第21話 差し障ることはない
ソリストがバイエルとの話も短く皇宮に帰り、夫婦の部屋に第二皇子夫妻が二人で取り残された頃。
シルキーは、こういう状態を、どんな状態と呼ぶのかやっと思い出した。
「頭が、真っ白だわ……」
ソファーの隣に座っていたバイエルが首を傾げた。
「前から白いが」
「髪の話じゃないの! 頭の中の話!」
シルキーは憤然としてソファーから立ち上がった。
「いいえそんなことはどうでもいいのよ! 今はフィーネ様だわ! そうよ、フィーネ様を連れ戻さないと!」
拳を勇ましく振り上げる。
「どうやって?」
夫の冷静すぎる一言に言葉が出なくなり、振り上げた拳もなさけなく緩むシルキー。
そのままうなだれ、小さくなってしょんぼり落ち込む。
バイエルはシルキーに薄い毛布をかけた。
「今夜はもう、寝たほうがいい」
「フィーネ様を見捨てるの?」
キッと睨んだシルキーを見つめ返し、バイエルは言い聞かせるようにゆっくり言った。
「機を見ろと言っているだけだ。敵の狙いを考えれば、フィーネの身の安全は保証されている。それに、今がむしゃらに動き回っても体力の無駄だ。分かるだろう?」
バイエルはシルキーの腕を支えるようにして立たせると、そのまま背中に手を添えて寝台に連れていく。
シルキーは、何となくバイエルが深酒をした夜のことを思い出した。
あの時は寝台に突き飛ばされたのに、今日は大違いだ。
寝台に入りながら、シルキーはバイエルと自然な感じに目を合わせた。
「ねぇ、まだ私が何の薬を飲んだのか教えてもらってない」
バイエルの瞳にわずかな間浮かんだ焦りの色を、シルキーは見逃さなかった。
「どうして教えてくれないの?」
バイエルはシルキーの髪を撫でると、涼しげな目元をぎこちなく緩ませる。
これは、彼のどんな感情を反映した顔なのだろう。
悲しげで寂しげで、そして少し困ったような、あやすような優しさが彼の眼差しに滲んでいる。
「……俺たちに差し障ることはない」
嘘だ。
(私が水を飲んだと知って、あんなに驚いてたのに?)
あの時、夫は動揺した。
(それに、『俺たちに』ってことは……)
そこが引っかかるのは、勘ぐりすぎなのか。
すっ、とバイエルが寝台の傍から離れる気配がした。
「少し調べたいことがある。部屋の外に衛兵を待機させておくから、何か用がある時は声をかけろ」
言いながら、バイエルは外套を羽織る。
「待って。……一緒に寝ないの?」
シルキーはこの部屋に一人残されるのかと思うと、急に不安になった。
バイエルは身支度の手を止め、やや驚いた様子でシルキーに目をやる。
「一緒に寝てほしいのか?」
「……どちらかと言えば」
バイエルは小さく吹き出した。
「もう少し大人っぽく誘えるようになったらな」
彼にしては珍しく冗談めいた口調である。
「大人っぽく?」
怪訝な顔をしたシルキーに、バイエルは最後に意地悪そうに笑んだ。
「いや、やっぱりいい。どうせお前には無理だし、期待もしない。おやすみ」
言うが早いか、バイエルは颯爽と部屋から出て行った。
あまりの言われように、シルキーは母親から送られてきた甘ったるい恋愛小説達を読まずに小部屋に封印したことを後悔した。
『転生した庭師、気まぐれに伯爵様を籠絡してみました』『聖女のための偏屈皇子殿下からの愛され指南書』などのタイトルもあったし、あれでも読まないよりはマシだったかもしれない。
(これでも、勇気を出して言ってみたのに)
シルキーはぶすくれた。
やっぱりバイエルは色気たっぷりの大人の女性が好きなのだろうか。
頭の中をちらつくのはバイエルにしなだれかかっていた謎の女性だ。
(まさか)
その可能性に思い至って、シルキーの胸は鋭く痛んだ。
(今夜も、あの人と?)
『俺達に差し障ることはない』という夫の声が、ぐるぐると何度も耳の奥で再生される。
「……ふ……っ」
胸に込み上げてくるのが一体何の感情なのか分からないまま、シルキーは涙をこぼした。
シルキーはしばらくの間、はけ口をなくした鬱憤を寝台のクッションをボスボスと殴ることで晴らしていたが、その内疲れと眠気が大きくなり、やがて深い深い眠りに落ちていった。
作中本『転生した庭師、気まぐれに伯爵様を籠絡してみました』を短編で書き上げました。
タイトルが少し変わっておりますが、よろしければこちらもどうぞ。
『導きましょう、死の運命から幼馴染を救う婚約破棄を〜転生した庭師、気まぐれに伯爵様を籠絡してみました〜』
https://ncode.syosetu.com/n7935ky/




