第12話「専属侍女の拝命」
大陸歴 2791年 5月 エヴェリン王国 王都リュミエール / ミラベル=エヴェリン
王宮の廊下は、昨日とは打って変わって浮き立つような熱気に包まれていました。 すれ違う侍女のお姉様方も、警備兵の方々も、どこか足取りが軽く、交わされる挨拶の声も弾んでいます。 それもそのはずです。昨朝、高らかに鳴り響いたラッパと共に、我が国に待望の「王子様」が誕生したことが公表されたのですから。
本来なら、私もその祝賀ムードに浸っていたいところでした。 けれど今の私は、緊張で胃がキリキリと痛むのを必死に堪えながら、王宮の奥まった場所にある一室の前に立っていました。
「……失礼いたします。ミラベルです」
震えそうになる声を抑えてノックをします。 「お入りなさい」という許可を得て、私は重厚な扉を開けました。
そこは、宰相執務室。 この国の政務を取り仕切る、私の母――リリア=エヴェリンの戦場です。
「よく来ましたね、ミラベル」
書類の山に埋もれるようにして座っていた母様が、ペンを置いて顔を上げました。 その机の上には、昨日からひっきりなしに届いているという各国の要人や貴族からの祝電、そしてプレゼントの目録がうず高く積まれています。
こんなにお忙しい時に呼び出されるなんて、私は何か粗相をしてしまったのでしょうか。 姉のイゾルデのように優秀でもなく、これといった取り柄のない私です。王族の端くれとして、不甲斐ない振る舞いをしてしまったのかもしれません。
私はスカートの裾をギュッと握りしめ、お説教を覚悟して頭を垂れました。
「お呼びでしょうか、母様……いえ、宰相閣下」
「顔をお上げなさい。今日は叱るために呼んだのではありませんよ」
母様は、いつもの厳しい宰相の顔から、少しだけ柔らかい「母」の表情になって、手招きをされました。
「……はい」
おずおずと机の前に進み出ると、母様は私の目をしっかりと見つめて、信じられない言葉を口にしました。
「ミラベル。貴女を、ヒイロ様の『専属侍女』に推薦しました。陛下のご承認も得ています」
「え……?」
一瞬、言葉の意味が理解できませんでした。 ヒイロ様。 先日、一度だけお会いした、あのかわいらしい弟君。 私が一目見た瞬間に、胸が締め付けられるような運命を感じてしまったあの方の……専属侍女?
「私が……ヒイロ様の、お側に?」
「ええ。これは公務です。王子という立場は、多くの危険と誘惑に晒されます。信頼できる身内の者が、常に側で支える必要があるのです」
母様の言葉が、じんわりと心に染み込んでいきます。 あの方のお世話ができる。 遠くから眺めるだけでなく、朝のお着替えから、お食事、そして夜のお休みまで、一番近くでお支えすることができる。 その事実に、私の胸は喜びで破裂しそうになりました。
「貴女はまだ9歳ですが、王家の身内として、誰よりも近くでヒイロ様をお守りしなさい」
母様はそこで言葉を区切り、机越しに私の頬に手を添えました。 その瞳は、宰相としての冷静な光ではなく、私の幸せを願う母の温かさを帯びていました。
「……そして、貴女自身の幸せも掴みなさい。よいですね?」
「は、はい! 謹んで、お受けいたします!」
私は涙がこぼれそうになるのをこらえて、深く一礼しました。 母様は私の気持ちを、すべてお見通しだったのです。
「さあ、そうと決まれば善は急げよ。ヒイロの部屋までついてきなさい」
母様は席を立ち、私を連れて執務室を出ました。 廊下を歩く間、私の心臓は早鐘のように鳴り続けていました。
(浮かれていてはいけないわ、ミラベル)
私は頬をパンと叩き、自分を戒めます。 専属侍女という仕事は、単なる遊び相手ではありません。 ヒイロ様は「王家の宝」。そのお体に傷一つつけず、健やかに成長されるようお世話し、時には盾となってお守りするのが私の使命です。 生半可な覚悟では務まりません。完璧な仕事をしなければ。
決意を固めているうちに、私たちは王宮の最深部、ヒイロ様の寝室の前へとたどり着きました。 母様が静かに扉を開けます。
昼下がりの柔らかな日差しが差し込む部屋の中。 ベビーベッドの傍らには、侍女長のエラーラ様が、彫像のように背筋を伸ばして控えていました。
「エラーラ、約束通り娘を連れてきました。どうか厳しく指導してください」
母様の言葉に、エラーラ様がゆっくりとこちらを向きました。 その瞳は、いつも以上に厳しく、そして深い光を宿しています。 先代女王エリシア様と当代女王アウローラ様を侍女として長年支え続け、その厳しさから宮廷で最も恐れられ、そして尊敬されている「氷の侍女長」。 その威圧感に、思わず足がすくみそうになります。
「ミラベルさん」
エラーラ様が、静かに私の名を呼びました。
「これより先は、甘えは許されません。王族としてのミラベル様ではなく、一人の侍女見習いとして扱います」
「は、はい!」
「貴女様には、まずは侍女としての基本から、そして王子の専属侍女として恥ずかしくないように、私の持てる技術と知識の全てを叩き込みます。……覚悟はよろしいですね?」
その言葉には、単なる教育係という以上の、何か鬼気迫るような覚悟が込められていました。 まるで、ご自身の命を、魂を、私に継承しようとしているかのような。 私はその重圧に押しつぶされそうになりながらも、必死に顔を上げました。
「はい! ご指導、よろしくお願いいたします!」
私の返事を聞いて、エラーラ様はほんのわずかに、満足そうに口元を緩められました。
「頼みましたよ、エラーラ。……ああ、それと」
退出しようとした母様が、ふと思い出したように振り返り、いたずらっぽく付け加えました。
「貴女のその……情熱的な恋愛経験も、娘に教えてやってちょうだいね?」
「……リリア様。余計なことを」
エラーラ様がぴくりと眉を動かし、母様を睨みました。 え? 恋愛経験? あの厳格なエラーラ様が? 私が驚いて目を丸くすると、エラーラ様は咳払いをして、
「ミラベル様には、まだ早いお話でございます」とピシャリと言い放ちました。
母様は楽しそうに笑いながら、部屋を出ていきました。
静寂が戻った部屋で、私はベビーベッドへと歩み寄りました。 そこには、世界で一番尊い方が、安らかに眠っていました。
「……ヒイロ様」
絹のような肌。長い睫毛。小さく上下する胸。 無垢で、無防備で、そして何よりも美しい。 その寝顔を見ているだけで、胸の奥が熱くなり、締め付けられるような愛おしさがこみ上げてきます。
なんて尊いのでしょう。 この方が、私の弟であり、そしてお仕えする主君なのです。
私はベッドの柵にそっと手を添え、眠る王子に心の中で誓いを立てました。
(ヒイロ様。このミラベル、貴方様のためなら、どんな厳しい修行にも耐えてみせます。掃除も、洗濯も、礼儀作法も、護身術も。 エラーラ様からすべてを吸収し、貴方様にふさわしい完璧な侍女になってみせます。貴方様の影となり、手足となり、一生をお捧げします。……他の誰にも、その役目は渡しません)
まだ幼い私の胸に宿ったこの感情は、姉弟愛と呼ぶにはあまりに深く、そして重いものでした。 けれど、それでいいのです。 この重さこそが、私の覚悟の証なのですから。
「ふぁ……」
ヒイロ様が小さくあくびをして、身じろぎをされました。 その無意識の仕草一つでさえ、私にとっては奇跡のように輝いて見えます。
私はこれからの日々に胸を高鳴らせながら、いつまでもその寝顔を見つめ続けていました。
9歳で侍女の修行に入ることを児童労働と捉えるか、将来のために早くから英才教育していると捉えるかは意見が分かれるところでしょう。中世では東洋でも西洋でも、幼い時から修行に出るのはよくある事と言えばそれまでですが、現代的な感覚でこのあたりを深堀するのも面白いと思います。
プロスポーツ選手が、子供を3~5歳位からスポーツの練習をさせていたら周りから英才教育を受けられていると褒められたり羨ましがられて、自営業や農家の子供が幼い時から実家の手伝いしていると可哀そうがられるのは、感情的には理解できるけど、内面的なところを理解しないと正しい姿が見えない気がします。
個人的な見解として、ポイントは「親が子供のためを思ってそれをやらせているか」と「子供がその行いを頑張ろう・楽しいというプラスの感情で捉えているか」という内面的な要素が大きいものだと思うのです。
きゅうり農家の子供が幼いころから嬉々として畑で遊んできゅうりを作っていて、成長して立派に農業の次世代を担う人材になることもあれば、プロの音楽家の子供がピアノの練習が辛すぎて別の道に進むこともあるのが人生でしょう。




