第9話 美女と白猫の闘い
部屋は暗く、むせるような甘い香りがした。
その香りに眉をひそめて口元を袖で覆いながら、暗闇にほんのわずかな光を与えている蝋燭に近づく。
寝台の横に置かれたテーブル。その上で揺れる蝋燭の炎。
外の雨の音は、更に大きくなる。
蝋燭の炎がゆらりと揺れた。
人が居る。一人。
いや、二人。
そう認めたとき、シルキーの顔の横を何かが飛んでいった。
直後、ガラスが割れるような音。
シルキーのぼんやりしていた頭が一気に冴える。
振り返ると、ワイングラスらしき物がシルキーの背後の扉に当たり粉々になっていた。
「……来るな」
聞いたこともないような夫の低い声が耳に届いた。
ようやく夜目に慣れたとき、椅子に座る彼と、彼の隣にいる女性に気がつく。
胸元が大きくはだけたドレスを着た、口元にほくろのある豊満な美女だった。
蝋燭に照らされた口紅がなまめかしく光っている。
どういうことなのか理解するのに時間はかからなかった。
シルキーだって馬鹿ではない。
白銀の瞳が、はっきりした怒りの感情を宿して鋭くなった。
しかし美女のほうは挑戦的な眼差しでシルキーを見返すと、隣のバイエルにしなだれかかった。
「殿下は来るな、と仰ってますわ。奥様、“妻のお仕事”は私に任せて、ゆっくりおやすみください」
扇情的な声で、だが敵意を隠そうともせずに彼女は言った。
シルキーは勇気を振り絞って、はっきり言った。
「出ていくのは貴女よ」
「奥様……殿下は毎日、奥様の子守りで疲れてらっしゃるの。大人の癒しを必要とされてるんですのよ? 奥様では……ねえ?」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように、微笑みながらゆっくりと彼女は言う。
暗に、自分の見た目の子供っぽさをあげつらわれているようでシルキーは唇を噛んだ。
「愛人は許すんじゃなかったのか」
バイエルが低い声で問う。
「……………たった今」
シルキーも低い声で答えた。
「気が変わったの」
豊満な美女は傍らのバイエルの頬から首、そして胸に手を滑らせた。夫の肌をなぞる他人の指の官能的な動きに、シルキーの肌は総毛立つ。
(気持ち悪い)
「お子様に何ができると言うの? お寂しい殿下を放って、奥様は一体何をなさっていたのかしら?」
美女はシルキーの目の前で、見せつけるようにバイエルに唇を近づけた。バイエルは全く抵抗しない。
二人の唇が触れ合おうとしたその時。
シルキーの頬が屈辱と怒りでカッと赤く染まった。
「出ていって」
思いがけず、シルキーの声は絞り出すような弱弱しい声になってしまった。
美女は鬱陶しそうにため息をつく。
「まだお分かりになりませんか? 殿下は奥様ではなく私を今夜の相手にお選びに……」
バイエルに寄り添う美女の言葉はそこで止まった。
シルキーが跳ぶように二人の座るテーブルに近づき、燭台を片手に、もう片方の手で美女の髪を掴んでいた。
「今すぐ出ていって。じゃないと、この髪も下品なドレスも燃やすわよ」
狂気をはらんだシルキーの瞳に美女は凍りついたようだった。
震えるように椅子から立ち上がると、鼻息を荒くして走り出ていった。
乱暴に扉の閉まる音がする。
「貴方は」
シルキーが燭台の蝋燭でバイエルの姿を照らす。
椅子に座り足を組んだ姿勢の彼は、悠然とした様子でシルキーを見上げていた。
「何をしてるの?」
息を呑む。
シルキーには今度こそ、訳が分からなかった。
彼の金色の髪から、ポタリと雫が落ちる。
部屋が薄暗いせいで、近付かないと分からなかった。
この寒い夜に暖炉に火もくべずに、バイエルは全身濡れた状態で部屋の中に居たのだ。