第23話 娼妓オリヴィア
バイエルはシルキーの待つ屋敷には向かわず、単身、馬車で市街に向かった。
兄には妻の元へ帰るように言ったが、バイエルはバイエルで、ここ数日のあいだ自分の屋敷に帰れておらず、出先で休息を取る日々だ。
全軍の指揮を、と兄に伝えたのは、不測の事態が起きた時、オルヴェルの皇族が比較的動かしやすい近衛部隊の戦力では足りない恐れがあったからだ。
今回の貴族達の動きを見ると、それだけ大きな戦いが起きる可能性がある。
フィーネ誘拐事件の解決を、父である皇帝は兄のソリストに一任した。
だがバイエルは、既に事は兄一人の手に余る所まで進んでしまっていることに気付いていた。
どんなに兄が有能でも、身体は一つしかない。
確かに何をやるにしても、一人でまとめたほうが効率が良い。
だが父帝は、兄の限界をまるで考えていない。
通常の公務に加え、元老院の定例議会も近くに迫るこのタイミングでは、兄の負担は相当なもののはずだ。
バイエルは、個人的に調べたことを思い出していた。
シルキーに薬を盛ったと思われるメイドを取り逃がしたのは失態だったが、確信が持てた。
『彼ら』が何かを隠しているという事だ。
(『彼女』が何か知っていればいいが……)
前々回は、思いもかけぬ邪魔が入って探りを入れられないまま終わった。
そして前回は、運悪く彼女が店に居ない日だった。
女主人が言うには、今夜であれば彼女に会えるという。
御者はバイエルの指示通り、皇都の裏通りにある宿の前で馬車を止めた。
帽子を目深に被ったバイエルを、女主人は何もかも分かったような顔で店の中に通す。
「一番上のお部屋でございます」と店主は告げた。
きしむ階段を登り、あちこちから聞こえてくる嬌声を聞き流し、一つしかない四階の部屋の前で彼は立ち止まった。
「失礼する」
扉を開けると、部屋の奥の寝台に座っていた女性がゆっくり立ち上がって笑みをこぼした。
「あら……お久しぶりですわ、殿下。ひょっとして、奥様から屋敷を追い出されました?」
バイエルはそれには答えずに女に近づく。
「恐いお顔。先日はあんなに優しくしてくださったのに」
深酒をした夜、バイエルはこの女を呼び出した。
注意して動向を探っているある貴族と縁深いと思われる、彼女の正体を探る必要があった。
うさ晴らしをしたい気分だったのも確かだが、酔った振りをすれば相手の油断を誘えるとも踏んでいた。
好機だと思ったのだ。
シルキーが乱入してくるまでは、バイエルの理性はギリギリの線で保たれていて、計算の上で酔った演技ができていた。
それが『憂さ』を作ってくれた張本人のシルキーが現れたことで、理性のたがが弾けとんだのだ。
目の前の女を見ていると、あの夜に戻ったような不思議な感覚がする。
「ずぶ濡れの貴方の髪に触ったら、その私の手を握って、熱っぽい瞳で見つめてくれたわ」
自分の頬にバイエルの手を引き寄せて言うと、女は艶やかな笑みを浮かべた。
片手をバイエルの首の後ろに手を回すようにして、美しい肢体をぴたりと密着させて甘い声で囁く。
「あの宵の続きをご所望という訳ではないご様子……そう、殿下は私を殺しにいらっしゃったのね」
「場合によってはそうする」
バイエルがすばやく自分の首に回されてるほうの女の手首を掴んでひねると、カシャン、と硬質な音が部屋に響いた。
明らかに護身用とは思えない、刀身が三つくっついた奇妙な形のナイフが転がっている。
視線を床に落とした瞬間、視界の端で何かが光るのに気付いたバイエルはさっと体勢を低くした。
女の腕がさっきまでバイエルの頭があったあたりを乱暴に薙ぐ。
「お放し!」
手首を掴んだままのバイエルの手を狙って、ナイフが再度振り下ろされた。
懐から出した小振りの剣でこれを弾き落とすと、バイエルは相手の手首を引いて手近な壁に追い詰め、女の首に剣の刃を突き付けた。
「それ以上抵抗しないほうがいい」
オーバードレスの下に差し入れられた女の手をちらりと見て、バイエルは言った。
☆☆☆
感情にも呼吸にも一切の乱れがない第二皇子に、女は内心焦りを感じていた。
才能面では、兄皇子と違って凡人の域を出ない、取るに足らない弟皇子。
そう聞いていた。
だが凡人にしては、剣筋や身のこなしがそこらの訓練された暗殺者並みに優れている。
「誰の命令で皇都へ来た?」
バイエルが低く尋ねる。
「答えると思っておいでかい?」
心の内の動揺を隠し、あざけるように笑んで女は言った。
「では質問を変えよう。21年前、お前はロンド家に居たな?」
喉元に刃を突きつけられたような感覚がした。
息がわずかに乱れてしまったのを、バイエルは見逃してくれなかった。
蝶を針で縫いとめるように、バイエルの冷たい眼差しに貫かれる。
女は薄く笑った。
(ろくな人生じゃなかった)
子供の頃から、誰かに利用されて、誰かを利用して。
———(この子は、あたしと同じだ)
あのとき、“あの子”の行く末を考えると、ズキズキと胸が痛んだ。
同情じゃない。自己憐憫や自嘲に近い感情だった。
ろくでもない大人に振り回されて、人生を滅茶苦茶にされる。
(あたしは、何のために生まれ、生きてきたんだろう)




