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決して正体は明かすな

 春を知らせる白木蓮が、今年も庭の奥で静かに咲いている。


 窓に映る、そのふわふわと綿菓子みたいな花にちらりと目をやって、私は父の執務室の扉をノックした。


「……入りなさい」


 低く響く声に小さく深呼吸してから、私は音を立てないようにそっと扉を開けた。


 執務室の中は、いつも通りきっちり整えられていて、デザインになんの面白みもない、つるりとした真鍮の香炉が、棚の上でほのかに煙を上げている。


 父は机に向かい、書類に目を落としたまま、顔を上げようともしなかった。 


「……話があるの」


 そう告げると、ようやく父の視線が私に向けられた。


「聞こう」


 ぴくりと眉を上げて小さく頷くと、父は手にしていたペンを静かに机に置き、指を軽く組む。鋭い眼光がまっすぐ私をとらえた。


 私は思わずスカートをぎゅっと握る。これから話すことを、父がどんな顔で受け止めるのか──想像するだけで胃がきりきりする。でも、これだけはどうしても譲れなかった。こくりと小さく私の喉が鳴る。


「店を持ちたいの」


 自分の声が思ってたよりずっと小さくて、慌てて言い直す。


「小さな店でいいの。便箋とか、ペンやインクを置いて……もし必要とされれば、手紙の代筆や、書き方を教えたりもできるような……そんなお店」


 言葉をひとつ置くたびに、胸の奥がトクンと跳ねる。何かを願うことって、こんなにも勇気がいるんだ。しかもそれが、令嬢としては決して望むべきではないことなら、なおさら。


 父はずっと無言だった。まるでこちらの真意を測るように、視線だけが鋭くこちらを貫いている。 


「伯爵令嬢が、働きに出たいと?」


 父の表情は変わらない。感情の読めない、無機質な声が、部屋の空気をひときわ冷たくする。


「はい。……この国の手紙文化は、本当に素敵なものだと思うの。だから、私にできる形で、誰かの想いに寄り添いたいなって」


 私は父の目をまっすぐ見つめた。絶対に逸らすもんか。逸らしたら負けだ。


 執務室の棚に置かれた、マホガニー材の置き時計。その針の音が、カチ、カチと、やけに耳につく。


 しばらく沈黙が続いたのち、父は小さくため息をつき、ピシャリと告げた。


「認められんな。伯爵家の娘が市井で働くなんて前代未聞だ。どんな後ろ指をさされるかわからん。クローデル家の品位をみずから落とすつもりか?」


 それだけ言い捨てると、「話は終わりだ」とでも言うように、再びペンを手に取り、執務に戻ろうとした。


 でも──それでも私は、諦めなかった。ずっとやりたかったことに、やっと手が届きそうなのだ。ここで「はい、そうですか」と、すごすごと引き下がるなんて、できるわけがない。


 私は持ってきていた革の書類ケースをそっと抱え直し、一歩、机に近づく。


「……見てほしいものがあるの」


 そう言って、静かにケースの蓋を開ける。中には、私がこの日のために用意した便箋の試作品がいくつか。淡い花模様を縁取ったもの、香り付きのもの、優しいインクのにじみが浮かぶもの。どれも心をこめて考え抜いたデザインだった。


 父はちらりと視線を寄越したが、またすぐにペンを動かし始める。


「……お願い。お父様がだめだって言うなら、諦める。でも、まずは、見て」


 私はケースから花模様の便箋を取り出して、そっと父の机に差し出した。


「この国は、手紙文化がこんなに豊かなのに、便箋やカードの選択肢が少なすぎると思うの。色を選ぶくらいしかできないなんて、つまらないと思わない?」


 次に、香り付きの便箋を取り出して、花模様の隣に並べる。その際もちろん、香りが父に届くように、ふわりと便箋をしならせることも忘れない。


「愛を伝える手紙から、ふわっと甘い香りがしたら、成功率が上がるんじゃないかしら」


 そのとき、机の向こうで父のペンの動きがぴたりと止まった。


(……よし、あと一息)


 そう直感した私は、少しだけ緊張を緩めて、最後の便箋を取り出す。 


「これは、にじませたインクがほわっと広がるようなデザインなの。まるで心の温度まで伝えられるような気がするでしょ」 


 宝物を並べるように三枚目の便箋をふわりと机に置く。そのままそっと息を吐いて、私は静かに父の反応を待った。


 しんと静まり返った執務室の中で、父の手は完全に止まっていた。不機嫌にも見える厳しい顔で、腕を組み、視線は机の上に並べられた三枚の便箋から動かない。


 やがて、静かな声が落ちる。


「……これは、お前が考えたのか?」


 私はこくりと頷いた。息を呑むような沈黙のあと、父は静かに口を開く。


「……悪くない」


 その声は、机の上の便箋に向けたまま、ぽつりと落ちた。まるで独り言のような呟きだったが、それでも、私の胸にぽわっと小さな火が灯る。


 けれど、すぐにその火は、父の冷たい一言にかき消された。


「だが、クローデル家の娘として市井に出ることは許さん」


 父の視線が、はっきりと私をとらえた。その瞳には、娘への情ではなく、家の当主としての冷厳な光が宿っている。


「決して正体を明かすな。クローデル家の名を出すことも認めん。それができぬなら、店を持つなど許さん」


 その言葉とともに、再び父のペンが静かに動き出す。


 それ以上、私の言葉を聞くつもりはないということだった。  

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