第32話「神の審判を前に」
大陸歴 2791年 6月 / エヴェリン王国 王都リュミエール 大神殿 / テレジア・ド・ルクス
早朝の大神殿は、張り詰めた静寂に満ちている。 石造りの床から伝わる冷気が、祈りを捧げる私の膝を刺すが、その痛みすら今は心地よい。 祭壇の奥、神々の像が見下ろすこの場所で、私は一人、来るべき日に向けて心を鎮めていた。
「……あと、三日」
口をついて出た言葉は、静かに神殿に広がる。 先日の「顔見世」の大成功により、王都は未だ祝祭の熱気に包まれている。 ヒイロ様を一目見た者たちは、その愛らしさと聡明そうな瞳に魅了され、まだ見ぬ未来の男の理想像として期待を膨らませている。
だが、期待とは重圧だ。 高く積み上げられた期待は、崩れた時に大きな絶望へと変わる。 そして、その審判を下すのは、神官長である私、テレジア・ド・ルクスの役目なのだ。
私は祭壇の中央に鎮座する、重厚なアーティファクトを見上げた。 「真理の鏡」。 そう呼ばれてはいるが、それはガラスや磨かれた金属の板ではない。 神殿の床に据えられた、直径一メートルほど、深さ10センチほどの水を湛えた「お盆」である。 この水はただの水ではない。高濃度の魔力が込められた聖水であり、覗き込めば魂の深淵すら映し出す。
三日後の儀式では、この盆の周囲に、魔術的な透明な幕が張られる。 測定者である私ですら、一度儀式が始まれば干渉できない絶対不可侵の領域だ。 そこに、裸にしたヒイロ様を安置し、10分間、その身を聖水に浸す。
もし、彼に魔力があれば、水はその量に応じて輝き、色を変えるだろう。 そして、もし彼が「Word」を魂に刻まれているならば、水面に文字が浮かび上がり、その概念を世界に示すことになる。
盆の真上、天井と祭壇の背後は半円状に鏡張りとなっており、水面に映る光や文字を反射させ、参列しているすべての者に見えるようになっている。 隠蔽は不可能。改竄も不可能。 神の御前での「己の公開」。それが『祝福の儀』の本質だ。
(……怖い)
神に仕える身としてあるまじき感情が、胸の奥で黒い渦を巻く。 私は、あり得る未来の出来事を想像し、身震いした。
一つ目の可能性。 ヒイロ様がWordを持たず、魔力量も凡庸だった場合。 熱狂は失望に変わり、国内の結束が揺らぐかもしれない。他国からは「ただの種馬」として見下され、外交カードとしては弱いものになる。 通常であれば、どこかの大貴族に婿として出され、静かな一生を送ることになる。
……いや、アウローラ陛下の性格を考えれば、手放すことはないか。 侍女長のエラーラ様のように、王宮に侍従として留め置くか、あるいはどこかの省庁で働かせるかもしれない。 それはそれで、平穏な幸せと言えるのかもしれない。母の愛に守られ、家族と共に生きる道だ。
だが、私が真に恐れているのは、もう一つの可能性だ。
もし、ヒイロ様が強大なWordや、規格外の魔力を持っていたら?
Wordとは「存在の言葉」。 生まれた瞬間に決定し、一生涯変更・譲渡不可能。 それは天から授かる「祝福」であり、同時にその身を縛る「呪い」でもある。
授かるWordも綺麗なWordばかりではない。『Death(死)』や『Poison(毒)』といった持つだけで警戒されるようなWordを持っている者もいる。同じ時代に同じWordを持つ者がいないことは知られているが、もし忌み嫌われるようなWordを持った場合は、人に恐れられたり避けされたりするような人生になる。
また、魅力的なWordも秩序を乱す。 ドラコニア帝国の「力による支配」を掲げる女帝や、エテルニア大帝国の「秩序による統制」を掲げる女教皇が、そんな存在を見逃すはずがない。 彼らはなりふり構わず動く可能性が高い。 「略奪」か、あるいは自国の脅威となる前の「排除」か。 エヴェリン王国という大国の力をもってしても、まだ赤ん坊のヒイロ様を巡って、血で血を洗う争奪戦が始まるかもしれない。
(……どちらに転んでも、茨の道です)
ふと、過去の記憶――歴史の書に記された事実が脳裏をよぎる。 エヴェリン王国で最後に王子が産まれたのは、遥か昔。先代女王エリシア様の弟君の時まで遡る。
彼は成長した後、隣国であるアークランド王国の先代女王陛下のもとへ婿入りした。その婚姻により、両国は単なる友好国から、血の盟約で結ばれた強固な婚姻同盟国となり、現在に至るまでその絆は保たれている。
彼はアークランドの先代女王に深く愛され、幸せな日々を送ったと聞いている。だが、四十九歳という若さにもかかわらず病でこの世を去った。 あるいは平原の武骨な騎士の国である異国の風土が、繊細なエヴェリンの男性には合わなかったのかもしれない。
彼以前にも、長い歴史の中で何名か王子が産まれた記録はある。だが、その魂に「Word」を刻まれて産まれてきた王子は、これまでにただの一人もいらっしゃらなかった。 もし、ヒイロ様がWordをお持ちであるとなれば、それはエヴェリン王家の歴史にない事態となる。
三日後の『祝福の儀』には、そのアークランド王国から、女王クラリッサ様が自ら参列されるとの報せが届いている。 クラリッサ女王は「女傑」と謳われる世界屈指の騎士でありながら、すでに六人の王女を産み、現在も七人目をご懐妊中であると聞く。 身重の体をおしてまで、他国の儀式に女王自ら足を運ぶ。それは、エヴェリン王国との同盟関係を何より重視している証左であり、同時に――まだ見ぬヒイロ様への並々ならぬ期待の表れでもありましょう。
血縁関係のない他の同盟国からも、元首クラスの参加こそないものの、名だたる重要人物が「お祝い」の名目で続々と王都入りしているという。 明らかに、お祝いという名の情報収集(査定)。ヒイロ様が同盟にとって有益な「宝」となるか、それとも価値のない「石ころ」かを見極めるための、冷徹な視線だ。
私は祭壇に額を擦り付けるようにして、祈りを深めた。 脳裏に、自身の娘の顔が浮かぶ。 ユリア。生後3ヶ月になる、私の愛しい娘。 彼女は『Dream(夢)』いうWordを授かった。 ヒイロ様はユリアの異母弟であり、同い年の幼馴染となる存在。 二人が手を取り合って笑い合う、そんな平和な未来を守りたい。
エリオン様のためにも、アウローラ陛下のためにも、そして何よりあの子自身の未来のために。
「神よ。どうかエヴェリンを、ヒイロ様を、そして私の愛するユリアをお守りください」
私の声が、早朝の冷たい空気に溶けていく。 どのような結果が出ようとも、私たちが受け止め、守り抜く覚悟をお与えください。 たとえその結果が、世界を揺るがすものであったとしても。
東の空が白み始め、ステンドグラスを通して淡い光が「真理の鏡」の水面を照らした。 水面は静かに凪いでいる。 まるで、嵐の前の静けさのように。
審判の日は、もう目の前まで迫っていた。
大イベントを迎える時の進行役って一番緊張するし忙しい役割ですよね。休む間もなく常に注目される場所にいるのは過酷な立場だと思います。
テレジアのような静かでおっとりしたキャラにとっては、なおさら気持ち的には重圧を感じていることでしょう。彼女はその重圧を祈りと責任感で乗り越える大人の女性です。




