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光なき太陽荘

光なき太陽荘

物件探しは、インターネットを通じて行った。東京での人間関係をリセットしたいという思いが強く、都心から適度に離れた場所を条件にした。電車で一時間半。急行の停車駅で、駅前にはそこそこの規模のスーパーや昔ながらの商店街が揃っている。それでいて、少し歩けば閑静な住宅街が広がる。そんな都合の良い条件で検索し、ヒットしたのが「コーポ・ソレイユ」だった。


フランス語で「太陽荘」を意味する名前。 サイトに掲載された情報によれば、築年数は四十年と古いが、最近リノベーションされたばかりで、内装は綺麗だという。写真に写るフローリングも壁紙も真新しく、清潔感が漂っていた。なにより、なけなしの貯金を叩いてフリーランスになる彼女にとって、家賃が東京で借りていたワンルームマンションの半額以下という点は、抗いがたい魅力だった。


契約のために一度だけ、その街を訪れた。駅前の不動産屋「さとう企画」の事務所で、担当の佐藤と名乗る中年男性は、人の良さそうな笑顔で迎えてくれた。日に焼けた顔に、人の良さそうな皺が刻まれている。彼のデスクの隅に、『入居者関連・報告書』と厚く背表紙に書かれたファイルが一瞬だけ見えた気がしたが、その時は気にも留めなかった。彼のデスクに置かれた一枚の古い写真立てに、彼が無意識に、そっと指で触れる。その仕草は、ひどく優しく、そしてどこか物悲しげに見えたが、美咲はもちろん、そこに何が写っているのか知る由もなかった。


「こちらが例の物件ですね。コーポ・ソレイユ201号室」

佐藤は間取り図を指差しながら、事務的に説明を始めた。

「日当たりだけは、ちょっとごめんなさい、なんですけどね。北向きでして。その分、お家賃はかなり勉強させていただいてるんですが」


(太陽荘、か…)

その名前を聞いた時、美咲は皮肉な魅力を感じていた。

(光を求めて、日陰に住む。今の私に、ぴったりじゃない)


「大丈夫です。私、在宅でPCを使う仕事なので、むしろ直射日光が入らない方が集中できて助かります」

美咲がそう答えると、佐藤は「おお、そうですか!それは良かった」と大げさに相槌を打った後、一瞬だけ、彼女の目をじっと見た。査定するような、あるいは何かを見定めるような、鋭い光が瞳の奥に宿ったのを、美咲は見逃しかけた。

「ええ、ええ。都会での人間関係は、お疲れになりますものねえ。お一人で、静かに集中できる環境が、一番でいらっしゃいますよね?」

その言葉は、まるで彼女の心の内を見透かしているかのようで、美咲は少しだけ戸惑った。しかし、すぐに彼は人懐こい笑顔に戻り、

「そういえば、以前こちらにお住まいだったサラリーマンの方も、出張が多くてほとんど部屋にいらっしゃらなかったみたいで、とても静かでしたよ。きっと、相田様のようなお仕事の方には、ぴったりの環境なんだと思います」

と続けた。 その口の端が、ほんのわずかに吊り上がっている。まるで、うまくいった、とでも言うように。 その微細な表情の変化に、美咲は気づかなかった。いや、気づかないふりをしたのかもしれない。疲れ果てた心は、疑うことよりも、信じることを選ぼうとしていた。


静かな環境。それが、今一番求めているものだったからだ。


契約を済ませ、虎の子の貯金のほとんどを初期費用で使い果たし、逃げるようにして新しい街へと向かった。


引っ越し当日。トラックの助手席から見る新しい街の風景は、くたびれた印象だった。シャッターが下りたままの商店が目立ち、道行く人々の数もまばらだ。初めて生で見るコーポ・ソレイユは、ネットで見た印象よりも、さらに古びて見えた。二階建ての、何の変哲もないモルタル造りのアパート。外壁のタイルが数枚剥がれ落ち、コンクリートの地肌が痛々しく覗いている。共有廊下には、雨でもないのに、じっとりとした湿った空気が漂っていた。しかし、そんなことは些細な問題だった。東京の喧騒から逃れられたという事実だけで、十分だった。


201号室のドアを開ける。中は、綺麗にクリーニングされていた。荷物を運び入れる前に、部屋の隅々までチェックする。六畳のフローリングに、三畳ほどのキッチン。小さなユニットバス。クローゼットの奥、床との境目に、前の住人のものだろうか、細く長い、黒髪が一本だけ落ちているのを見つけた。掃除漏れだろう、と何気なくティッシュでつまみ上げる。しかし、その髪の毛は、まるで意志を持っているかように、ティッシュ越しに、彼女の指先の皮膚にぴたりと吸い付くような奇妙な感触があった。ぞわり、と背筋に軽い悪寒が走る。気のせいだと思い直したが、なぜかすぐには捨てられず、ティッシュごと、とりあえず作業着のポケットにしまった。


ダンボールの山に囲まれながら、美咲は大きく息を吸い込む。古い紙と、わずかに埃の匂いが混じった空気。 「よし」 ここで、全てをリセットするのだ。 薄暗い部屋の中で、彼女は一人、希望の光を見ていた。


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