先行者のカルテ
第五章:デジタルの残響
1 先行者のカルテ
部屋に戻り、改めて記事を読み返す。『Mika@DTM』というハンドルネーム。DTMは「デスクトップミュージック」の略だ。音楽制作者に違いない。そして、19Hzの超低周波。そんな専門的な知識、普通の人間が持っているはずがない。この投稿者は、音のプロだ。
美咲は、そのハンドルネームを新たなキーワードに、検索範囲をSNSにまで広げた。幸いなことに、『Mika』はあまりネットリテラシーが高い方ではなかったらしい。あるいは、自分の知識をひけらかしたいという承認欲求が強かったのか。いくつかのサウンドクリエイター系のコミュニティサイトで、同じハンドルネームのアカウントがすぐに見つかった。プロフィール欄には、あの専門学校の名前が堂々と書かれていた。
そのアカウントのページを、美咲は息を詰めて追った。 そこには、才能ある若者の、希望と苦悩に満ちた日常が、生々しく綴られていた。 『ミカ』は、ただ音響を学ぶ学生ではなく、「ゲームや映画の恐怖シーンの効果音を制作する、サウンドデザイナーの卵」だったのだ。「いかにリアルな絶叫をシンセサイザーで作るか」「人を不安にさせる不協和音の作り方」「サブリミナル効果を応用した音響デザイン」といった、専門的で、禍々しい探求の跡が、投稿の端々から見て取れた。彼女がアップロードした自作の音源を再生してみると、それは聞いているだけで気分が悪くなるような、不気味なノイズと不協和音の塊だった。
しかし、その一方で、「今日も一日誰とも話さなかった」「コンクールのプレッシャーで吐きそう」「私の作る音は、誰も理解してくれない」といった、孤独や不安を吐露する投稿も散見された。
ミカのアカウントを読み進めるうち、美咲はWebデザイナーとしての職業的な癖から、奇妙な違和感に気づいた。一見、何の変哲もない個人のSNSページに見える。だが、好奇心からブラウザの開発者ツールを起動し、そのページのHTMLソースコードを覗いてみた瞬間、彼女は凍り付いた。 特定の単語、例えば「壁」「音」「土」「孤独」といった言葉に、通常は使われることのない、不可視のカスタムデータ属性が大量に埋め込まれていたのだ。それはまるで、人間には見えない形で、特定の情報を強調し、分類しているかのようだった。
(何これ…?人間のためのデザインじゃない。まるで、何か別のものが、情報を収集・整理しているみたい…)
そのコードは、ウェブサイトというよりは、データベースのログに近かった。このページは、ミカが自分の日常を記録すると同時に、何か得体の知れない存在が、彼女の「孤独」や「恐怖」をデータとして蓄積するための、インターフェースとして機能していたのではないか。 そのおぞましい可能性に、美咲は吐き気を催した。
そして、そのアカウントの投稿が、ある時期から劇的に変化していく様を、美咲は時間を忘れて読み進めた。その日付は、美咲がこの部屋に入居する約四ヶ月前のものだった。
『ついに念願の一人暮らし!学校の近くに、安くていい部屋見つけた。コーポ・ソレイユって名前、ちょっとダサいけど(笑)』
『この部屋、壁、薄いのかな。隣、誰もいないはずなのに、夜になると変な音がするんだけど。カリカリって、爪で引っ掻くみたいな音』
『管理会社に言っても、相手にしてくれない。頭おかしい人だと思われたっぽい。最悪。でも、絶対気のせいじゃない。この音、ただの物音じゃない。指向性がある』
『匂いがきつい。カビ?土?何の匂いだろう。芳香剤置いても全然消えない。むしろ混じって最悪の匂いになってる』
ミカの記録を読みながら、美咲は自分の体験と比較していた。ミカが体験したのは、物理的な物音や匂い、家具の移動といった、比較的単純なポルターガイスト現象に近い。しかし、自分が体験している「キーボード音のリアルタイムな模倣」や「ブラウザの自動起動」といった、より知的で、こちらの行動に直接干渉してくる現象は、ミカの記録には見当たらない。
(私の時に起きていることの方が、より悪質になっている…?まるで、ミカの時よりも…)
その思考は、不気味な仮説の芽を、彼女の心に植え付けた。
投稿は、日を追うごとに切迫感を増していく。
『まじで無理。眠れない。誰か助けて。壁の向こうに誰かいる。これは、音じゃない。生きてる。ゆるして』
その投稿を最後に、アカウントの更新は途絶えていた。