共有されない恐怖
共有されない恐怖
穏やかな日々は、そう長くは続かなかった。最初の明確な異変は、梅雨入りを間近に控えた、湿度の高い日曜の深夜に訪れた。
拓也が帰り、部屋に一人。シャワーを浴びてベッドに入り、読みかけの文庫本を開いた。時計の短針は、午前二時を指そうとしている。静寂が、耳に痛いほどだった。
その時だった。
カリ……カリカリ……。
不意に聞こえた微かな音に、美咲は顔を上げた。 乾いた、神経を逆撫でするような音。隣の202号室との間を隔てる、壁の中からだ。 それは、ネズミが何かを齧る音にも似ていたが、もっと硬質で、執拗だった。まるで、壁の中に埋め込まれた古い鉄管か何かを、先の尖った金属片で、一定のリズムを保ちながら擦っているような。
(……ネズミかな) 最初は、そう思った。このあたりは、野良猫をよく見かける。ネズミがいても不思議ではない。壁の隙間にでも入り込んで、巣でも作っているのかもしれない。 そう思い込もうとしたが、音は止まない。それどころか、まるで彼女の思考を読み取ったかのように、一層強く、速くなった。 カリカリカリカリカリカリ……!
美咲はベッドからそっと抜け出し、壁に耳を当ててみた。ひんやりとした壁紙の感触が、頬に伝わる。その向こうから、音はより鮮明に、立体的に聞こえてきた。 やはり、動物の立てる音にしては、あまりにも規則的すぎた。 その夜、美咲は耳栓をして眠った。
数日間、音は聞こえなかった。
「ああ、やっぱり気のせいだったんだ。疲れてたのかな」と彼女が安堵し、ベランダのハーブの手入れをしていた、まさにその時だった。
カリ、カリカリ……。
昼間の、まだ日の高い時間帯に、音は再び始まった。 今度は、無視できなかった。白昼堂々と響くその音は、夜の静寂の中で聞いた時よりも、はるかに現実的な脅威として感じられた。 その日から、音は不定期に、しかし執拗に繰り返されるようになった。
数日後、音はさらなる質的な変化を遂げていた。 深夜、PC作業をしていると、壁の向こうから、キーボードを叩く音が聞こえてきたのだ。カタカタカタ、という音。それは、美咲自身が日中立てている音と酷似していた。
(隣の人、起きてるんだ…)
最初はそう思った。しかし、すぐに違和感に気づく。テンポが、自分のそれと完全に一致しているのだ。自分がキーを叩くと、壁の向こうでも同じタイミングで音が鳴る。自分が手を止めると、音も止まる。 まさか、と思い、彼女は試しに「A、B、C」とゆっくりキーを叩いてみた。 壁の向こうからも、カタ、カタ、カタ、と同じリズムで音が返ってくる。 胃の底から冷たいものがせり上がってくる感覚に襲われた。指先が氷のように冷たくなり、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく耳に響いた。それは、正体不明の獣に背後からじっと見つめられているような、本能的な恐怖だった。
異変は、聴覚だけにとどまらなかった。 怪奇現象が起きていない「平穏」な時間帯にこそ、説明のつかない、ごく小さな「ズレ」が頻発し始めたのだ。
朝、PCを起動すると、昨日閉じたはずのブラウザのタブが一つだけ、開いていることがあった。それは決まって、この地方都市の天気予報のサイトだった。まるで、誰かが「今日の天気だよ」と教えてくれているかのように。 冷蔵庫に入れておいた牛乳の減りが、自分の飲んだ量より僅かに多い気がする。最初は気のせいだと思ったが、マジックペンで液面に印をつけておくと、翌朝、その印より確実に数ミリ減っているのだ。 スマートフォンに、非通知設定のワン切り着信が、一日に数回、必ずかかってくるようになった。
一つ一つは、気のせいや、些細な偶然で片付けられることばかりだ。しかし、それらが重なることで、美咲の日常は、まるで少しずつピントのずれていくカメラのレンズのように、不気味な違和感に満ちていった。常に誰かに見られているような、生活の細部まで監視されているような、息の詰まる感覚。
そして、匂い。 ある夜、どこからともなく異臭が漂ってきた。それは、雨上がりの公園の土のような、湿った匂い。そして、その下に、枯れ葉が腐敗したような、わずかに酸っぱい匂いが混じっている。 不快に思い、窓を開けて換気扇を回した。すると今度は、その酸っぱい腐葉土の匂いを必死で打ち消そうとするかのような、安物のフローラル系芳香剤の、むせ返るほど甘ったるい香りが、どこからともなく漂い始めた。二つの匂いは混じり合わず、互いを打ち消しあおうとして、余計に吐き気を催す悪臭となって、部屋の空気を支配した。
ある朝、洗面所の鏡に向かった時だった。歯を磨こうと顔を上げると、鏡に映る自分の背後、肩の上に、一瞬だけ、黒い人影のようなものが映り込んだ気がした。 「えっ」と声を上げて振り返る。もちろん、誰もいない。 心臓が早鐘を打つのを感じながら、もう一度鏡を見る。自分の青ざめた顔があるだけだ。 そう思って足元に視線を落とした時、タイル張りの床に、ぽつんと、水滴が一つだけ落ちているのに気づいた。自分は、まだ顔も洗っていないのに。
美咲は、恐る恐るその水滴にティッシュを伸ばした。湿ったティッシュを鼻に近づけると、微かに、あの湿った土の匂いがした。
(幻覚じゃない…。この部屋、やっぱりおかしい…)
その疑念が、初めて、自分の精神状態への不安をわずかに上回った。助けを求めるというよりは、この奇妙な事実を誰かに知ってほしくて、この感覚が自分だけのものではないと確かめたくて、彼女はスマートフォンの番号をタップした。
不動産屋の佐藤は、昨日と同じ、明るい声だった。美咲は、できるだけ冷静に、深夜の物音や異臭、そして今朝の水滴について説明した。
「はあ……。しかしですね、相田様。お隣の202号室は、先月から空室になっているはずですが」
「空室……ですか?でも、キーボードを叩く音も…」
「ええ。以前お住まいだったサラリーマンの方は三ヶ月ほど前に退去されて、その後、短期契約で入られた方も先月末にはもう。ですから、今は間違いなく、誰も住んでおりません。そういえば、その前の前に入ってた専門学校の学生さんも、夜中に音楽の音がうるさいって苦情はありましたけどねえ。まあ、それは普通の騒音トラブルでしたけど。相田様が仰るような奇妙な話は、初めて聞きましたね」
佐藤の口調は、親身な不動産屋から、面倒なクレームを処理する業務的なトーンに変わっていた。
「古い建物ですから、水道管の音とか、そういうのが響くことも、まあ、稀にですが……。一度、こちらでも確認はしてみますが……」
それは、優しく丁寧な形に包装された「あなたの気のせいでしょう」という言葉だった。電話を切る直前、佐藤が「また、か…」と小さな声で呟いたのを、美咲は聞き逃さなかった。