第2話 獣と影
アルザス公爵家の白の姫君は、今にも消えてしまいそうな朝露を思わせる、無垢で可憐な容姿をしていた。
だがこの一見「薄幸の美少女」という言葉が似合いそうな少女は、幸か不幸か運動神経が天才的だった。
婚約者と二人きりの時間を、と周りが気をつかって用意した日には、白の姫君の大脱走劇が起きた。
屋敷の召使いだけでは捕まえることができず、アルザス家の私兵達まで全員出動した。
白の姫君ことシルキーがようやく御用になったのはもう日が傾いた頃で、バイエルが五杯目の紅茶を飲み終えた頃だった。
腕っぷしの強そうな大柄の男性二人に両腕をつかまれ、暴れながらの登場に、バイエルは言葉をなくしてしまった。
白い髪に木の葉をからませ、いからせた肩が荒れた息と共に上下する。
頬や腕や足には、小さなすり傷が見える。
ギラギラとした目がバイエルを見据えていた。
(……まるで手負いの獣だな)
さて、どうしたものか。
☆☆☆
ふいに伸ばされた彼の長い指に、シルキーはビクリと震えた。
ゆっくりと白い髪に絡んだ葉を取ると、バイエルはほんの僅か、シルキーの顔をのぞき込むように首を傾けた。
「……怪我は?」
———「お怪我は?」
同じ台詞なのに、ソリストの響きとはまるで違った。
ソリストの声はもっと低く、相手への気遣いに満ちている。
あの時のように胸が痛まない。心が弾まない。
バイエルは、表情を変えないままシルキーに尋ねた。
「そんなに兄上が好きですか」
その言葉に少し驚きながらも、シルキーはキッとバイエルをにらんだ。
「ええ、魅力的ですわ。貴方よりずっと」
ふっ。言ってやった。
侮辱を受けたと怒ればいいのだ。
「兄上は完璧ですから、理解できます」
(何とでも言えばいいわ! 誰も貴方に乙女心が理解できるなんて思わな……)
理解できる?
ソリストが好きでもいいということだろうか。
シルキーは混乱する。
確かめてみよう。
「私たち、婚約者同士、なのですよね」
「だと聞きましたが?」
「怒りませんの?」
「怒らなければいけない事でも?」
シルキーは、その言葉を聞いてようやく意味を理解したかのように、半分ほどまぶたを閉じるといびつな笑顔を浮かべた。
(どうでもいいのだわ)
バイエルにとってはシルキーが誰を好きかなど、気にする価値もないことなのだ。
「結構です。結構ですわ! 貴方がそのおつもりなら、私もどうでもいいですわ!」
尋ねかけるような視線を送るバイエルに遠慮なく、シルキーは言う。
「ずっとそうやって、ご立派な兄上の影で満足されていればいいわ! 私も、誰かについていくしか能の無い人間などに興味はございません!」
シルキーの白磁の肌が、たかぶった感情によって赤らむ。
「婚約も結婚も、好きにすればいいわ!」
(どうせ『嫌だ』と言っても、私達は結婚させられるんだから)
「周りに勝手に決められた結婚相手に、殿下もさぞやご不満でしょうね! 私のことなどお気になさらず、お好きな女性の元へどうぞ!」
皇子への不敬罪で裁かれるのなら、それでも良いとシルキーは思った。
(どうしてこんなパッとしない陰気な人が私の夫になるの?)
「私が貴方を好きになるなどありえません。でも安心なさって? 貴方がもし他の女性に走ったとしても気にしないし、それに気付かない妻のフリをしてあげるわ」
怒りに支配されたまま、シルキーはバイエルに言葉をぶつけた。
だから、バイエルがかすかに眉をひそめたことに彼女は気付かなかった。
「お互いにせいぜい、夫婦のフリを頑張りましょう? 貴方ごときに、私をどうこうできる訳ないのですから!」
捨て台詞にそう言うと、シルキーは扉を乱暴に開けて、体重を感じさせないしなやかな身のこなしで駆けていった。