第7話 鐘の音の響くときは
(知らぬがナントカ、って、言うわよね)
バイエルとシルキーが屋敷の中では他人顔で暮らしている事を知らない帝国民達は、二人にもソリスト達のように幸せな家庭を築いてほしいと願っていた。
バイエルと共に街や農村を訪問すると、悪意のないその言葉を投げかけられる。
『御子様をお待ち申し上げております』
ところがどっこいシルキーはここ最近はその話のフリには慣れたもので、たとえ同じ内容をバイエルの両親である皇帝や皇后に尋ねられても、
「子供は天からの授かりものですわ。まだ天が必要と判断されてないのでしょう」
と表面上はにこやかに答えていた。
ある日、第二皇子邸を訪ねてきたアルザス家の母が言った。
「いいですか。とにかく大事なのは御子です。御子さえ生まれれば、あとは貴女が何をしようと誰もとがめません」
母の顔は笑っていたが、声は怒っていた。
間違いない、じれている。
シルキー自身は子供に興味がなかった。
ついでに言えばバイエルに対しても興味はあまりなかった。
(なのに、何故かしら)
それでいて、婚礼の儀で彼が見せた恥じらう姿を、シルキーは何度も思い出してしまっていた。
シルキーが結婚してからの数少ない楽しみは皇族が揃う席だ。
ソリストに会えるから。
自分の立場などどうでもよかった。
たとえ義理の妹としてでも、彼に会って———言葉を交わすだけで胸が高鳴って、幸せで。
ある晩、皇族が集まる晩餐でソリストがシルキーに声をかけた。シルキーがバイエルから離れた瞬間だった。
離宮の広間で、ヴァイオリンとピアノによるメヌエットが演奏されていた。
「シルキー、この曲の後の時間を僕に。温室で待ってるからね」
(びび、びっくりした)
憧れのソリストから個人的に声をかけられるのは、ほとんど初めてだった。
ドキドキしすぎて現実と思えない。もしかして自分はソリストに憧れすぎて幻でも見たのではないか。
バイエルを探してみると、彼は壁際で一人、変わりない表情で皆の様子を眺めていた。
シルキーと目が合うが、すぐに興味なさげに視線を横に逸らす。
(……やっぱり気にならないのね)
チクリと胸が痛む。
(何を、期待してるのかしら)
無関心なバイエルの表情に、シルキーが感じたのはふつふつとした怒りだ。
ソリストの誘いを受けるか否か迷っていたのが、夫の顔を見て吹っ切れた。
(どうせ私が何をしたって)
シルキーはソリストに言われた通り、演奏後のざわめきに紛れてホールから一人抜け出して、大きな温室へと向かった。
鳥籠のような形の温室の中には薔薇園がある。
その温室の扉を開けて足を踏み入れると、中に満たされていた強い薔薇の香りがシルキーを包んだ。
奥に、ソリストがいた。
憧れの人と二人きりの状況に、シルキーは緊張してしまう。
「あぁシルキー。来てくれて嬉しいよ。一度ゆっくり君と話したいと思ってたんだ」
こちらに目を向けたソリストは、形の良い顔に人を和ませる微笑みを浮かべた。
「私と?」
「無粋なことを言ってしまうけど……君とバイエルがうまくいってないんじゃないかと思ってね」
まず「うまくいく」とは、彼とどんな状態になることなんだろう。
眉間にしわを寄せて首を傾げたシルキーに、ソリストは苦笑した。
「バイエルは癖のある子だから、苦労させてしまうと思う。つらいことはない?」
「いいえ」
二人で居ても一人で居るときと変わらないなら、苦労も何もないものだ。
「それは良かった。ところで、シルキー」
温室の高い天井から、ソリストの声がかき消されてしまうほどの打つような音が聞こえてきた。
雨だ。
しかもかなり強い雨のようだった。
ソリストは一瞬、温室の外に視線をやると、シルキーの腕をつかんで、ぐい、と自分のほうに引いた。
白の姫君の肩が、倒れこむようにソリストの胸にぶつかる。
そのままシルキーの小さな顔を長い指で包むようにして上向けると、ソリストはわずかに首を傾げるようにして自らの顔を寄せた。
(あ………)
触 レ テ シ マ ウ
鼓動をひときわ大きく痛く高鳴らせたのは、狂おしさか、誰かを裏切る恐怖か。
ああ、聞こえてくる……
鐘の音が———