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楽園の瑕瑾(かきん)

第二章:太陽荘

1 楽園の瑕瑾かきん

新しい生活は、色褪せた心に染料を垂らすように、少しずつ彩りを取り戻していった。


朝は、無理に起きない。けたたましいアラーム音ではなく、体の内側からの自然な目覚めの合図を待つ。窓の外が白み始める頃、鳥のさえずりが聞こえてくる。それは、東京では決して聞くことのできない、澄んだ音色だった。スズメやカラスではない、もっと名前の知らない、様々な鳥たちの声が、コーラスのように重なり合っていた。


小さなベランダには、いくつかハーブの鉢植えを置いた。ミントと、ローズマリーと、バジル。ホームセンターで買ってきた土の袋を開けた時、ふわりと漂う懐かしい匂いに、子供の頃、祖母の家の庭で泥遊びをした記憶が蘇った。土に触れるという行為そのものが、コンクリートとアスファルトの中で失っていた人間性や平穏を取り戻してくれるような気がした。毎朝、そのハーブたちに水をやり、少しずつ育っていくのを見るのが、新しい日課となった。


部屋に戻り、コーヒーを淹れる。東京ではインスタントで済ませていたが、ここでは豆を挽くところから始める。手動のミルをゆっくりと回すと、ゴリゴリという心地よい感触とともに、香ばしいアロマが部屋中に広がるのが好きだった。


午前中の最初の仕事は、駅前のパン屋「こむぎや」へ行くこと。ガラスの扉を開けると、「いらっしゃいませ!」という元気な声と、焼きたてのパンの香ばしい匂いに包まれる。恰幅のいい店主の田中さんと、にこやかな奥さん。言葉を交わすのは「いつものクロワッサン、ありますか?」「はいよ、お姉さんのために焼いといたよ!」というほんの少しのやり取りだが、その気取らない優しさが、ささくれだった心を温めてくれる。


家に帰り、焼きたてのパンと淹れたてのコーヒーで、遅い朝食をとる。それから、ようやく仕事に取り掛かる。 会社員時代とは違い、今は誰も彼女を急かさない。完全な静寂の中で、仕事は驚くほど捗った。それは、もはや苦痛ではなく、創造的な喜びに満ちた行為として感じられた。誰の顔色を窺う必要もない。自分の信じる「良いデザイン」を、心ゆくまで追求できる。その自由が、何よりも尊かった。


夕方、仕事に区切りがつくと、彼女は散歩に出かけた。アパートの近くには、小さな川が流れている。その川沿いの遊歩道が、お気に入りのコースだった。土手の草いきれ、水の流れる音、時折すれ違う人々の穏やかな挨拶。全てが、東京での殺伐とした日々とは対極にあった。遊歩道の脇に、半分土に埋もれ、苔むした古い石碑のようなものがあるのに気づいた。何かの慰霊碑だろうか。表面には文字が刻まれているようだったが、風化が激しく、読み取ることはできなかった。美咲は「ずいぶん古いのがあるな」と気にも留めずに、いつも通り過ぎていた。


週末になると、恋人の竹下拓也が、都心から二時間かけて車で会いに来た。彼は、美咲の変化を誰よりも喜んでくれた。

「すごいな、美咲。本当に、人が変わったみたいだ」

拓也は、美咲の作った手料理を食べながら、目を細めた。

「そうかな?」

「ああ。東京にいた頃は、いつもスイッチがオンのままだった。眉間に皺が寄ってて、話しかけるのも躊躇う時があったよ。正直、このままじゃ美咲は壊れちゃうんじゃないかって、本気で心配してたんだ」

「……ごめん。迷惑かけてたよね」

「迷惑だなんて思ってないよ。ただ、どうしてやることもできなくて、悔しかっただけだ」


ある夏の週末、二人は近くの河原でささやかなバーベキューをした。スーパーで買った肉と野菜を焼き、安い缶ビールで乾杯する。川のせせらぎと、ひぐらしの鳴き声がBGMだった。 拓也は、火の番をしながら、満足そうに言った。

「ここに来て、本当に良かったな。美咲だけじゃなくて、俺も癒されてる気がするよ。東京のオフィスにいると、どんどん自分がすり減っていくのが分かるんだ」

その言葉が、美咲には何より嬉しかった。自分の選択は、間違いではなかった。ようやく、安住の地を見つけられたのだ。

しかし、最初の異変の兆しは、そんな穏やかな時間の中に、静かに蒔かれていた。 美咲が淹れたコーヒーを飲んだ拓也が、一瞬だけ、眉をひそめたのだ。

「どうしたの?」

「いや……なんでもない。気のせいか」

彼はそう言ったが、その時、コーヒーに泥水のような後味が、一瞬だけしたことを、美咲はまだ知らなかった。

その夜、拓也は美咲が脱いだ服を畳んでやりながら、ふと顔をしかめた。彼女のシャツから、微かに、湿った土のような匂いがする。気のせいかと自分の鼻を疑い、もう一度顔を近づける。間違いない。まるで雨の日の公園で転んだ後のような、生乾きの土の匂い。


「美咲、この服、なんか変な匂いしないか?」

「え?そう?」

洗濯したばかりだというシャツを受け取った美咲は、不思議そうに首を傾げるだけだった。彼女には、何も感じられないようだった。


拓也は、それ以上何も言えなかった。ただ、説明のつかない小さな違和感が、彼の心に棘のように引っかかった。彼女がこの街に来てから、どこか変わった。それは良い変化だと信じたかったが、時折、彼女の瞳の奥に、以前とは違う種類の、深い空虚な光が宿る瞬間があることに、彼は気づき始めていた。


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