欠けた我らの欠けぬ日常
雪の気配が、鈴の余韻のように空気に潜んでいた。クリスマスの飾りを外された街路樹は、祝祭の残り香だけ抱えてひっそりと立っている。
その横を、俺は義足のかかとで石畳を鳴らしながら歩いた。コツ、コツと右足の金属が冬の空気と触れ合うたびに、冷たさが骨の奥まで染みていく。息は白く、手袋越しの指先はかすかに痺れている。それでも──砲声の無い朝は穏やかで、薄い幸福が街を包んでいるように思えた。
角を曲がると、いつものダイナーの前に背の高い大きな影がひとつ。ノアは今日も、俺より先に着いている。
「おい、またお前の方が早いのかよ」
声をかけると、影がゆっくり振り返る。灰色のコートの襟に白い息がかかり、街灯の下で彼の右手首がひんやりと光を反射させていた。
「おはよう、テオ。今日は寒いね」
いつもの柔らかい笑い方、少し眠たげな声だ。
「今日も、だろ。キンキンになっちまう」
近づくたび、足元で金属が短く響いた。
「中で待ってていいのに」
マフラーを鼻の下まで引き上げ、見上げながら言うと、ノアは一拍遅れて視線を合わせた。片目しか使えないと焦点が甘くなるらしい。だからだろう、こいつはいつも首を少し傾けて俺を見る。その癖は不思議と穏やかで、白く曇った朝の光みたいに柔らかい。
ノアはゆっくり首を横に振った。
「君がこの時間に来るだろうなって、わかってたから」
それならなおさら中で待てよ──喉まで出かかった言葉を、目の前の笑顔を見て飲み込んだ。こいつは昔からこうだ。待つという行為を、宝物みたいに大事に抱えてしまうところがある。
ノアがドアを押し開けると、古い蝶番がギギと軋む。店内の暖かい空気が頬に触れ、寒さでこわばった指先がじわりと緩む。ノアの胸元がふっと上下した。左側だけ深く息を吸って、右側は浅く。人工的な肋骨によるいつもの癖だ。
朝には遅く、昼にはまだ少し早い。店の中はほどよく賑わい、蛍光灯がかすかに点滅している。その馴染みの景色に肩の力が抜けた。
窓際の定位置に腰を下ろすと、ノアがメニュー表を広げた。
「今日は何にする?」
薄い紙が擦れて優しい響きを立てる。しばらく冷たい風の中にいたからか、ページをめくるこいつの左手は、指先の関節が赤くなっていた。
「前来たときお前これ食ってたよな、魚のやつ。これ系いいじゃん」
鮮やかなソースが乗った、ふっくらとした白身魚の写真が目に入る。湯気まで想像すると、空っぽの胃が反応して小さく鳴りそうになる。
「うん、美味しかった。でも今日はこっちが気になってて」
ノアは静かにページをめくり、家庭料理の並ぶ欄を指さす。煮物、温野菜、どれも控えめな色で、妙に落ち着く。らしいといえばらしい、けど。
「でもさ、折角だし……もっとこう、がっつりしたやつ。肉食おうぜ、肉!」
「テオは本当元気だよね」
「悪いかよ。寒いと腹減るんだよ」
ノアが小さく笑った。俺は指先で紙をぱらっとまとめてめくる。迷うこともなく肉料理の欄へ戻った。
「俺、これにする」
「また胃に悪そうなやつだ」
視線を上げると、ノアはにこっと口角を上げていた。呆れたようにも、楽しんでいるようにも見える。
「うるせえな。お前もちょっとは食うだろ?」
「うん、もらう。味見ね」
注文を終えて、店員が離れていく背中を目で追う。テーブルに小さな静けさが戻り、店内のざわめきがゆっくり耳に満ちてくる──
スピーカーから柔らかいリズムが流れ、薄くノイズが混じる。奥の席では誰かが笑い、食器の触れ合う音。コップを持ち上げると水面がかすかに揺れ、街の風の名残がまだ手のひらに残っていた。
「最近どうよ。なんか変わったことあった?」
「うーん、そうだなあ」
ノアはのんびりと水を受け取りながら、少し考える仕草で続ける。
「肩の調子が悪くてさ、ちょっと軋むんだ。力かけたときは特にね」
そう言って右肩をゆっくり回す。ニット越しに義手の可動部がわずかに擦れ、乾いた音。俺は眉を寄せて水を飲んだ。
「お前本当に、左右どっちでも無茶するよな。油は差したか?調整は?」
「今朝バッテリー替えて、軸も締めたよ」
「はは、朝からフルでやるやついるかよ。真面目か」
ふたりで笑いあう。
ノアはふっと目を細め、窓の外へ視線を滑らせた。曇り空の下、人影が通り過ぎる。ガラスから冷えた気配が伝わりながら、店内の暖かさがゆっくり肌に染みこむ。どこか穏やかな時間が流れた。
小さなチャイム音。気づけば配膳ロボットが近づいていた。もう一度、今度は電車のベルみたいな短い電子音を残し、皿の乗ったトレイがテーブルに滑り込む。それと同時に、湯気がふわりと立ちのぼった。
ノアの皿には乳白色のスープ。根菜がほろほろと沈み、パンは柔らかく温もりを帯びている。対して俺の皿では分厚い肉が照明を受けて艶めき、スパイスの香りが喉を刺激し、腹の奥をきゅっと掴んでくる。
ふたりとも数秒料理を見つめて、黙る。温かい料理を前にしたときに訪れる、あの小さな幸福の沈黙。ごくりと喉を鳴らした。
「……なあ、見ただけでうまいんだけど」
ノアがくすっと笑った。
「うん。じゃあ、いただこうか」
手を合わせる。ふたり同時に。
「いただきます」
ナイフを肉の中央に入れる。刃が筋繊維を押し切る感触が手に伝わり、軽く抵抗してからすっと沈んだ。断面から肉汁が溢れて皿に落ちると、ソースと混ざって香りが濃く、深くなる。急く気持ちをなだめながら一口大に切り、フォークを刺して口へ運ぶ。
噛む。
歯が押し返されるような弾力、そのすぐ後にじんわりと広がる脂のうまさ。強い肉の味が舌を支配する間に、スパイスが遅れて追いつく。喉を落ちていく温度に、身体の芯がやっと目を覚ました。
「……うま。やっぱ最高だな」
思わず笑みがこぼれる。ノアが小さくうなずく。
「おいしいね。こっちも食べる?」
「うん、ありがと」
差し出されたスープの皿とパン。
俺はパンをちぎって縁に浸す。白いスープを吸い込んで重くなったパンは、口に運ぶとほろりと崩れ、ミルクの甘さと溶け込んだ野菜の旨味とともに柔らかく広がった。胸の奥から温かくなり、ひと息に溶けていくような味。
「こっちもうまい」
俺が食べている様子をじっと見ていたノアは、俺の声を聞いてふっと口元を緩ませる。
「もっと食べていいよ」
パンを促す指が、迷わず俺の方へ。
「いいの?」
「俺、今日あんまり食欲ないから」
「そうなの?平気かよ」
パンの欠片が皿に落ち、乾いた音。些細なことだ。そのはずなのに、不思議と耳に残る。
──その瞬間だった。
ゴトン。
低く、重い音が響いた。
視界の端で、ノアの右腕が袖ごとずれ落ちる。肘あたりで一度引っ掛かり、まるで糸の切れた人形の手足のようにテーブルの縁から滑り落ちかけた。床に触れる寸前でだらりとぶら下がって、止まる。
俺は、思考が一瞬、止まった。驚くより先に違和感の正体を探してしまうような、間延びした沈黙。
「……え?」
周囲の客が数人、ちらりとこちらを見る。だが、その視線はすぐに料理に戻った。この街で、義手の脱落は珍しいアクシデントであっても、パニックを起こす類の事件ではない。見慣れている、そんな空気だ。
「お前、腕」
「ああ、落ちちゃったね」
落ちちゃったね、じゃねえよ。内心のツッコミは空気より軽く、声にはならなかった。
「整備不良か?ロックの締め甘かった?」
「多分、ロックかな。今朝急いでたから。……ごめん、ちょっと」
ノアは左手でぶら下がった右腕をそっと支える。根元の接続部に指が触れ、カチ、と小さくロック解除の音。袖の中を義腕が滑り抜けるとき、布越しにも金属の重さが見て取れる気がした。それを横の椅子に立て掛ける動作は、まるでコートを脱ぐ仕草のように自然だ。
ノアは背が高く、肩も厚い。男物の標準規格じゃ少し足りないのか義手はどこか大ぶりで、よく見ると無骨な造形をしている。頼もしい半面、それがこいつの欠けた輪郭を確かに主張しているようにも思える。
「家に戻ったら付け直すよ。すぐ直る」
その言い方は軽い。俺は自分の右膝に触れた。当たり前のことだが、欠け方が違えば埋め方も違う。そのことにふと気づいた。
「びっくりさせたね、テオ」
「そりゃあまあ。目の前のやつの腕が急にもげたら、ちょっとはな」
「ごめん」
「謝るこたねえよ」
フォークを握り直して肩の力を抜くと、ノアは口元を緩めた。
声を出さずに笑った少し後、湯気の立つ皿の向こうでふと視線が揺らぎ、ノアは外した右腕へと目を落とす。どこか現実の外側にいるような横顔に、光が斜めから当たって、左眼だけが宝石みたいに冷たく輝いていた。
「……でもメンテで直らないなら病院行けよ。接続部までガタが来てたら困るだろ」
「うん、行く予定だよ。別件もあるし」
「別件?」
問い返す声に、店内のスピーカーからの低音が被る。
ノアは、腕のない右肩を軽く回した。小さく、軋む。
「──腕がもげて、猫が来たんだよ」
唐突な単語が、隙間風みたいに会話に入り込む。
「は?」
「一昨日の夜、肩を外してメンテナンスしてたんだ。そしたら、窓に猫がいたんだ」
話は理解できる。だが、つながりがわからない。
「……うん?」
「しばらく目が合ってさ。その後、肩に飛び乗ってきたんだ。人懐っこいよね」
ノアは左手に持ったスプーンでスープを一口すすりながら、当たり前のことのように続ける。薄い湯気が輪郭を曖昧に揺らした。
「窓辺でね、月の光が後ろから差しててさ。毛が光って綺麗だった」
「それで?」
「いい出会いだなあって」
あまりにも自然で、あまりにも唐突な結び。相変わらずの調子だ。少し抜けていて、優しい。街の騒音や機械油のにおいの中でも、変に澄んだ目でものを見ている。
「肩の調子が悪いってのは、その日から?」
「そうだね。ちょっとズレやすくなったのかも」
「……もしかして、食欲がないのも?」
「今朝、獲れたてだったんだけどね。魚はあんまり好きじゃないみたいなんだ。意外だよね」
柔らかく冗談めかして聞こえるが、言葉の端で確かにつながった。猫、朝食と魚、こいつの小食、外れた肩。
俺は息をのむ。断線していたケーブルが繋がるように、理解が追いついた。
ノアは元々小食だ。無理に食べれば胃を壊す。今朝、こいつが魚を──猫が食わなかった魚を食ったなら、そりゃ昼に重いもんは入らない。ああ、それじゃあ、別件で病院に行くというのもきっとその新しい同居人のことだ。
気づけば自然と笑っていた。
「まあ、腕一本もげても、猫が来て……お前がそれでよかったならいいよ」
ノアも笑う。いつもの目元のしわ。
「ありがとう」
「感謝されることじゃねえ」
俺はスープをもう一口すくい、口に含む。甘い温かさが舌にじわりと広がった。
いつかまた、この街で誰かの体が削れていく日が来るかもしれない。
それでも──代わりに増える何かがあるなら。変わらない何かがあるなら。猫でも、笑顔でも、今日の一杯でもいい。
それで日常は続く──続けていける。
窓から差し込む冬の光が、椅子に置かれた義手の金属を淡く照らしていた。
肉もスープもまだ湯気が立っていて、昼食はゆっくりと、穏やかに続いていく。




