第10話 焦がれたぬくもり
シルキーは、バイエルの姿に言葉をなくしていた。
濡れたシャツが何とも寒そうだ。
バイエルはグラスにワインを注ぐと一気に飲み干した。
そしてまたグラスに注ごうとするので、さすがにシルキーは燭台を置いて止めに入った。
床に転がるワインの瓶の数からして、既にかなり飲んでいるはずだ。
「飲んでいないと寒いんだ。邪魔をするな」
バイエルの手がシルキーの手を払う。
反射的に、シルキーは自分の手を払ったバイエルの手をそのまま抱え込むと、その腕に噛み付いた。
「つっ……! ……この……獣が……っ」
バイエルが驚いてグラスを放したので、シルキーはその隙にグラスを掴んで中のものを飲み干した。
普段好んで飲まないアルコールの味は、やはり全く美味しくない。
でも、それどころじゃない。
テーブルにグラスを叩きつけるように置いて、シルキーは言い放つ。
「何度でも注げばいい。何度でも飲み干してあげる」
バイエルの瞳に、剣呑な光が宿る。
「……お前が、あの女の代わりに俺の相手をすると?」
バイエルは椅子から立ち上がると、シルキーの肩を強く掴んだ。
たたらを踏むようにシルキーがよろめく。
そのまま、バイエルは寝台にシルキーを突き飛ばした。
すぐさま起き上がろうとしたシルキーに覆いかぶさるように、バイエルは寝台に足をかけ、首に巻いたクラバットを緩めた。
暴れようとしたシルキーの腕が即座に押さえつけられる。
混乱する頭の中で、どこか冷静に、彼のどこにこんな力があったのかとシルキーは考えていた。
貧弱で物静かな第二皇子。
先日、バイエルに腕をつかまれた時だって、難なく扇で打ち落とせた。
しかし今は扇を出そうにも、バイエルの手がそれを許さない。
隙がない。
少なくとも自分は、彼より運動神経が優れている自信があったし、力は無くとも素早さで自分に勝てる者は居なかった。
いや、腕力にも実はちょっとだけ自信があった。
腐っても夫は男性ということか、それとも……?
「どうすることもできる」
その呟きが落ちてきた時、シルキーは弾かれたようにバイエルと視線を合わせた。
———『お互いにせいぜい、夫婦のフリを頑張りましょう? 貴方ごときに、私をどうこうできる訳ないのですから!』
それは、シルキーが前にバイエルにぶつけた言葉だ。
見開かれたシルキーの白銀の瞳が燃えるような怒りをたたえていた。
その怒りのままに腕や足に渾身の力を込めるが、おかしいほど動かない。
シルキーはどんどん混乱し始めた。
(頭が回らない)
周囲に満ちた酒と甘ったるい香りも、正常な思考の邪魔をしてくる。
(嫌だ)
嫌だ、いやだ!
自分の意思を無視されるのも、誰かから自分の身体を物のように扱われるのも、許しがたい屈辱だ。
だが暴れようとしても自分を押さえつけている相手の腕の力が弱まることはない。
バイエルは体温を感じさせない瞳で、もがき続けるシルキーを見下ろしていた。
その内にシルキーはだんだん息があがってきて、乱れた呼吸のせいで視界がかすんでくる。
思い切り息を吸い込むと、甘い香りが頭の奥まで浸透してしまった感覚がした。
気分がふわふわしてきて、全てがどうでもよくなってしまう。
酔いが回ってきたのか、こわばらせていた身体から力が抜けていく。
理性は抵抗を続けよと叫んでいたが、その声も遠く、おぼろげになっていく。
シルキーはどうして自分が暴れていたのか、やがて分からなくなった。
(ここは……)
そういえば、この人は誰だろう。
金色の髪と藍色の瞳。甘く整った顔立ち。
薔薇の香りがする。
そう、自分は薔薇の温室に向かったのだ。
それで。
『誰が否定をしても、君だけは……———』
ああ、そうか。『彼』だ。
頭の横に肘をつかれ、冷たい唇が自分の額や頬をかすめるようにしてたどる。
くすぐったい。
「シルキー」
耳元で囁かれたその声は、もうバイエルの声には聞こえなかった。
シルキーは相手を見上げて、ほのかに微笑んだ。
「はい……ソリスト様……」
桃色の小さな唇に触れかけた彼の唇が止まり、少し離れる。
シルキーは、相手が苦しそうな顔をしたのが不思議に思えた。
だがそれも束の間、夢心地の暖かさの中、くらくらと視界が揺れてくる。
引きずり込まれるように、意識がはるか深淵へと沈んでいく。
『彼』は、シルキーの髪を撫でるように一度だけ梳くと、音も無く寝台から降り、部屋から出て行った。