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第11話 秘めごとは薔薇園で

 シルキーがソリストに温室に呼び出された夜のこと———。


 口付けをされるかと思った。


 夜の雨の中、鳥籠のような温室の空間だけが切り取られたかのように異色で、その中で息がかかるほどの近さで自分達は見つめ合っていた。

 あれからどれだけ経ったか。


 ソリストはシルキーの頭を抱え込んだまま考え込むように動かない。

 合わせただけの視線。ソリストのまるで何も語りかけてこない藍色の瞳を、シルキーは逃れようもなくただ呆然と見つめていた。


 痛いほどの勢いで脈打つ心臓。

 上手く呼吸ができない。

 今声を出せば、きっと裏返る。


「さて……このくらいでいいかな」

 そう囁いて、ソリストはシルキーから身体を離した。

「びっくりさせてごめんね。奥に紅茶とお菓子を用意してある。一緒にどうかな?」


 ソリストは親しみをこめた笑顔をシルキーに向け、手を差し伸べた。

 シルキーは恐る恐るといった様子で、ソリストの手に自分の手を重ねる。


 シルキーがゆっくりと奥にエスコートされて引かれた椅子に座ると、ソリストは紅茶を淹れ始める。

 立ちのぼる湯気だけがとても現実的だった。

 他は何もかも夢のようだ。


 自分とソリストが二人きりで紅茶を飲むなんて。

 ソリストはシルキーの前にカップを置くと、向かいに座って、ふと慈しむような微笑を浮かべた。

 その笑顔に見惚れていると、ソリストが少し下方に視線をはずした。


「昨日ね、フーガが初めて『父様』って呼んでくれたんだ」


 ハッとシャボン玉が弾けるようにシルキーの夢が終わった。

 フーガは数年前に生まれたソリストとカトレアの息子だ。


 ソリストは紅茶をひとくち喉に通すと、再び瞳を細めてシルキーを見つめる。

「もし僕に娘が生まれたら、いつかこうして一緒にお茶を飲む日が来るのかな。君と居ると、そんな楽しい想像ができる」


 暗に自分が娘のような存在だと言われた気がして、シルキーは複雑な気分になった。

 彼の中の自分は、もはや妹でもないのか。

 ソリストは足を組んだ。

 物憂げに瞳が揺れる。


「子供のために親ができることも、弟のために兄ができることも限られている。……そうだシルキー、聞いてくれるかな。バイエルの小さい頃の話だ」

 シルキーは首を傾げた。

 ソリストが何を考えているのか読めない。


「……興味ない?」

 ソリストは困った顔すら芸術品のような風雅さだ。

 シルキーは気まぐれに話を聞いてもいいかと思った。

「聞きます」


 彼はもう一口、紅茶を飲んで微笑むと、ゆっくり話し出した。


「バイエルが7歳の頃、夏の1ヶ月を西の離宮で過ごしたんだ。バイエルは人懐っこくて、よく笑う子だった」


 人懐っこい夫。さっそく想像できない。

 シルキーは困った。

 ソリストはシルキーを見て少し笑い、話を続けた。


「ある日、離宮の中庭に猫が迷いこんできてね。バイエルはその子をいたく気に入って、仲良くなろうと毎日エサを持って会いに行った。猫の方も物怖じしない性格でバイエルに懐いて、よく一緒に遊んでいたよ」


「……猫?」

「うん。ちょうど君の髪のような、白くて綺麗な毛並みの子だった。バイエルの膝の上で丸くなって寝るのが好きでね。バイエルはよく、動けなくなって困っていた」


 ソリストはそこで一旦、言葉を選ぶように間を置いた。

「でもしばらくして、猫はバイエルの目の前で血を吐いて死んだ。餌の中に毒が混ぜられていたんだ」


 シルキーは紅茶の入ったカップを取り落としそうになった。

「なぜ、誰が……?」

 シルキーのつぶやきに、ソリストは目を伏せる。


「犯人が誰かはまだ分かっていない。離宮で起きた事件とはいえ、野良猫1匹殺されたくらいでは誰も動かない。犯人もそれを知っていてやったんだろうね」

 誰かが大切にしているものを壊したくなる人間は居る、とソリストは言い添えた。


「たかが野良猫1匹。それでも無垢な子供の心を壊すには十分な事件だった」

 ソリストは紅茶に視線を落として、小さなため息をつく。

「あの子のせいではなかったんだけどね」


 その言葉で、シルキーは幼いバイエルの後悔に気付いた。

 自分が与えていた餌のせいで、可愛がっていた猫が死んだ。

 簡単に想像できる。

 バイエルは何度も自分を責めただろう。


「冷たい子だと思わないでほしい。あの子は他人の悪意が、自分の周囲に向けられるのを何より恐れている。何を前にしても執着するそぶりを見せないだろう?」


 シルキーはバイエルの無頓着な眼差しを思い出して、「はい」と答えた。

(想像もしてなかった)

 冷たいと思ったバイエルの態度の裏に、理由があるなどと。


「失いたくない大切な存在こそ、バイエルは、あえて見ないようにする。触れることを躊躇う。人の目がある場所なら尚のこと、興味が無いように取り繕う」

 シルキーはハッとする。

 ここに来る前、夫は……バイエルは、どんな態度だった?


 沢山の人に見守られた婚礼の儀の口付けの時、彼は……———


「シルキー。良いことを教えてあげよう」

 ソリストはティーカップをテーブルの上に置くと、いたずらっぽく瞳を輝かせた。


「周りが思う以上に、バイエルは頼れる子だよ。でも、あの子自身が自分の力を信じていない。だから……これは、お願いに近いのかもしれないな」

「?」


「バイエルの力を誰より強く信じてあげてほしい。誰が否定をしても、君だけはバイエルのそばで、あの子の自信になってあげてほしい」

 ソリストはテーブルの上に身を乗り出すようにして、シルキーの頭をポンポンと軽く撫でるように叩いた。


「……幸せになってもらいたいよ。バイエルにも、君にもね」

 席を立つと、彼は薔薇園の入り口の扉の方に歩いていく。


(終わってしまった)と、シルキーは思った。

 憑き物祓いをされたように、心から剥がれていったものの正体は。

 ソリストが扉を開けると、雨の音が強くなった。


 夢の時間は終わり、現実がまた始まる。

 シルキーは思い出したように椅子から立ち上がった。

 広間に戻らなければ。


 待っている人がいるのだ。

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