第29話「宰相と大商人の密談」
大陸歴 2791年 5月 / モントルヴァル公国 宰相執務室 / クロードゥィーヌ・バロ(モントルヴァル公国 宰相)
宰相執務室の窓からは、職人の国モントルヴァルらしい、整然とした石造りの街並みが見渡せる。 だが、今の私、クロードゥィーヌ・バロの目には、その美しい景色も入ってこない。 私の視線は、手元の報告書に釘付けになっていた。
「……一体、何者なの? この娘は」
震える手でページをめくる。 送り主は、エヴェリン王国に駐在させている外交官、イヴェット・カンガ。 カンガ家の三女で、誰もなりたがらない外交官職を押し付けられた、まだ若い娘だと記憶している。
正直に言えば、期待などしていなかった。 歴代の外交官が送ってくる報告書といえば、「どこぞの貴族とお茶をしました」「社交界の噂で誰かさんが誰かさんのことを好きらしいです」といった、中身のない社交辞令の羅列ばかり。予算の無駄だと頭を抱える日々だった。
だが、このイヴェットは違った。 着任早々送られてきたのは、『エヴェリン産木材の水分量に関する考察』や『王都における金銀細工の合金比率の分析』、果ては『腕利きの職人リスト(裏通り版)』といった、異様に専門的で濃密なレポートだった。 趣味でアクセサリー作りを嗜む私にとっては、涎が出るほど面白い読み物であり、密かに報告を楽しみにしていたのだが……。
「まさか、ここまでやってのけるとは」
今回、宗主国であるエテルニア大帝国から強い圧力がかかった。 『エヴェリン王国の王子誕生について、詳細な情報を収集せよ』。 無理難題だ。他国の、それも極秘扱いの王子の情報など、一介の外交官が拾えるはずがない。エテルニアの外交官やスパイ網ですら、王宮の壁を越えられずにいるというのに。
それなのに、彼女からの報告書には、こう記されていた。
『エヴェリン国内要人向けの顔見世パーティへの参加に成功。王子への謁見を果たし、王族および大臣クラスとの接触を確立した。また、周辺国の要人との商談が進む可能性あり本国の判断を仰ぐ』
「……化け物か」
私は頭を抱えた。 想像の100倍、いや1000倍の成果だ。 あまりに重大すぎて、どこまでの情報を宗主国に流すべきか、私の胃が悲鳴を上げている。
「失礼します。宰相閣下」
秘書官の声と共に、重厚な扉が開かれた。 入ってきたのは、小柄だが岩のような存在感を放つ老婆。 背負い箱一つから身を起こし、一代でこの永遠条約圏最大級の商会を築き上げた生ける伝説、ヘルガ・シュミットハウゼンだ。
「内容も告げずに呼び出すとは、穏やかじゃないねぇ、宰相」
ヘルガは不機嫌そうに私を睨みつけ、ドカッとソファに腰を下ろした。 その眼光は鋭く、一国の宰相である私ですら気圧される。
「急なお呼び立てを詫びます、ヘルガ殿。ですが……とんでもない情報の山が届いたのです。まずはこれを」
私はイヴェットからの報告書と、別添されていた二通の書簡を彼女の前に差し出した。
「ふん、外交官からの報告かい? うちの外交官はどいつもこいつもレベルが低くて……」
ヘルガは鼻を鳴らして書類を手に取ったが、その目が一瞬で見開かれた。 さらっと流し読みしていた視線が止まり、紙に穴が開くほど凝視し始める。
「……おい。これは本気か?」
「私の目が節穴でなければ、事実でしょう」
ヘルガは報告書を机に叩きつけ、身を乗り出した。
「うちの商会もエヴェリンに支店を出している。女王の懐妊も、王子の誕生も誰より先に知っていたさ。だが、こんな極秘の『顔見世』が行われたなんて情報は、欠片も入ってこなかったぞ! 現地の商人たちが誰も知り得なかった情報を、なぜこんなレベルで掴んでいる?」
「それだけではありません。その二通の手紙をご確認ください」
ヘルガは震える手で、添付されていた封筒を手に取った。 一通目は、ほのかに甘い香りが漂う高級な紙。透かしには妖精の紋章。
「……本物だね。この透かし、この残り香。光の同盟における経済の女帝、フィオラ王国のアイリス・フェアリーからの『商談依頼状』だ」
ヘルガの声が上擦る。
「いいかい宰相。アイリスは生きる伝説だ。我々がこちらから会おうと思えば、数年の根回しと、国家予算並みの貢物が必要になる相手だよ。それが、向こうから『ぜひ貴国の金細工を取り扱いたい』と頭を下げてきている……?」
そして、二通目。 荒々しい筆致で署名された、重厚な書簡。
「こっちは……トルヴァード連邦の外務大臣、アルーシャ・リリヤスカの直筆署名入りか……!」
ヘルガの顔色が変わる。
「彼女はトルヴァード地域の急速復興のためにドラコニア圏から選りすぐられた『優秀な人材』の一人だ。下手に接触すれば、不利な条約を飲まされて国ごと骨の髄までしゃぶり尽くされるのがオチだ。その彼女が、『対等な貿易協議』を打診してきているだと?」
ヘルガは呻くように言い、ソファの背もたれに深く沈み込んだ。
「どちらも、我々が喉から手が出るほど欲しいが、お互いの国の属している勢力が違うから決して手の届かない怪物たちだった。……それを、たった一人の外交官が繋いだというのか?」
「はい。……私を呼んだ意味、お分かりいただけましたね?」
私は努めて冷静に切り出した。
「この二つの大商い、あなた以外に任せられる商人はいません。隠居を考えているのは知っていますが……どうか、頼めませんか」
ヘルガはしばらく天井を仰いでいたが、やがてニヤリと、肉食獣のような笑みを浮かべた。
「……ふん。隠居前の最後の大仕事としちゃあ、悪くないね。引き受けよう」
「感謝します」
安堵の息を吐く私に、ヘルガが鋭い視線を向けてくる。
「しかし、このイヴェット・カンガってのは何者だい? うちの国に、こんな優秀な外交官を育てるスキルもノウハウもないはずだが」
「……私も、ただのカンガ家の三女で、貧乏くじを引かされた新人だと認識していました。ですが」
私は過去の報告書もヘルガに見せた。 ヘルガはそれを読み上げ、戦慄する。
「『王家御用達工房の合金技術の解析』に、『市井の素材調達ルートの流通問題の指摘』……。おいおい、こいつはただの外交官じゃないね。この報告書をもとに動くだけでうちの商会は大きな利益を上げられる……。」
(※実際は日雇いバイトの経験談)
ヘルガの目線には『これらの報告も私のところにすぐ届けてくれよ』という強い意志が多分に含まれていた。
「宗主国のスパイですら、こんなレベルの情報は得ていないでしょう。彼女は、職人の視点と外交官の視点を併せ持つ、稀有な人材なのかもしれません」
「……決めたよ」
ヘルガはバンと机を叩いた。
「今後、イヴェットからの報告書は私にも即見せな。私が直接対応する。こんな優秀な奴なら、一度会っておきたい」
「現地へ行かれるのですか?」
「ああ。アイリスとアルーシャ、二人の怪物と渡り合うんだ。私が直接エヴェリンへ乗り込む」
ヘルガの決断力はさすがだ。 私たちは今後の方針を固めた。
「王子や王族の情報は宗主国に流していい。だが、商談と他国とのコネは伏せろ。これは我が国が生き残るための命綱になるかもしれん」
「頼みましたよ、ヘルガ殿」
「任せな。……ところで宰相」
帰り際、ヘルガがふと足を止めた。
「この優秀な外交官に、国としての支援はどれくらいやってあげてるんだい? これだけの工作をするには、相当な資金が必要なはずだ」
「あ……」
私は言葉に詰まった。 そういえば、イヴェットには最低限の給与しか送っていなかった。 前任者たちが役立たずだったため、予算を削っていたのだ。
「……まさか、ろくに送っていないのか?」
ヘルガの目が据わる。
「……えーと……新人の給与くらいは……」
「情報の価値が分からん馬鹿者め!! 報告書を読んだだけで価値に気づけ!!それにエヴェリン上層部への強いパイプの構築に、あのアイリスやアルーシャを動かすのに、どれだけの裏金と工作が必要だと思ってるんだ!! あの娘、自腹を切って国のために尽くしていたのか!?」
「も、申し訳ありません……!」
怒鳴りつけられ、私は縮こまるしかなかった。 確かに、これだけの成果を上げるには、多くの活動資金が必要だったはずだ。彼女は身銭を切って、あるいは借金をしてまで任務を遂行していたのか。なんと愛国心に溢れた忠臣なのだろう。
「ふん! もういい。イヴェットの活動資金は、今後うちの商会が全額持つ!」
ヘルガは憤慨した様子で部屋を出ていった。
「……すぐに、現地支店に連絡を入れる。エヴェリン支部の金庫の金は全部使っていいと伝えろ! それと、私が直々に挨拶に行くと手紙を書く!」
廊下から聞こえるヘルガの怒号に、私はただ頭を下げるしかなかった。
数日後。 エヴェリン王国の王都の片隅で、金欠に喘いでいた一人の外交官が、祖国最大の大商会の支部長から「金庫の金は使い放題です」「会長が貴女に会いに来ます」と告げられ、あまりの恐怖と混乱で泡を吹いて倒れるのは、まだ少し先の話である。
ビジネスにとって正しい情報はめちゃくちゃ大事ですね。
特に先行している外国の情報は非常に重要です。
ヘルガ会長じゃなくても恨みがましい目で見ますね。




