最後の砦
最後の砦
数日後、美咲は最後の望みをかけて、交番を訪れた。きっかけは、壁の音に混じって、一瞬だけ聞こえた、女性の「やめて!」というくぐもった悲鳴のような声だった。空耳かもしれない。でも、もし、隣の空室に誰かが不法侵入していて、事件に巻き込まれているとしたら?その正義感にも似た切迫感が、彼女の足を警察へと向かわせた。
駅前の交番にいた高橋巡査は、人の良さそうな、しかしどこか諦観を漂わせた目をした初老の警官だった。彼は、美咲の話を黙ってメモを取りながら聞いていたが、彼女が「コーポ・ソレイユの201号室で」と言った瞬間、彼の表情がわずかに曇ったように見えたが、すぐに元の無表情に戻った。
「それで、女性の悲鳴のような声が聞こえた、と」
「はい。隣の202号室からだと思います。でも、不動産屋は空室だと言っていて…」
高橋巡査は、美咲の話を遮らずに最後まで聞くと、面倒臭そうな表情を隠そうともせず、しかし職務としてこう対応した。
「分かりました。女性の悲鳴となると、事件性の可能性もゼロではありません。念のため、管理会社である『さとう企画』さんに連絡を取って、至急、お隣の202号室の室内の状況確認をさせてもらうように手配してみましょう」
「ありがとうございます…!」
美咲が少し安堵した表情を見せたのを見て、彼はさらに面倒そうに付け加えた。
「まあ、それで何かが変わるわけでもないでしょうけどね。ともかく、連絡はしておきます」
「え?」
「いえ、こちらの話です。では」
彼はそう言って、さっさと別の事務作業に戻ってしまった。
その言葉の意味を、美咲は数日後に知ることになる。 パトロール中に美咲に会った高橋巡査は、あからさまに嫌な顔をしながらも、事務的な口調で結果を告げた。
「先日の一件ですが、管理会社の佐藤さん立ち会いで202号室を確認しましたが、やはり誰もいませんでした。荒らされた形跡もなく、ただの綺麗な空き部屋でしたよ」
「そんな…でも、確かに…」
「相田さん、落ち着いてください。古いアパートではよくあることですよ、物音っていうのは。隣の部屋に人が住んでいて、騒音トラブルになっているとかなら話は別ですが、今の段階で我々がこれ以上できることは、残念ながらありません」
それは、優しさの欠片もない、冷たい拒絶だった。
警察という最後の公的機関にさえ、まともに取り合ってもらえなかったという事実が、彼女を深い絶望の淵へと突き落とした。世界が、自分だけを異常者として扱い、真実から目を背けている。その確信だけが、日に日に強まっていった。
彼女は、アパートを見上げた。命のないコンクリートの塊が、周囲の風景から切り離された、異質な存在として、曇天の下にただ無感情にそびえ立っているように見えた。