見えざる枷(かせ)
第二部:狂気への傾斜
第四章:閉ざされた世界
1 見えざる枷
警察という最後の砦にも見放され、美咲は完全な孤立無援を突きつけられた。世界が、自分と、この得体の知れない部屋だけを残して、遠ざかっていくような感覚だった。もはや、外に出る気力も湧かなかった。食事はデリバリーサービスに頼り、日に日に増えていく空の容器が、部屋の隅に小さな山を築いていく。スーパーへ行くことさえ億劫だった。一度だけ、意を決して近所のスーパーへ買い物に出かけたことがある。しかし、野菜売り場でトマトを手に取った瞬間、すれ違った老婆の顔が、一瞬だけ、あの壁の染みと重なって見えたのだ。皺の刻まれた顔が、ぐにゃりと歪み、自分を嘲笑っている。思わず小さな悲鳴を上げてトマトを落とし、他の買い物客から不審な目で見られて以来、彼女は人と顔を合わせること自体を避けるようになっていた。
ある朝、ベランダに出た美咲は、言葉を失った。心の拠り所としていたハーブの鉢植えが、すべて根元から引き抜かれ、土が滅茶苦茶に掘り返されていたのだ。誰が、何のために。外部からの物理的な侵入と干渉。その事実は、彼女の恐怖を「内的な幻聴」から「実体を伴う明確な脅威」へと質的に変化させた。(このままでは、次は自分自身が引き抜かれる)。その本能的な恐怖が、彼女を思考の迷宮へとさらに深く沈めていった。
窓の外の天気さえ、どうでもよくなっていた。カーテンは一日中閉め切られ、部屋の中は、昼も夜も、同じ薄暗い光に満たされていた。PCモニターの光だけが、洞窟の奥で燃える鬼火のように、青白く揺らめいている。
時折、彼女は自分が「暗く、冷たく、湿った土の中で、身動きが取れずに息苦しさに喘いでいる」悪夢にうなされた。手足を動かしようとしても、土の重圧で動けず、誰かに助けを求めて叫ぼうとしても、口の中に泥が流れ込んできて声にならない。その夢から覚めると、全身が汗でぐっしょりと濡れており、シーツからは、あの湿った土の匂いがした。夢と現実の境界が、少しずつ曖昧になっていく。
ここから逃げ出すべきだ。頭では、痛いほど分かっていた。 しかし、彼女の足はこの土地に縫い付けられていた。 経済的な枷は、日増しに重くなっていた。なけなしの貯金は、引っ越しの初期費用と、当面の生活費でほとんど消えていた。仕事も、クライアントからの信頼を失い、新規の依頼はぱったりと途絶えていた。数日前、新規クライアントから来ていた修正依頼のメールに、恐怖で返信できずにいるうちに数日が経過してしまった。PCを開くこと自体が、壁の向こうの「何か」を刺激するような気がして、怖かったのだ。やがて、催促の電話が鳴ったが、それにも出られなかった。そして今日、契約打ち切りを告げる冷たい文面のメールが届いた。震える指で銀行口座の残高を確認すると、来月の家賃を支払えるかどうか、ギリギリの数字が表示されている。デリバリーを頼もうとして、クレジットカードが利用不可になっていることに気づいたのは、その直後のことだった。
そして、より厄介な、心理的、あるいは物理的な枷があった。 引っ越しの時にポケットに入れた、あの黒い髪の毛。いつの間にか、それはどこかへ消えていた。しかし、それ以来、この部屋から物理的に離れようとすると、まるで重い鎖で引き戻されるような、言いようのない倦怠感と抵抗感を覚えるようになっていたのだ。一度、本気でここを出ようと、荷造りを始めたことがある。ダンボールに数冊の本を詰めただけで、猛烈な頭痛と吐き気に襲われ、その場にうずくまってしまった。まるで、この部屋自体が、彼女に出ていくことを許さないかのように。
拓也だけでなく、最後の頼みの綱として、大学時代に唯一親身になってくれた恩師に連絡を取ろうとした。しかし、大学のウェブサイトで調べると、恩師は既に退職しており、連絡先はどこにも見当たらなかった。社会との繋がりが、一つ、また一つと、静かに断ち切られていく。
逃げたくても、逃げられない。 ならば、ここで戦うしかない。自分の正気を取り戻すために。 彼女の思考は、もはや「この現象の『ルール』を理解する」という、自己防衛的な調査へと向かっていた。警察や不動産屋の態度からして、過去にも同じようなことがあったはずだ。その確信が、彼女を駆り立てた。
先行被害者の存在は、恐怖であると同時に、この暗闇の中の唯一の道標でもあった。