届かない声
届かない声
拓也は、週末に美咲の部屋を訪れるたびに、彼女の変化に戸惑いを隠せなくなっていた。 最初は、親身に聞いていた。
「大丈夫か?疲れてるんだよ。俺も東京にいると、たまに変な音が聞こえることあるし」。
しかし、数日後に再び電話した時、彼女の声は切迫感を増していた。
「拓也、昨日、変なことがあったの。電話していい?」
「ああ、どうした?」
電話の向こうの拓也の声は、仕事で疲れているのか、少し気怠そうだった。
「隣の部屋、やっぱり誰かいる。絶対に。だって、私のキーボードの音、真似してくるんだよ。リアルタイムで」
「……真似?」
「そう。私が打つのと、全く同じタイミングで。怖くて…」
電話の向こうで、拓也が長い溜息をついたのが分かった。
「美咲、それは考えすぎじゃないか?古いアパートなんだろ?壁が薄くて、ただ音が響いてるだけだよ、きっと」
「でも、隣は空室だって不動産屋は…」
「わかった、わかった。落ち着けって…。まあ、気にしないのが一番だって」
彼の声はなだめるような、それでいてどこか突き放すような響きを帯びていた。
そして、約束の週末。拓也は、出迎えた美咲の顔を見て、言葉を失った。彼女はひどくやつれ、目の下の隈は、化粧では隠しきれないほど濃くなっていた。部屋の中も、以前の片付いた状態が嘘のように、少し散らかっている。食べ終えたデリバリーの容器が、隅に積み重ねられていた。 彼が仕事の話や世間話を振っても、美咲の反応は上の空。すぐに「ねえ、静かでしょ。今は鳴らないの。私がおかしいって思わせたいんだよ、きっと」と壁の話に戻してしまう。
その夜、拓也は眠れずにいた。隣で眠る美咲は、ひどく魘されていた。時折、何かを振り払うように身じろぎし、「やめて」と小さく呻いている。夜中に突然起き出して、何もない壁の一点を指差し、「あそこにいる」と震える声で言うこともあった。 食事中も会話が上の空で、時折ビクッと何かに怯えたように体を震わせる。愛している恋人が、日に日に自分には理解できない世界へ行ってしまう。その姿を目の当たりにすることへの恐怖と、どうすることもできない無力感。彼にとって、その夜は彼なりの地獄だった。 彼が美咲と電話で話している最中、一度だけ、奇妙なことがあった。美咲の声の向こう側から、ジジ…というノイズに混じって、一瞬だけ、老婆が囁くような、低い声が聞こえた気がしたのだ。「誰…?」と聞き返したが、美咲は「え?何が?」と不思議そうに言うだけだった。空耳だったのだろうか。しかし、その声は、やけに耳にこびりついていた。
美咲がシャワーを浴びている間、彼はこっそりと彼女のPCを開いてみた。検索履歴には、「壁の中の音 原因」「誰もいないはずの隣室 物音」「ポルターガイスト 対策」といった言葉が並んでいた。そして、その中に混じって、「統合失調症 初期症状」「幻聴 幻覚」というキーワードを見つけてしまい、心臓が凍り付く思いがした。 彼女自身も、自分の正気を疑い始めているのだ。
翌朝、拓也は悩み抜いた末に口を開いた。
「美咲。一度、ちゃんと病院へ行ってみないか。心療内科とか。俺も一緒に行くから」
それは、彼なりの精一杯の愛情と心配から出た言葉だった。 しかし、その言葉は、美咲にとって、信じていた人間からの最後通牒に等しかった。
「拓也まで、私のこと、おかしいって言うの…?」
彼女の瞳から、光が消えた。それは、深い失望と、絶望の色だった。