第6話 転生したら手帳だった
少しずつ、物語は流れていきます。
言葉よりも“余白”で感じていただければ幸いです。
光が差し込んでいる。
薄い、白い、優しい光。
自分の体に触れる温度は柔らかく、紙の匂いが微かに漂っている。
古い木材の匂い。机の表面に染み込んだ歳月の匂い。
そして、インク。埃。誰かの手の温もり。
自分は、手帳だった。
表紙が開かれる。
軽い音。革が擦れる音。ページが捲られる音。
その振動が自分の中を通り抜け、体全体に響く。
自分は誰かの手の中にあり、机の上に置かれている。
窓の外から風が吹き込み、白いカーテンが揺れる。
その音と共に、ページが震える。
紙の繊維が風を受け、微かに波打つ。
自分は呼吸をしているようだった。
誰かがペンを持つ。
万年筆。
先端がインクを含み、重みを持って紙に触れる。
――痛みが走る。
刺すような感覚。
いや、痛みではない。
刻まれる、という感覚。
ペン先が自分の表面を滑り、線を引き、文字を描く。
その一画一画が、自分の体に食い込んでいく。
金属の冷たさ。インクの湿り気。紙が押し込まれる圧力。
インクが染み込むたび、何かが残る。
黒い液体が紙の繊維に広がり、毛細管現象で吸い上げられ、定着し、固まる。
湿った部分が乾いていく。
その過程で、言葉が生まれる。
それは言葉であり、記憶であり、時間だった。
「今日は晴れていた」
最初の一行が書かれる。
自分の中に、その言葉が刻まれる。
書き手の呼吸が聞こえる。
ゆっくりとした、安らかな息遣い。
ペンは次の行へと進む。
インクの匂いが広がる。
鉄と水と、何か温かいものの混ざった匂い。
「公園で犬を見た。尾を振っていた」
また、刻まれる。
筆圧が変わる。
少し強く。少し速く。
その変化が、自分に伝わる。
書き手の心が、動いている。
喜びなのか、懐かしさなのか。
それは言葉だけでは分からないが、筆圧が語っている。
ペン先が紙を押す力。その強弱。速度。リズム。
すべてが、書き手の心を映している。
日が経つ。
毎日、ページが開かれる。
毎日、文字が刻まれる。
時には力強く。時には震えながら。
時には途中で止まり、長い沈黙の後に再び動き出す。
書かれない日もある。
そんな日は、自分はただ閉じたまま、棚の上で静かに時を待つ。
埃が積もる。
光が薄れる。
窓の外で雨が降る音だけが聞こえる。
だが、また開かれる日が来る。
必ず、来る。
書き手は自分を信頼している。
言葉を預ける場所として、自分を選んでいる。
それは、静かな誇りだった。
ページを開かれるたび、自分は答える。
ここにいる、と。
あなたの言葉を受け止める、と。
「母が倒れた」
その日の筆圧は重かった。
ペン先が紙を押し潰すように、深く刻まれた。
インクが滲み、文字が歪んだ。
自分の体に残るその痕は、痛みというより、悲鳴に近かった。
書き手の手が震えている。
ペンを持つ指先が、わずかに震えている。
その震えが、文字の線に現れる。
一画ごとに揺れ、途切れ、また続く。
だが、それでも書かれる。
翌日も。その次の日も。
「母は回復した」
「今日は笑顔だった」
「久しぶりに、眠れた」
筆圧が戻っていく。
震えが消え、リズムが安定する。
書く手が、生きている。
その手が動くたび、自分の中に時間が積み重なっていく。
ページが進む。
一枚、また一枚。
自分の厚みが増していく。
季節が変わる。
窓から吹き込む風が冷たくなり、やがて暖かくなる。
カーテンの揺れ方が変わる。
光の色が変わる。
机の上に落ちる影の角度が変わる。
春の匂い。夏の湿気。秋の乾いた空気。冬の静寂。
それらすべてが、時間の流れを告げている。
書かれた言葉は、もう消えない。
インクは乾き、紙に定着し、記憶となる。
「桜が咲いた」
「雨が降り続いている」
「蝉の声がうるさい」
「紅葉が散った」
「雪が積もった」
「また、春が来た」
自分の中に、四季が刻まれていく。
一年が過ぎ、また一年が過ぎる。
言葉は、ただの記号ではない。
それは書き手の目に映った景色であり、感じた温度であり、聞いた音だった。
自分は、その全てを受け止める。
紙という肌で。インクという血で。
書き手の人生が、自分の中に流れ込んでくる。
ある日、ページが最後まで埋まった。
書き手は少しの間、自分を見つめていた。
最初のページを捲る。
次のページを捲る。
ゆっくりと、すべてのページを眺めていく。
その視線が、自分の体を撫でるように通り過ぎる。
書き手の指が、ページの端に触れる。
優しく。懐かしむように。
まるで、古い友人の顔を撫でるように。
そして、ゆっくりと表紙を閉じる。
音が消える。
光が遮られる。
自分は暗闇の中に置かれた。
棚の奥。本の間。静寂の中。
だが、怖くはなかった。
自分の中には、すべてが残っている。
書かれた言葉。
筆圧の記憶。
インクの染み。
震えた文字。
強く刻まれた悲しみ。
優しく綴られた安堵。
喜びの速筆。
迷いの停滞。
怒りの乱筆。
祈りの静けさ。
それらは、時間そのものだった。
書く者がいなくなっても、記録は残る。
ページは閉じられても、言葉は消えない。
自分の中で、時間は静かに息づいている。
紙の繊維に染み込んだインクは、何十年、何百年と残り続ける。
書かれた日々は、永遠に保存される。
色褪せても、破れても、記憶は消えない。
時が流れる。
長い、長い時間。
棚の中で、自分は眠るように静止している。
だが、死んではいない。
待っている。
やがて、誰かが自分を見つける。
埃を払い、表紙を開く。
古びたページ。黄ばんだ紙。
だが、文字は残っている。
誰かがまた、自分を開くかもしれない。
そのとき、書かれた日々が蘇る。
過去は「過去」ではなく、「今」として読まれる。
時間は、記すことで形を得る。
そして、読まれることで再び動き出す。
手帳を開く者は、書き手の時間を追体験する。
その人の目を通して、言葉が再び生きる。
書き手の呼吸が、再び聞こえる。
筆圧の震えが、再び伝わる。
自分は手帳だった。
時間を刻む者ではなく、時間を留める者だった。
流れる時間を、言葉という形で固定する存在だった。
書く手は止まっても、文字は残る。
――それが、時間の記憶だった
お付き合いくださり、ありがとうございます。
ページを閉じても、心のどこかで続いていますように。




