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伯爵令嬢、変装して夢を追う

「……いよいよ今日がオープンですね、ミリアンヌ様のお店」


 鏡越しに視線が合うと、サラはどこかうっとりしたような顔で、感慨深げにつぶやいた。

 とはいえ、その間も私の髪を編むその指先は、相変わらず機械のように正確で、寸分の狂いもない。さすがだなと、毎回ちょっとだけ感心してしまう。


 彼女は、私の専属侍女。いつでも冷静なしっかり者だけど、私にはとことん甘い。そんな頼もしすぎる人で──私がこの世界で一番、信頼している人でもある。


 私より二つ年上の彼女は、ちょっと口うるさいけど、頼れるお姉さんみたいな存在だ。


「緊張してます?」


 サラが小さく首を傾げると、肩で切り揃えられた彼女の黒髪がさらりと揺れた。


「少しだけね。でも、楽しみのほうが大きいかも」


 そう言って、鏡越しではなく、ちゃんとサラを振り返ってにこっと笑う。


 それは紛れもない本音だった。だって、ずっと夢見ていたことが、やっと叶うんだから。嬉しくないわけがない。


 今日、私は街の片隅に、小さなお店を開く。便箋とかペンとか、「誰かに想いを届けるための道具」を揃えたお店。……なんて言ったら大げさだけど、要するに、私の「好きな物」を詰め込んだ、ちいさな夢のかたまりだ。


「それにしても……」


 背後から、ぽつりと声が漏れる。


「最初に『お店をやる』って聞いたときは、耳を疑いましたよ。まさか本気だったとは……いや、今でもちょっと信じてませんけど」 


 サラは切れ長の瞳をふっと細めると、呆れたように少し遠くを見つめた。 


「……まあ、普通はそうよね。伯爵令嬢が『働く』なんて、社交界じゃ噂になるどころじゃすまないもの」


 私は苦笑して、肩をすくめてみせる。


 でも、私は所謂「普通」の令嬢じゃない。なぜなら、私は生まれたときから、前の人生の記憶を持っていたから。




 私はここではない世界の、日本という国で、ごく普通の本屋の店員をしていた。毎日せっせと本を並べて、時々お客さんにおすすめを聞かれたりして。静かだけど、幸せな日々だった。


 そして前世の私は、文房具がとにかく好きだった。きれいな便箋、さらさら書けるペン、インクの色のわずかな違いに一喜一憂して。ノートにちまちまと感想を書いたり、お気に入りの文具を紹介するブログを細々と続けたりしていた。誰に頼まれたわけでもないけれど、それがすごく楽しくて、自分だけの小さな世界だった。


 たぶん、私は二十五歳くらいで若くして死んだのだと思う。はっきりとは覚えていないけれど、それより先の記憶はないから。


 だからなのかもしれない。あの頃の好きなもの、嬉しかったこと、胸が温かくなった瞬間を、今の私もずっと手放せないままでいる。


 この世界で生まれてから、何度も思った。便箋ひとつ、インクひとつにしても、選択肢が少なすぎる。こんなに手紙文化が根づいている国なんだから、みんなもっと、自分らしく想いを届けられたらいいのにって。


(だから、決めたの。この手で作るって。この世界の手紙文化に、私なりの形で関わっていくって) 


 というわけで、私は文具と便箋の店を開くことにした。


 名前は『ことのは堂』。

 今日から私は、その小さな店の店主になる。  




「でも本当に、よくあの旦那様がお許しになりましたね」


 いつの間にか、サラによる支度は終わっていたようだ。私の真後ろに立ったサラが、鏡越しに真っ直ぐ私を見つめている。


「……許してないから、今こんな姿になってるんじゃないかしら?」


 少し皮肉っぽくそう言って、私はグイッと身を乗り出すと、鏡の中の自分をまじまじと見つめた。


「すごいわ、サラ。このそばかす、まるで最初からあったみたい。髪だって、こんなにきっちり三つ編みにしてくれて。……この分厚いメガネなんて、もはや顔の一部ね」


 ふと視線を横にずらすと、鏡台のそばに置かれたコート掛けが目に入った。そこには、光沢ひとつない、質素な茶色のローブが掛けられている。脚に彫刻が施された豪奢な白木の鏡台とは対照的な、地味で目立たない布地。けれど、それこそが、今日から市井で店主となる私には必要なものだった。 


「このローブのフードを被れば、パッと見じゃ私だって気づかないわね」


 イタズラを企む子どものように浮かれている私を横目に、サラは大きくため息をつく。


「まったく……『クローデル家の秘蔵の至宝』が、そばかす三つ編みとは……罪深い」


 口調は呆れ気味でも、その声音にはどこか慈しむような響きがあった。


「そんな事をなさってると、ますます婚期が遠のきますよ」


 しれっとした顔で言われて、私は思わず「うぐっ」と言葉を詰まらせる。


「……それは、もう何年も前から覚悟してるわ」


 十八にもなれば、そろそろ縁談がどうのと言われる年頃だ。でも、恋愛にも結婚にも、これっぽっちも興味がない。  


 私は一応、社交界には出たことがある。デビュタントとして舞踏会に出席し、何人かの青年と挨拶を交わし、形式通りの微笑みを浮かべて。


 でも、その後すぐに、体調不良を理由に引きこもった。実際にどこか悪かったわけじゃない。ただ──あの世界は、前世の記憶を持つ私には、どうにも息が詰まるだけだった。


 それ以来、屋敷の外ではほとんど姿を見せていないからか、世間では面白おかしく「クローデル家の秘蔵の至宝」なんて呼ばれているらしい。……なんとも気恥ずかしい話だけれど。


 でも、だからこそ、時間ができた。好きな紙を集めて、万年筆の書き心地を比べて、便箋のデザインを考えて。ときには職人さんにお願いして、試作をつくってもらうこともあった。そうやって集めた「好きなもの」が、私の背中を押してくれた。 


「……まあ、とにかく」


 サラが両手で私の肩をポンっと叩いた。


「旦那様とのお約束、お忘れなきようお願いしますね」


 くるりと踵を返すと、サラは「馬車の手配をしてまいります」とだけ残し、さっさと部屋を出ていった。

 ぱたん、と扉が閉まる音がして、部屋に再び静けさが戻る。


 私はそっと鏡の中の自分に目をやった。

 そばかすメイクに三つ編み、分厚い眼鏡……そして、あの地味なローブを羽織れば、どこをどう見ても伯爵令嬢には見えない。 


「……旦那様とのお約束、ね」


 ぽつりとつぶやくその言葉に、自然と父の顔が思い浮かぶ。


 もちろん、「旦那様」とは、私のお父様──クローデル伯爵のこと。厳格で、無駄のない所作で、常に家の名誉を第一に考える人。 


 そんな父に、「お店を開きたい」と私が切り出したのは、ほんの数ヶ月前のことだった。



 あの日の、執務室でのやりとりは、今でも忘れられない。


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