15.絵の中のほほえみ
私の大叔父――私の祖父の弟、はこのあたりではそこそこに名の知れた画家だった。大叔父は話好きな楽しい人で、私は子供の頃から、よくその大叔父の家に遊びに行った。
大叔父は生き生きとした動物画や、自然の風景画を描くのが好きで、人物画などは、肖像画を依頼された時ぐらいにしか描かないようだった。
が、人物画をあまり描かない大叔父の寝室の壁には、大叔父が手元に残していた何枚かの気に入りの絵の中での、唯一の人物画が、ずっと大事にかけられていた。
その絵というのは、時代がかった質素な白い衣装の、まるで聖母像の様な慈愛に満ちた微笑みを浮かべている、若い女性の肖像画だった。しかし、その女性の顔の左半分のおおかたは……大きな紅痣におおわれていた。
子供の頃、初めてその絵を見た時、まだ幼かった私は、その女性の紅痣が、なんだか恐ろしいようにも思えた。が、絵を見つめていた私に、
『美しい人だろう?』
と大叔父は言った。
『う、うん……』
それに私はたよりのない生返事をした。
『この人はだあれ?どこかのお姫様なの?』
白い衣装のために聖職者の様にも見えるが、その微笑みの中には王侯貴族の様な気高さもうかがえる女性に、私はたずねた。
『そうさ』
その私に大叔父はうなずいた。
『巫女姫様だよ。もう千年も前のね。でも、今でも天国へは行かないで、この世にいらっしゃるんだよ』
『?』
その時、私には大叔父の言っている事が、いったいどういう事なのかわからなかった。
しかし大叔父は、どこか遠くでも眺めているような目をして、懐かしそうに言った。
『……この世の病や怪我をえた人たちを治してあげるためにね。今も、生きていた頃と同じ様に、ここから遠く離れた村の、ウーナの神殿にいらっしゃる』
『千年前から、ずっと?』
『そうさ』
大叔父はうなずいた。
『これは私が若い頃の話なんだがね……』
その絵の女性について、大叔父から詳しい話を聞いたのは、その時だった。
大叔父はまだ売れない画家であった若い頃、写生旅行と称して、あちこちの地方を一人でぶらぶらとしていた事があったらしい。
そしてある時、急な雨に降られてあるさびれた旧街道を急いでいると、その大叔父の行く手に、かっては栄華を誇っていたらしい、なかば崩れた城跡が姿を現した。大叔父はこれ幸いと、その城跡で雨宿りをする事にした。
街道から分かれた脇道が登ってゆく小高い丘の上には、壮大で立派であったろう城や城壁の跡が苔と野草におおわれた中に残っており、そして城跡のそばには、どういうわけか今でも、美の女神ウーナを祭った神殿だけが、たいして傾きも崩れもせず、昔の姿そのままにひっそりとたたずんでいた。
廃墟と化している建物の中で、かろうじて屋根が残っているのはその神殿だけだったため、ますます強まってきた雨足に追い立てられる様に、大叔父は神殿の中へと入って行った。
薄暗い、静まり返った神殿の中に、何かの気配を感じる様な気もしながら、年月を感じさせる石作りの古い神殿へと足を踏み入れてみると、神殿は今もまだ使われているのか中はきれいにかたづいていて、神殿の奥の、ウーナ像が安置された祭壇には蠟燭と香が備えられ、真新しい果物などの供え物が捧げられていた。
そしてそれだけではなく、その神殿には実際、“住人”もいたのだった。
それも一千年も前からの住人が。
風化してゆくばかりのこんな古い神殿でも、まだちゃんと信仰されているのだなと思いながら大叔父は祭壇前に立ち、祭壇中央のウーナ像の左の壁に大きな肖像画がかけらている事に気がついて、大叔父はその絵を見上げた。
肖像画は神殿ほど古いものではなかったが、しかしそこそこに年月を経たもので、当時の名画伯の手による立派なものであったが、残念な事に、あちこちが傷みはじめていた。
絵に描かれていたのは質素な白い衣装の、女性の様だった。だが神殿の暗がりの中では、その顔の部分はあまりよく分からなかった。
女性の肖像画の下には、女性の名前と、彼女の生前から没後について書き記された金の碑があった。
<王女イナンナ>
碑文にはそう書かれていた。
<スワー暦アダラナ15年生、クオ7年没。ツェザイ曆826年生、851年没。
第十二代カガート五世庶子にして女神ウーナ神殿の巫女。ウーナ神殿の巫女イルフィルを父王カガート五世が凌辱した事により、この世に生を受ける。美と貞節の女神の巫女を犯した父王の大罪は、王女イナンナの赤痣として現れ、終生消えぬ神の怒りの天印となった。
が、その反面、王女イナンナは“癒し手”の神力に恵まれ、人々の病と傷を癒し、ウーナ神殿の巫女となり、後にはウワァフ·フフウの森の大蛇の悪しき魂をも癒して昇天させ、さらなる強大な霊力を大蛇に与えられた。
第三次マーノ·ランダ戦時、城内に攻め入ったカスバスタ軍の手にかかり、現身は若くして滅びるも、その魂はすぐに骸の上によみがえり、城内に攻め入った敵軍の上に、燃えさかる雪を降らせて民を守り……>
(王女イナンナ)
(イナンナ姫……?)
(紅痣?)
大叔父は碑文の内容を思いながら、そのイナンナという女性の絵をもう一度見上げた。
が、やはり顔の部分も、父王の罪の印だという紅痣がどこにあるのかも、暗がりの中ではよくわからなかった。
もう少し明るければ見えるのだがな、と思いながら、大叔父は神殿の隅で荷を解いて、濡れてしまった身体を拭き、持ち合わせていた食べ物の一部を祭壇に捧げると、ますます暗くなってゆく雨空に、その日はそのまま神殿で過ごす事にした。
そしてその夜。
大叔父は息苦しさにふと目を覚ました。
気がついてみれば、大叔父の身体は何やら熱っぽくて怠く、寝汗をかいていた。
雨に濡れたまま、冷え込む石床の上に薄毛布一枚で寝ていたため、大叔父はどうやら具合が悪くなってしまったらしかった。
大叔父はそれに、こんな人里から離れたところで困った事になったな、と思った。と、その時……
「大丈夫ですか?」
その大叔父に、誰かが声をかけた。
それに、大叔父が横たわったまま声の方に首をめぐらせてみると……大叔父のそばにいつの間にやら、若い女性が膝をついて、大叔父を見つめていた。神殿の中は真っ暗であったが、どういったわけか、その女性の聖職者の様な白い衣装と女性の顔は、青白い、ぼんやりとした光につつまれていて、暗がりの中でもよく見えた。
「え、ええ……」
大叔父は少しばかり驚き、女性はこの神殿の巫女か祭司だろうかと思った。そしてその女性の顔をよく見てみると、それはまだ少女の様なところを残した、優しく穏やかな表情をした女性だった。が、その女性の顔の左半分は――ひどい赤痣に覆われていた。
しかも、痣となっているのは顔ばかりではなく、衣服からのぞいている喉元、手元などの身体の左半分すべてに、黒みをおびた、大きな赤痣が浮いているようだった。
しかし彼女は、自分でも最大の悩みの種となっているであろうその赤痣を隠そうともせず、また、気にもしていないといった様子で、大叔父を見つめていた。
「少し熱がおありの様ですね」
静かな口調で、女性は大叔父に言った。
「ええ」
それに大叔父は、ねぼけまなこの上に、熱でぼんやりとなっている意識の中で、うなずいた。
「じっとしていて下さいね」
と、大叔父に女性は言い、彼の額に、青白く輝いている右手――痣のない方の手――を当てた。
『その手はひんやりと冷たかったが、やわらかい、とても優しい手だった』
と、大叔父は私に言っていた。
何やら夢見心地の気分の中ではあったが、大叔父はその“ひんやりとした、やわらかい、とても優しい手”に、なぜかとてもほっとして、そのまま朝までぐっすりと眠ってしまった……らしい。
次の日の朝。
目を覚ましてみるや、大叔父の体調はすっかり良くなっていた。
それに大叔父は、タベの事は、すべて寝ぼけ半分の中で見た夢だったのだろうか、と思った。
が、起きだして、神殿の中全体が神々しい様な白い朝の光につつまれているなかで、大叔父があの祭壇横の絵を見上げてみると……そこに描かれていたのは顔の左半分に大きな紅痣のある、夕べのあの女性であった。
大叔父はそれに驚き、そして碑文に刻まれていた言葉を再び思いだした。
(紅痣……)
(では――では、あのかたが……?)
と、絵を見つめながら、大叔父が呆然としていると、
「お加減はいかがですか?」
と
自分の肖像画のそばに、当の本人が姿を現し、大叔父に話しかけた。
大叔父は、まるで絵の中からそのまま抜け出して来た様な彼女……一千年もの昔の姫君、イナンナ姫、の姿に目を見張り、言葉を失った(無理もないが)。
「まあ、ごめんなさい。驚かせてしまったかしら。急に声をおかけして」
その大叔父に、イナンナ姫は後光の様な朝日の中で、優しい微笑みを浮かべて言った。
「私はこの神殿の巫女を務めております、イナンナと申します。……熱は下がったようですか?」
「え、ええ」
イナンナ姫に、大叔父はしどろもどろな言葉を返した。
(イナンナ……)
(イナンナ姫? やはりこの人が?)
(とはいっても、あの年代からすれば、今からはもう千年も前の……)
(しかし……)
(しかし、なんて――)
大叔父はそう思いながら、自分の目の前にいるのが、どうやら亡霊であるらしいなどという事もすっかり忘れ、大昔の巫女姫が浮かべているその微笑みに、うっとりとなった。
『痣なんぞは何も問題にはならなかった』
大叔父は私に言っていた。
『もちろん幽霊だなどという事さえ。あの方の御魂は、もはや霊などというものではなく、天界に昇った聖人が、再びこの世に姿を現したと言うべき神々しいもので、恐ろしいなどとは、微塵も感じなかった。あの方の微笑みこそ、まさしくどんな天才画家だって描ききれない、“聖女の微笑み”だったよ』
「このあたりではお見かけしない方ですね」
だが、当の本人は、自分の微笑みが及ぼす力になぞまったく気づいていない様子で、その“聖女の微笑み”をたたえたまま、王女はなおも穏やかに大叔父を見つめた。
「え、ええ、わ、私はあちこちをまわりながら絵を描いておりまして、このあたりにははじめてまいりました。……タべはありがとうございました。あなた様は本当に、あの碑文に記されているような、素晴らしいお力をお持ちなのですね。何とお礼を……」
彼女の優しい眼差しに、大叔父はいっそう頭に血をのぼらせた。
「いいえ、礼にはおよびません」
(イナンナ姫は、顔を赤らめだしたその大叔父を見つめながら、熱は下がったと言いつつも、本当はまだ熱があるのだろうかと思ったにちがいない)
「傷と病を癒す事が、私の授かった役目なのですから」
「し、しかし……」
「見知らぬ土地で、また病を得ぬよう、お気をつけ下さいね」
「は、はい。ありがとうございます。……ああ、では、お、お礼のかわりに――」
と、彼女にすっかり魅せられ、その微笑みの前に少しでも長くいたいと思っていた大叔父の頭に、ある事がふと思い浮かんだ。
「まだまだ駆け出しの身ではありますが、あなた様の、あの肖像画の修復をさせて下さいっ……!」
「私の肖像画を?まあ、私の絵など……」
その申し出に、イナンナ姫は困った様に笑った。が、
「いいえ、いいえ」
大叔父は懇願の眼差しで彼女を見つめた。
「あなた様のお姿を、あの様に傷んでゆくままにするなど、画家のはしくれとしてもとてもしのびない!私の全霊をかけて仕上げさせていただきます。ぜひ、おまかせ下さい!」
「まあ」
大叔父の真剣そのものの様子に、彼女はくすくすと小さく声をたてて笑った。
「私の様な者の姿など、長らく後世に残すほどのものでは……」
「い、いいえっ!」
大叔父は夢中で叫ぶ様に言った
「あなた様こそ……あなた様こそ、今のこの世の――」
「いいえ」
が、その大叔父に、イナンナ姫は静かに首を振った。
「私はただの“癒し手”です。……どうかあの絵の碑文に記されている事を、そのままに信じないで下さい。傷や病をえたすべての人々を治してさしあげたいと思って、今もこうしてこの世にとどまっている事は事実ですが、私はあの碑文にある様な大きな力を持った者ではないのです。……魔性の者と化してしまった森の大蛇の最後を看取ったのは事実ですが、そのお礼に“強大な霊力”を大蛇から授けられたわけでも、“燃えさかる雪”などというものを、本当に降らせたわけでもありません」
彼女は自分が本当にその様な力を持っていない事を残念に思っているかの様な、悲しげな表情をした。しかし、
「おお、あなた様はご自分のお力の偉大さにお気づきでない」
大叔父は言った。
「あなた様のお力もまた、哀れな者たちを救う事の出来る、神々に与えられた奇跡ではありませんか」
「……」
大叔父の言葉に、彼女は再び、困った様な笑顔を浮かべた。
というわけで……すっかりその“聖女の微笑み”の虜になってしまった大叔父は、イナンナ姫に彼女の肖像画を修復する許可を得ると、神殿の裏にテントを張り、しばらくそこに住み着いてしまったらしい。
『あの方はご自分の力の無さを嘆いておられたが』
大叔父は言っていた。
『時折神殿に運ばれてくる怪我人や病人を、人々の目の前で、見る間に回復させてしまうあの方のお力は、やはり奇跡と言うにふさわしいものだった。
しかし、ご自分も不幸な運命の元にあったにもかかわらず、それでも人々の幸せを願う、慈愛に満ちたあの方の存在自体が、一番の奇跡と言えるものだった。
私があの方の肖像画を修復するにあたって、私があの方の痣の部分を目立たない様に描こうとしていると、あの方は、ご自分の不運の象徴であるかのようなあの痣でさえ、これは、ほんの短い間ではあったが、ご自分がたしかにこの世に生きていたという大切なあかしなのだから、とおっしゃっていた』
そして肖像画を修復できた後も……大叔父は彼女のそばから立ち去れず、本当に一生をその土地ですごすつもりでいたらしい。
が、人里から離れた廃墟でろくなものも口にせず、数週間ほど留まっているうちに、大叔父はとうとう栄養失調になってしまったらしい。
怪我や病気ならイナンナ姫はたやすく治してしまうのだが、栄養失調ともなると、一時的な手当ては出来ても、食べるものを食べなければ、さすがに彼女の力をもってしてもまたそのうちに具合が悪くなってしまい、結局そういった病だけは彼女の手にはおえないらしかった。
「こんなところにいつまでもいては、あなたのためによくありません」
と、ろくに歩くことも出来なくなってしまった大叔父に、イナンナ姫は、しばらく近くの村で療養する事をすすめた。
その彼女の言葉に、彼女に迷惑をかけてしまい、こころよく思われていないのだろうと、大叔父はすっかり消沈してしまった。
だが、彼女は大叔父に静かに首を振り、たしなめる様に言った。
「あなたが私を慕って下さる事は、とても嬉しく思っています。しかしそれは別として……人というものは、一人で孤立しては、生きてゆけないものです。人は人々から離れていては、人の世から切り離されて、身も心も生気を失ってしまいます。……あなたは元いた人々の中へお帰りなさい。あなたの事は、村の人々に、私からもよくお願いしてさしあげます。そこでまたお元気になられたら、これからどうなさるのか、お考えになるとよいでしょう」
大叔父はその彼女の言葉にしたがって、神殿に参拝に来た近くの村の人々に連れられて(彼女は神殿やその周りで行き倒れの者が出るたび、そこの村の人々に、世話を頼んでいたらしい)、イナンナ姫の神殿をあとにした。
それから大叔父は神殿へは戻らず、この生まれ故郷へと帰って来て、彼女を偲んで、あの寝室の絵を描いたらしかった。
大叔父はあの絵を、ベッドに横たわったままでもよく眺められるベッドの横の壁に、ずっと大切にかけていた。
そして亡くなる一ヶ月ほど前、今から思えば自分の死期が近づいた事を予感していたのか、そのイナンナ姫の後ろに、厳粛な面持ちで、従者の様にひっそりとたたずんでいる自分の姿を、大叔父は描き加えたのだった。
それからしばらくして大叔父は亡くなり……大叔父は生涯独身で、子供が無かったため、大叔父の影響でやはり画家になった私に彼は自分の財産をすべてゆずってくれ、私は大叔父の残した家財を引き継ぐ事になった。
その中には、もちろん、あのイナンナ姫と大叔父の絵もあった。
今となっては、なにやらいわくつきとなってしまったものだが、大叔父があれだけ慕っていた人の絵なのだから、私はその絵を、大叔父の寝室ごと、彼の生前の頃そのままに、手をつけずにおいた。
しかしある日、私は驚いた。
大叔父の月命日の日、大叔父が好きだった花を彼の寝室に飾ろうと寝室へ入った時、ふとあの絵を見てみると……私はなんだか絵が変わっているような気がした。そこで私は絵に近づいて、絵をよく見てみた。すると
絵の中の大叔父が、微笑みをたたえていた。
イナンナ姫の後ろにたたずむ、大叔父が自分で描いた彼自身が。
大叔父が描いた時には、たしかにその表情は、笑みなど浮かべてはいなかったのだが。
しかしいくら見直してみても、その絵の中の大叔父は、にっこりと、幸せそうな微笑みを浮かべているのだった。
私はそれを、ほうけたようにしばらく眺めていた。
が、その大叔父の微笑みを見つめているうちに、私も苦笑を浮かべた。
(そうか)
私は思った。
やっかいなこの生身の身体から抜け出せた今、大叔父は今度こそ栄養失調になどかかる心配もない自由な身で、それこそ諸手をあげて大喜びで、一千年もの昔の、愛しの思い人の元へ行ったのだろう、と。
そして今でも、大叔父は彼女のそばに寄り添い、幸せそうな微笑みを浮かべ、絵の中から私たちを見つめている。




