと連絡してよね、待ってるから。今度会おう」
「そうだね、落ち着いたら連絡するよ」
彼は良い人だ。僕の友人には、勿体ないくらい。
こうやって握手ができるくらい、綺麗な心を持っていて、真っ直ぐな人だ。
どうか元気で。そっと、そうやって心の中で祈った。
手が離れた。彼が背を向ける。
「じゃあな!」
「うん、またね!」
名残惜しそうに一度だけ僕を振り返って、彼は去って行った。
最後に見た彼の顔は、きっと一生忘れない。
……さて、僕はどうしようかな。
母は、卒業式が終わると同時に仕事に行ってしまった。式にだって、相当無理をいって抜けてこさせてもらったらしい。
さっきまでうるさい程騒いでいた卒業生や在校生も、いつの間にかいなくなっている。先生たちもきっと職員室に戻ったんだろう。
卒業式をやっていたなんて想像もできないくらい、静かだ。
……帰るか。そうだ、それが一番いい。それで、明日からの就職活動に備えるんだ。
そう思って、鞄片手に立ち上がる。いつもは教科書などの勉強道具で重かった鞄も、今日は軽い。そのことがなんだか虚しく感じられて、泣きたくなった。
思い出がしみ込んだこの教室ともお別れだ。
こうして見ると、感慨深い。名残惜しく思って、ぐるっと教室全体を見渡してみる。
無機質に並んでいる机や椅子が、なんだか愛おしく思えてきた。女子がせっせとデコレーションしていた黒板の文字も、壁にしてある落書きも、いたるところに貼ってある文化祭や体育祭の写真も、全てが思い出なんだ。
深呼吸をして、それらを身体にしみ込ませた。
そうして、教室を出た。
と、そのとき。
「何してるの? 随分遅いのね」
凛とした声が話しかけてきた。
水を差す、と言ったら失礼だけれど、今は話しかけてほしくなかったな、と思いながら声のした方を見る。
隣の教室から女の子が出てきたところだった。僕と同じように思い出に別れを告げていたのだろうか。
……ああ、あの子、知ってる。ストレートの髪が綺麗な子。たまに廊下ですれ違っていた。
確か名前は、舞原羽月。
「どうしたの?」
小首をかしげてこっちへよってくるその姿は、まるで小動物のようだ。さらりと肩に黒髪が落ちる。
「いや、なんでもないんだ。ちょっと寂しくなっちゃって」
「寂しい? ……ああ、もうここへは来ないものね」
そう言って彼女も教室を振り返る。僕とは違って、なぜかその顔には寂しさなんてないように思えた。
「そんなことより、よ」
高校卒業の感動的な場面を『そんなこと』とは。
僕は少なからず驚いた。パチパチと瞬きをする。
だって彼女は、こういう感情的なことには敏感だろう、と勝手に思っていたからだ。いや、女の子はそういう生き物なんだと思っていたから、と言った方が正しいのかな。
世間一般、卒業式って涙イベントじゃないか。
「あなた、これからどうするの?」
顔が引きつったのがわかった。
どうして知っている。誰にも言ってないのに。
「どうするって?」
彼女は僕をちらりと横目で見る。わかってるのよ、とでもいいそうな雰囲気だ。
心を見透かされているようで、怖い。このまま「浪人するの?」なんて言われたら、怖すぎる。
なので、僕は自分から逃げることにした。
「アテがないんだ。働きたいけど、仕事がないし。勉強もしたいけれど、そんなに贅沢言ってられない」
たいして親しくない女の子にこんなことを言ってしまうなんて、僕はよっぽどまいっていたんだと思う。
舞原さんはまっすぐに僕を見た。キラキラと瞳が輝いている。……なんだその目は。
「一つだけ、仕事がない訳でもないわよ。自転車に乗れればオーケイだもの」
その言葉に食いついた。仕事がある? 自転車? うん、乗れる。それくらいならできる。
頭の中に広がっていく嬉しさの中に、一つ落とし穴を見つけた。
彼女のツテで仕事なんてあるのか。高卒の何の取り柄もない男子がきちんと働けるような? もしかしてものすごく酷なものなんじゃ……。
「どんな仕事なの?」
興味六割、心配四割で聞いてみる。
すると、興味を持ってくれたことに喜んだのか、舞原さんの表情がぱあっと明るくなった。笑うと随分人懐こく見える。
ピンク色の形のいい唇に乗って飛び出した言葉は、
「郵便配達員よ!」
○●
「前々からこんな噂があったでしょう、『空き地にあるポストに手紙を投函すると、死んだ人へ届けてくれる』っていう噂が。
やったことある? ……あらそう、ないの。
あの噂、本当よ。……どうしてそんな吃驚してるのよ、火のないところに煙は立たず、って言うでしょう。
……あ、その顔、信じてないわね。
まあいいわ、来てもらえばわかることだし」
噂の空き地までは学校から歩いて三十分くらい。僕の家からだと十分くらいの場所にある。
歩くのは好きなので、別に問題はない。そもそもここは田舎なので、歩かないとやってられない。
舞原さんは、僕が思っていたよりもよく喋る性格のようだ。重そうな口だと思ったのだけれど、人見知りもしないようだし、意外と話しやすい。
空き地の前で舞原さんが立ち止まる。彼女についてきていた僕も、当然止まる。
この空き地の変なところ。そんなの一つしかない。見ればすぐにわかる。
「何回見ても変だよね」
「そうね」
それなりに広い草むらと化した空き地のど真ん中に、真っ赤なポストが置いてあるのだ。しかも、よく見る角形ポストではなくて、昔ながらの丸形ポスト。
これに手紙を投函すれば、その手紙は死んだ人に届く……。
とても現実味があるとは思えない。でも、舞原さんが自信たっぷりに本当だ、と言っている手前、なかなか真っ向から反対する訳にもいかない。
舞原さんはポストに手を触れた。真っ赤な赤に、彼女の白い手が映えている。
「……おじいちゃん、緊急に開けてくれない? 働き手を見つけたの」
いきなり何もない空間に話しかけた舞原さんにぎょっとする。
え、なに、舞原さん、もしかして普通の人には見えないものが見えるとか? そういう人なの?
というかおじいちゃんって。親戚? そこにいたりするの? 僕何も見えないんだけど。
一人でぐるぐる考えを巡らせていると、彼女は振り返って困ったように笑った。
「やっぱり駄目みたい。ちゃんと朝に来ないと」
朝?
え、幽霊とかって夜じゃないと出てこないんじゃなかったっけ?
ますます意味が分からない。
「明日の朝、日が昇る頃にここに来て。そしたら全部わかるから。あ、ノートと筆記用具、忘れずにね」
日が昇る頃って、今の時期は五時半くらいじゃ……。
その時間、まだ真っ暗だけど。そんな時間にここに来るの?
大体、僕はいいとしても舞原さんはどうやって家を抜け出してくるの? 女の子なんだし、そこら辺は親御さんの許可とか……。
色々聞きたいことがあるのに、舞原さんは「それじゃ」と言って僕に背を向けて歩き出してしまう。
「待ってよ!」
呼んでも、振向いてくれない。
遠ざかっていく後ろ姿に少し不満を覚える。
舞原さんがすぐそこの四つ角を曲がったとき、僕は大きく溜息をついてしまった。
よくわからない子だ。本当に信用してもいいのかな。
でも、あの自信はどこから来るんだろう。これが嘘だったら、後から物凄い恥をかくだろうし。だったら最初から嘘なんてつかないよな。
あ、もしかしてドッキリとか? それだったら最後まで騙されてあげないと可哀想かな。でも、僕と彼女は今日初めて話した、くらいの親密度なのだ。ドッキリは、もっと親しい人にやるべきではないだろうか。
うーん…………。
腕を組んで考えるが、一向に答えは見えてこない。と、そのとき盛大にお腹が鳴った。そういえば、お昼を食べていなかった。
「ま、明日また来ればわかるか」
自分でも能天気だと思う。よく人にもそう言われる。
とりあえず、お腹が空いたから帰ろう。
母さんが冷蔵庫にお昼ご飯を入れておいてくれている筈だ。卒業式だからって、ちょっと豪華なやつ。
僕は家へと続く道へ足を進めようと回れ右をした。
四つ角に来た時、何となく気になって空き地を振り返ってみた。
すると、ほんの少しだけポストが光った……気がするのは、さっきの舞原さんの影響だと思いたい。
2013.10.26 修正
2014.02.21 加筆、修正
2016.08.15 加筆、修正