プロローグ
お読みいただき、ありがとうございます。
本作は『転生の果て』第三章の始まりです。
静かに、少しずつ。
また新しい時間を、共に歩んでいければと思います。
時間が、速い。
オレは今日もそう思いながら、カウンセリングルームの椅子に座っていた。社会人三年目。臨床心理士として、日々患者と向き合う。
「先生、私……時間が足りないんです」
目の前の女性が、震える声で言う。
三十代半ば。仕事と家庭の両立に追われ、自分の時間を見失っている。
オレは頷き、静かに聞く。
彼女の時間は、止まっている。
過去に囚われ、未来を恐れ、今を生きられない。
オレの仕事は、その時間を動かすことだ。
言葉を選び、問いを重ね、心の扉を開いていく。
だが――オレ自身の時間は、速すぎた。
子どもの頃、一日は永遠だった。
朝が来て、遊んで、夕暮れを見て、夜が来る。
その一つ一つが、鮮明で、濃密で、長かった。
夏休みは果てしなく、一年は途方もなく長かった。
今は違う。
朝が来たと思ったら、もう夜だ。
一週間が一瞬で過ぎ、一ヶ月があっという間に消える。
季節が流れ、年が変わり、気づけば三年が経っていた。
感動が減り、驚きが薄れ、世界がただ流れていく。
かつて、オレは”視る力”を持っていた。
それは遠い昔――いや、別の生だったかもしれない。
曖昧な記憶の中で、オレは世界を深く見つめていた。
色の意味、音の重さ、光の温度。
全てが言葉になり、心に刻まれていた。
次に、オレは”感じ取る力”を得た。
それもまた、遠い記憶。
他者の痛みが、自分の痛みとして伝わってきた。
共感ではなく、同化。
境界が溶け、心が繋がっていた。
今、その力は微かに残るだけだ。
患者の言葉を聴き、心の動きを読み取ることはできる。
表情の変化、声の震え、視線の揺れ。
そこから、言葉にならない感情を掬い上げる。
だが、オレ自身の時間は置き去りのままだ。
理解できても、救えない。
他人を支えても、自分は流されていく。
セッションが終わり、オレは一人になった。
窓の外、街が夕焼けに染まっている。
また一日が、終わろうとしていた。
速い。
あまりにも速い。
オレは深く息をつき、椅子から立ち上がった。
休日の朝、オレは作業台に向かっていた。
古い懐中時計を修理している。
銀色の蓋に細かな傷。三時十五分で止まった針。
ルーペを覗き込み、ピンセットで歯車を取り出す。
錆びついた部品を磨き、油を差し、一つ一つ組み直していく。
この作業をしている時だけ、時間がゆっくり流れる。
針の動き、歯車の噛み合い、ゼンマイの巻き。
全てが手の中にあり、全てが制御できる。
時間を操作している錯覚。
止まった針を、再び動かす喜び。
最後のネジを締め、ゼンマイを巻く。
カチリ。
小さな音が響き、針が動き出した。
時計は再び、時を刻み始めた。
オレは時計をポケットに入れ、外へ出た。
川沿いの道を歩く。
春の風が頬を撫で、桜の花びらが舞っている。
だが、その美しさも、どこか遠い。
感じているはずなのに、心に届かない。
オレは川辺に立ち、水面を見つめた。
水が流れている。
ゆっくりと、途切れることなく。
一滴一滴が集まり、大きな流れになる。
時間も、こうして流れているのだろうか。
止められず、戻せず、ただ前へ進んでいく。
オレの人生も、この川のように過ぎていく。
掴もうとしても、指の間から零れ落ちていく。
そう思った瞬間――
ポケットから、何かが滑り落ちた。
時計だ。
銀色の懐中時計が、空中で回転し、光を反射しながら水面へと落ちていく。
オレは反射的に手を伸ばした。
体が前に傾く。
足元の石が崩れる。
バランスを失い――
落ちた。
水が、オレを呑み込んだ。
冷たい。
暗い。
音が遠い。
流れが、オレを引っ張る。
もがいても、浮かばない。
川底が見えない。
光が揺れている。
水面が、遠ざかっていく。
呼吸ができない。
肺が苦しい。
だが――
不思議と、恐怖はなかった。
ただ、流れに身を任せている。
抵抗する気力も、生きようとする意志も、静かに溶けていく。
水音が、鼓動に変わる。
チッ、チッ、チッ。
針の音だ。
沈んだ時計が、水の中で鳴っている。
いや――違う。
オレ自身が、刻んでいる。
体が溶けていく。
意識が薄れていく。
境界が消えていく。
オレと水の区別がつかなくなる。
流れることと、在ることが同じになる。
光が揺れる。
音が響く。
全てが一つになっていく。
痛みも、苦しみも、もうない。
ただ、流れている。
時間として。
水として。
音として。
カチ、カチ、カチ。
針の音が、世界を満たす。
それがオレの鼓動なのか、時計の音なのか、もうわからない。
全てが混ざり合い、形を失っていく。
患者の声が遠くで聞こえる。
「時間が足りないんです」
違う、とオレは思う。
時間は、いつもそこにある。
ただ、感じ取れなくなっただけだ。
視る力も、感じ取る力も、失ったわけではない。
流れの中に溶け込んでいただけだ。
意識が、静かに沈んでいく。
最後に感じたのは――
流れることの、安らぎだった。
時間に呑まれること。
それは終わりではなく、始まりだった。
光が収束し、音が止まる。
世界が、再び動き出す。
オレは――
流れていた。
いや、刻まれていた。
時間そのものとして。
存在の証として。
転生が、また始まった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。
『転生の果てⅢ』は、
11月2日(日)20:00より第1話を公開予定です。
どうぞ、次の転生もお付き合いいただければ幸いです。
またお会いしましょう。




